第80話 悪役令嬢、婚約披露会の朝に逃げたくなります
婚約披露会、当日。
私は朝から現実逃避していた。
「……熱がある気がします」
「ありません」
「立てません」
「立っております」
「記憶がありません」
「昨日の夕食は魚料理でした」
エマが即答してくる。
逃げ道が一つずつ塞がれていく。
現在私は、自室で豪華すぎる支度の真っ最中だった。
髪は丁寧に巻かれ、真珠の飾りが編み込まれ、淡いクリーム色のドレスは息をのむほど美しい。
……他人事のように言っている場合ではない。
「本当に私が着るんですか、これ」
「はい」
「間違って王妃様用では」
「アメリア様用です」
「返品できますか」
「できません」
世の中は非情である。
侍女たちが裾を整え、香水をひと吹きする。
部屋には柔らかな花の香りが満ちた。
鏡の前に立たされ、自分の姿を見る。
そこには、見慣れない女性がいた。
元悪役令嬢だの、厨房係だの言っていた私ではなく――誰かの隣に立つ準備を整えた姿。
胸が、急に苦しくなる。
「……エマ」
「はい」
「私、本当に大丈夫でしょうか」
初めて弱音がこぼれた。
エマは鏡越しに私を見る。
その目はいつも通り冷静で、少しだけ優しかった。
「大丈夫でなければ、殿下がここまで進めておりません」
「それは、あの人が強引だからでは」
「それもあります」
認めるのですね。
「ですが」
エマは私の肩にそっと手を置く。
「アメリア様が隣に立つと決めたから、ここまで来たのです」
言葉が胸に落ちる。
その時、扉が叩かれた。
「入れ」
エマが応じると、現れたのはアルフレッドだった。
正装姿である。
濃紺の礼服に金の装飾。
いつも以上に整いすぎていて腹が立つ。
「……早いですね」
「落ち着かない」
「は?」
「お前が逃げる気がした」
失礼すぎる。
否定できないのが悔しい。
エマは静かに一礼した。
「私は外しております」
「裏切り者!」
誰も助けてくれない。
部屋に二人きりになる。
私は視線の置き場に困り、カーテンを見るふりをした。
アルフレッドがゆっくり近づいてくる気配がする。
「アメリア」
「……はい」
「こっちを見ろ」
「今は無理です」
「命令だ」
横暴である。
しぶしぶ顔を上げると、彼は数秒黙った。
珍しい。
「……どうしました」
「いや」
また黙る。
その耳が少し赤い。
私は瞬きをした。
「まさか緊張してます?」
「していない」
即答が早い。
「顔が少し赤いです」
「光の加減だ」
朝ですけど。
彼は咳払いすると、私の前に片膝をついた。
思考が止まる。
「な、何を」
「落ち着け」
あなたが言いますか。
彼は私のドレスの裾を整え、しわを丁寧に伸ばした。
そして見上げる。
「綺麗だ」
呼吸が止まった。
「……え」
「誰にも見せたくないくらいには」
そのまま立ち上がり、私の手を取る。
「だから早く終えて、連れて帰る」
「婚約披露会ですよね?」
「建前だ」
ひどい。
でも、少し笑ってしまった。
震えていた指先に力が戻る。
アルフレッドは手を握り直した。
「行くぞ」
「……はい」
こうして悪役令嬢は――人生最大の日の朝、王子に迎えに来られるのだった。




