第13話 エリオット・グレイン
隠れ家の広間では、穏やかな時間が流れていた。
リリアは、セラフィナとルドガーの三人で温かいお茶を囲み、他愛のない談笑を交わしている。
少し離れた席では、ノクスが静かに書類へ目を通しながら、時折その穏やかな光景に柔らかい視線を向けていた。
心地よい日常の空気が満ちていた、その時だった。
「――ご報告します! 森を巡回中の兵から、人間の集団がこの隠れ家の方角へ向かってきていると知らせが!」
和やかな広間に、息を切らせた若い兵士の声が鋭く響き渡る。
黒狼族の鋭い嗅覚と地の利を活かした警戒網に、招かれざる客が引っかかったのだ。
ピタリと談笑が止まる。
リリアは、嫌な予感にぎゅっと胸を締め付けられた。
「リリア。お前はここにいろ」
ただならぬ気配に、ノクスとルドガーらが同時に立ち上がる。
しかし、リリアは首を横に振った。
「いいえ。……おそらく、私を追ってきた者たちです。私も行きます」
自分の問題から、もう逃げたくはなかった。
「……俺から離れるなよ」
リリアの決意を感じ取ったノクスは短く息を吐き、そう一言だけ告げて歩き出した。
隠れ家に近い獣道。
薄暗い木立の中に立っていたのは、見慣れた幼なじみの青年だった。
「エリオット……どうして、ここに……」
リリアの姿を認めたエリオットは、泥で汚れた白いハンカチを握りしめ、パッと顔を輝かせた。
「リリア! ああ、よかった、無事だったんだね! ずっと探していたんだ!」
彼が駆け寄ろうとしたその時、背後の茂みから数人の男たちがぞろぞろと姿を現した。
明らかにガラの悪い、暴力の匂いを纏った男たちだ。彼らはリリアを見ると、下卑た笑いを浮かべた。
「見つけたぜ、お嬢ちゃん。ガルヴィス侯爵様がお待ちかねだ」
「さあ、大人しくついてきても――」
男の一人が、リリアに近づこうと一歩踏み出した。
――その瞬間。
空気が爆発するような、凄まじい突風が吹き荒れた。
「が、はっ……!?」
ドンッ! という鈍い音と共に、リリアに近づこうとした男の身体が、数十メートル後方の大樹まで文字通り吹き飛ばされる。
何が起きたのか理解できず、残りの男たちが呆然と立ち尽くす中、ルドガーののんびりとした声が聞こえた。
「ノクス……お前、ちょっとやりすぎじゃないか?」
「死んではいないだろう。ついカッとなったのは認めるが……」
男たちはようやくパニックに陥った。
「ひぃっ!? こいつらやばいぞ! 逃げ――」
だが、瞬きする間もなかった。
ノクスは逃げようとする男たちに次々と拳を叩き込み、気絶させていく。
一切の無駄がない……とは決していえない、怒りに任せた荒々しい制圧だった。
あっという間にボコボコに殴られて転がる男たちと、棒立ちでそれを見つめるエリオット。
ノクスは、そんな彼を氷のように冷たい瞳で見下ろした。
「……お前は、この状況でどうする? 何がしたい?」
その声に怒りはなく、どこかエリオットの底を試すような響きがあった。
「リリア、こっちへ来るんだ! そんな恐ろしい獣人たちのところにいたら、殺されてしまう!」
エリオットは恐怖に顔を引きつらせながらも、必死にリリアに向かって叫んだ。
「君は騙されているんだ! 早くこっちへ! 僕は君を助けたいんだ!」
その言葉に、リリアは悲しそうに目を伏せた。
「助けたい、だと?」
ノクスが、心底冷ややかな声でエリオットの言葉を遮る。
「自分が彼女をどんな地獄へ売り飛ばそうとしているかも知らずに、よく口にできたものだ」
「なっ、何を言う! ガルヴィス侯爵家に嫁げば、彼女も、没落寸前の僕たちの家も救われるんだ! みんなが幸せになる道なんだ!」
エリオットの反論を聞き、ノクスは憐れむような声で告げた。
「ガルヴィス侯爵には裏の顔がある」
