第88話 悪役令嬢、夕方の約束に落ち着きません
その日の午後。
私は厨房で生地をこねていた。
やや強めに。
「アメリア様……台が揺れています」
「気のせいです」
原因は明白だった。
――夕方、少し話がある。
アルフレッドの一言である。
内容は分からない。
分からないからこそ落ち着かない。
「手が止まっています」
エマが背後に立っていた。
怖い。
「考え事です」
「殿下のことですね」
「違います」
「顔が赤いですが」
敵しかいない。
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夕方。
中庭へ続く回廊。
「来たか」
柱にもたれていたアルフレッドが顔を上げた。
「……お待たせしました」
自然と、少しだけ声が小さくなる。
彼はゆっくりとこちらへ歩いてきた。
さっきまでの厨房とは違う、静かな空気。
「疲れていないか」
「少しだけ」
「無理はするな」
短い言葉。
でも、きちんとこちらを見て言ってくる。
「殿下こそ、お忙しいのでは?」
「問題ない」
即答だった。
やはりこの人はこういう人だ。
少しだけ、肩の力が抜ける。
「……あの、話というのは」
そう切り出すと、彼は少しだけ間を置いた。
「大したことではない」
「え?」
「顔を見ておきたかっただけだ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「……それだけですか」
「それだけだ」
真顔で言う。
ずるい。
本当にずるい人だ。
「……紛らわしいです」
「そうか」
少しだけ、彼の口元が緩んだ。
沈黙が落ちる。
でも今度は、気まずくはない。
夕焼けが差し込む回廊。
静かな時間。
その中で、彼がそっと手を伸ばした。
一瞬、触れるか迷うような動き。
そして――
やさしく、肩を引き寄せられる。
「……っ」
驚いたのに、不思議と抵抗は出なかった。
包み込まれるような距離。
強くない。
けれど、確かに守られている感覚。
「少しだけ」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
前と同じ言葉。
でも、意味が違う気がした。
「……はい」
自然と、そう答えていた。
「落ち着いたか」
「……少しだけ」
正直に答えると、彼はわずかに息を吐いた。
安心したように。
そのまま、少しだけ時間が流れる。
何も言わなくてもいい時間。
その時――
「きゃー!」
「痛っ!」
植え込みの向こうから声が上がった。
ルシアンとセシリアである。
「見学は終わりです」
エマの声が冷静に響く。
私は顔を覆った。
こうして悪役令嬢は――
夕方の穏やかな時間まで見物されるのだった。




