第94話 悪役令嬢、王子とお忍びデートへ出かけます
お忍びデート当日の朝。
私はこっそりクッキーを作っていた。
「……岩塩、少しだけ」
小さく砕いて、生地へ混ぜる。
仕事で疲れていることが多いから。
甘いだけより、このくらいの方が好きかもしれない。
そんなことを考えている自分に、少しだけ顔が熱くなった。
生地を丸め、天板へ並べる。
しばらくして。
甘い香りが、静かな厨房に広がった。
「……焼けました」
こんがり焼けたクッキーを、そっと網へ並べる。
サクサクに仕上がっている。
「……大丈夫そう」
私は小さく笑い、クッキーを紙袋へ入れた。
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城門前。
今日は護衛も最低限。
アルフレッドも、いつもの王子らしい服ではなく、黒いシャツに軽い上着というラフな格好だった。
……ずるい。
普通の服なのに、すごく格好いい。
「行くぞ」
「はい、殿――」
言いかけた瞬間。
彼が少しだけ眉を寄せた。
「今日は王子ではない」
「え?」
「お前も厨房の主ではない」
一歩近づく。
低い声。
「名前で呼べ」
心臓が跳ねた。
「む、無理です」
「無理ではない」
「無理です!」
彼は小さく息を吐き、少しだけ顔を寄せる。
「……アル、だ」
耳元で落ちた声に、頭が真っ白になる。
近い。
近すぎる。
「わ、分かりましたから近づかないでください……!」
彼は少しだけ楽しそうに目を細めた。
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城下町は休日らしい賑わいに包まれていた。
露店。
花屋。
焼き菓子の香り。
王宮とは違う空気に、自然と胸が高鳴る。
「すごいですね……」
「珍しいか」
「はい。こんなふうに歩くこと、あまりなかったので」
私は辺りを見回しながら歩く。
その時。
ぐい、と腕を引かれた。
「きゃっ」
「離れるな」
人混みの中、アルフレッドが自然に私の手を引いていた。
「人が多い」
「……はい」
手が熱い。
その熱が、心臓まで伝わってくる気がした。
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しばらく歩いた先で、人気のカフェへ入った。
窓際の席。
運ばれてきたのは、苺のケーキとアイスクリーム。
「可愛いですね」
「お前が選んだんだろう」
「そうですが」
私は小さく笑い、フォークで一口食べる。
ふわふわの生地。
甘酸っぱい苺。
「……美味しい」
すると。
「そっちも食べるか?」
アルフレッドが、自分の皿をこちらへ寄せた。
「え?」
「チョコレートだ」
「……では、少しだけ」
恐る恐る口へ運ぶ。
濃厚なのに甘すぎない。
「……こっちも美味しいです」
「だろう」
少し得意そうなのが悔しい。
その時だった。
アルフレッドがふっとこちらを見る。
「……クリーム、ついてる」
「え?」
彼はポケットからハンカチを取り出した。
「じっとして」
「は、はい……」
口元をそっと拭われる。
近い。
思わず息が止まりそうになる。
「……赤いな」
「だ、誰のせいですか……!」
彼は小さく目を細めた。
「私だな」
ずるい。
本当にずるい。
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店を出た後。
城下町はさらに賑わっていた。
並ぶ露店。
焼き菓子の香り。
行き交う人々。
私は紙袋を抱えながら、隣を歩くアルフレッドを見る。
その時だった。
人の波が、一気に二人の間へ流れ込む。
「っ……」
私は思わず足を止めた。
アルフレッドの姿が、一瞬だけ人混みの向こうへ消える。
その時。
「ねぇ、お姉さん、一人?」
軽い声が飛んできた。
振り向くと、数人の男たちがこちらを見ている。
「その袋、いい匂いするな」
「俺たちにもくれよ」
私は思わず紙袋を抱きしめた。
「だ、ダメです」
「えー、ケチ」
「これは……大事なものなんです!」
その瞬間。
空気が変わった。
「――私の連れに、何の用だ?」
背後から落ちた、低い声。
男たちの顔色が変わる。
アルフレッドだった。
静かな目。
けれど、その場を支配するような圧があった。
彼は私の肩を抱き寄せ、自分の後ろへ隠す。
「……行くぞ」
男たちは慌てて逃げていった。
静かになった後も。
彼は、繋いだ手を離さなかった。
「……一瞬でも離すべきではなかったな」
少し苦い声。
「す、すみません……」
「お前のせいではない」
そのまま歩き出す。
繋がれた手は、驚くほど熱かった。
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辿り着いたのは、夕暮れの湖畔だった。
オレンジ色の光が、水面に揺れている。
「綺麗……」
「気に入ったか」
「はい」
アルフレッドが上着を広げる。
「座れ」
「ありがとうございます」
二人並んで腰を下ろした。
私はそっと紙袋を抱き直す。
「……それは?」
「え?」
「朝から大事そうに持っていただろう」
私は少し迷ってから、袋を開いた。
「クッキーです」
「作ったのか」
「……アルのために」
言った瞬間、顔が熱くなる。
アルフレッドは静かに目を見開いた。
私は慌てて続ける。
「少しだけ岩塩を入れました。疲れている時でも食べやすいかなと思って……」
彼は袋から一枚取り出す。
サクッ、と小さな音。
そして。
「……美味い」
低い声。
「店で食べたどの菓子よりいい」
「お世辞です」
「言わん」
即答だった。
私は思わず笑ってしまう。
すると。
彼がもう一枚、クッキーを取った。
「食べてみろ」
「え?」
「お前も確認しろ」
差し出される。
近い。
近すぎる。
私は真っ赤になりながら、一口かじった。
「……美味しいです」
「当然だ」
その時。
「……アメリア」
静かな声で名前を呼ばれる。
「今日は危険な目に合わせた」
「そんなこと――」
「だが」
彼の指先が、そっと私の手に触れる。
私のために守ってくれたのは、嬉しかった。
静かな声だった。
けれど、その一言だけで胸が熱くなる。
私は小さく息を吸って――
「……アル」
ようやく呼べた。
彼が一瞬だけ目を見開く。
そして。
ゆっくりと、優しく目を細めた。
「……もう一度」
「む、無理です」
「さっき呼んだだろう」
「勢いです!」
彼は珍しく、楽しそうに笑った。
夜風が静かに吹き抜ける。
遠くで、水面が揺れていた。
「……また来よう」
「え?」
「今度は、もっとゆっくり」
私は思わず笑ってしまう。
「……はい」
こうして悪役令嬢は――
王子と初めてのお忍びデートで、甘くて少し特別な一日を過ごすのだった。