その言葉に、エリオットだけでなく、リリアもわずかに目を丸くする。
「リリアは俺たちの仲間だ。仲間の問題について、何も調べないほど俺は薄情者ではない」
ノクスは、調べ上げていた事実を無慈悲に突きつけた。
「あの男は、獣人の魔力を暴走させる禁薬を研究している」
「奴がリリアを狙ったのも、若い花嫁が欲しかったからではない。彼女の母親が遺した、獣人の薬草知識を奪うためだ」
「な、にを……」
「あいつは最初から、リリアを妻として迎える気などない」
「彼女の薬草知識を搾取し、用済みになれば、地下の実験室にでも幽閉して生かさず殺さず利用し続けるつもりだろう」
その言葉を聞いた瞬間、リリアは背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒を覚えた。
もしあの夜、屋敷を逃げ出さずに、言われるがまま嫁いでいたら……
エリオットの「みんなが助かる」という言葉を信じていたら……
自分は光の当たらない地下牢で、一生を終えていたのだ。
そして何より許せないのは、母の遺した大切な薬草帳のことだ。
人を癒すために母が書き溜めた優しい知識を、獣人を苦しめるおぞましい実験のために利用しようとしていた。
その事実が、リリアの胸の奥に静かで確かな怒りの炎を灯した。
「な……嘘だ……」
一方のエリオットは、震える唇から掠れた声を漏らしていた。
「侯爵様がそんな……そんな恐ろしいことを……! だって、侯爵様は立派な貴族で……僕は、そんなこと……!」
信じようとしない。
自分が「みんなのため」と信じてやっていたことが、愛する幼なじみを最悪の地獄へ突き落とす行為だったと認めるのが、怖いのだ。
現実逃避しようとするエリオットの襟首を、ノクスが乱暴に掴み上げる。
「なら、お前のその目で確かめさせてやる。……今夜、侯爵の屋敷に潜り込むぞ」
「え……?」
エリオットが目を見開いたその時。リリアは、震える両手をぎゅっと握りしめ、一歩前へ出た。
「ノクスさん! 私も行きます」
「リリア、お前は危険だ。ここに残れ」
「いいえ」
リリアは首を横に振り、真っ直ぐにノクスの瞳を見つめ返した。恐ろしい侯爵の屋敷になんて、本当は近づきたくもない。
けれど、母の思いを最悪な形で利用しようとしたことが許せない。
ノクスにただ守られるだけでなく、彼の力になるために。
この因縁には、自分の手でけりをつけなければならない。
「侯爵が禁薬の研究をしているなら、薬草の知識がある私が絶対に役立つはずです」
ただの意地ではない。
自分が行くべき理由を口にしたリリアの瞳には、決して引かない強い意志が宿っていた。
その真っ直ぐな視線を受け止めたノクスは、やがて呆れたように短く息を吐いた。
……本当に、頑固で手のかかる
だが、彼女のその心の強さが、ノクスにはどうしようもなく好ましく、愛おしく思えた。
彼は口元に微かな笑みを浮かべると、降参するように頷いた。
「……分かった。これで全部ケリをつけよう」
「私も同行しますわ」
セラフィナが、ふわりとしっぽを揺らして進み出る。
「この子は私が守りますから。陛下は、心置きなく暴れる準備でもしていてくださいな」
「ルドガー、留守を頼みますわ」
セラフィナがふわりと微笑んで告げると、ルドガーは呆れたように肩をすくめた。
「まぁ、おまえらなら大丈夫だろう。気をつけてな」
「あとこれ潜入だからな」
「ノクスが暴れそうになったら、セラフィナがちゃんと止めるんだぞ」
「はいはい。いちいち、うるさいですね。心配せずともわかってますわ」
セラフィナがひらひらと余裕げに手を振る。
かくして、真実を暴き、過去との決別をつけるための潜入作戦が幕を開けようとしていた。




