第76話 悪役令嬢、初めての喧嘩をします
婚約披露会の準備は、着実に進んでいた。
招待客の名簿。
会場装飾の打ち合わせ。
ドレスの最終調整。
私はその合間を縫って、いつも通り厨房にも立っている。
忙しい。
とても忙しい。
「アメリア様、こちらの刺繍案はいかがでしょう」
「後で見ます!」
「庭園の花の候補が届いております」
「後で!」
「本日の礼法の復習を」
「あとでぇ……」
机に突っ伏した私を見て、エマがため息をついた。
「皆様、追い込みすぎです」
珍しく味方だ。
「アメリア様、本日は少し休まれてください」
「……休めるの?」
「殿下が庭園でお待ちです」
休みではなかった。
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夕暮れの庭園は静かだった。
噴水の音と、風に揺れる花の香り。
その中央で、アルフレッドが立っていた。
今日も姿勢が良い。
腹が立つくらい整っている。
「来たか」
「来ました」
「疲れているな」
「誰のせいだと思っているんですか」
彼は少し眉を動かした。
「母上だ」
「半分正解です」
私はベンチへ座り、深く息を吐いた。
アルフレッドも隣に腰を下ろす。
少し沈黙が落ちた。
それから彼は静かに言った。
「……無理なら、披露会は延期させる」
私は顔を上げた。
「え?」
「お前の負担が大きい。急ぐ必要はない」
その声は本気だった。
優しさだと分かる。
分かるのに――胸の奥がちくりと痛んだ。
「……それは、私が頼りないからですか」
「違う」
「では、恥ずかしいのですか」
「何を言っている」
「元悪役令嬢との婚約披露会なんて、やはり周囲の目がありますものね」
言った瞬間、自分でも最低だと思った。
疲れているのだ。
分かっている。
でも止まらなかった。
アルフレッドの空気が変わる。
「……本気でそう思っているのか」
低い声だった。
「知りません」
私は立ち上がった。
「もう戻ります」
腕をつかまれた。
強くはない。
けれど逃げられない力だった。
「逃げるな」
「離してください」
「嫌だ」
「子どもですか」
「今はそうでもいい」
私は思わず彼を見た。
いつも冷静な彼が、珍しく少し乱れている。
前髪が風で崩れ、ネクタイもわずかに緩んでいた。
「……お前は、どうしてそうなる」
「どうしてって」
「私がどれだけ、お前を表に立たせたいと思っているか分からないのか」
言葉を失った。
アルフレッドは私の手を握ったまま、まっすぐこちらを見る。
「隠したいなら、披露会など開かない」
「……」
「誰に何を言われても、お前が私の隣にいると示したい」
心臓が、鐘のように鳴った。
「なのに、お前は……」
そこで彼は視線を逸らした。
少しだけ、悔しそうに。
「……私の気持ちを、いつも低く見積もる」
その一言が胸に刺さった。
私は何も言えなくなる。
しばらくして、やっと小さく呟いた。
「……ごめんなさい」
アルフレッドは黙っていた。
私は勇気を振り絞る。
「その……嬉しかったんです。延期してもいいって言ってくれて」
「……ああ」
「でも、怖くもあって。私で本当にいいのかって」
彼は深く息を吐いた。
それから、少しだけ呆れたように笑う。
珍しい笑顔だった。
「お前以外で準備した覚えはない」
「……それ、告白ですか?」
「二度目だ」
私は思わず吹き出した。
すると彼は私の手を引き、そっと引き寄せる。
「仲直りだ」
「命令形ですか」
「嫌ならやめる」
「……嫌とは言っていません」
小さく抱きしめられた胸元は、驚くほど温かかった。
こうして悪役令嬢は――初めての喧嘩をして、前より少しだけ近づくのだった。




