第68話 悪役令嬢、王妃様に花嫁修業開始を告げられます
名前呼び事件の翌朝。
私は寝不足だった。
理由は明白である。
昨夜、庭園でアルフレッドに名前を呼ばれた。
『……アメリア』
たったそれだけのことを、私は夜中まで何度も思い出してしまったのだ。
「重症ですね」
朝からパン生地をこねながら呟いた私に、侍女ミラが冷静に言った。
「違います」
「では寝不足の理由は?」
「小麦粉のことを考えていて」
「嘘が下手です」
やめてほしい。
そこへ厨房の扉が勢いよく開いた。
「アメリアさん!」
明るい声とともに現れたのは王妃様だった。
なぜ朝から厨房へ来るのだろう。
しかもやけに楽しそうである。
「お、おはようございます」
「おはようございます。今日は良い知らせを持ってきました」
嫌な予感しかしない。
王妃様は満面の笑みで告げた。
「本日より、花嫁修業を始めます!」
厨房が静まり返った。
私も止まった。
「……はい?」
「ですから、花嫁修業です」
「誰のですか」
「もちろん、あなたのです」
逃げたい。
全力で逃げたい。
「ま、待ってください。私はただの料理人で――」
「違います」
王妃様はぴしゃりと言い切った。
「未来の王子妃候補です」
厨房中がざわついた。
料理長が咳き込み、ミラはにこにこしている。
裏切り者だ。
「こ、候補という言葉に救いを感じます……」
「安心なさい。もうほぼ決定です」
安心できない。
「アルフレッドも了承済みです」
「えっ」
その瞬間、入口に当人が立っていた。
「聞いていない顔だな」
「聞いていません!」
「今聞いただろう」
そういう意味ではない。
彼はいつもの落ち着いた顔で近づいてくる。
「最低限の礼儀作法は必要だ」
「私は元令嬢です!」
「昨日、スープ皿を自分で下げようとしていた」
痛いところを突かれた。
職業病である。
「それは癖です!」
「王妃教育で直る」
勝手に決めないでほしい。
王妃様は扇子を広げ、楽しそうに説明を始めた。
「本日の予定はこちらです」
一、姿勢の矯正。
二、歩き方の確認。
三、お茶会での会話術。
四、ダンス復習。
五、王子の扱い方。
「最後の項目がおかしいです!」
「一番大事です」
アルフレッドが小さくため息をついた。
「母上、遊ぶな」
「遊んでいません」
絶対遊んでいる。
私は助けを求めて彼を見た。
恋人なのだから少しは庇ってほしい。
だが彼は平然と言った。
「頑張れ、アメリア」
裏切り者がここにもいた。
「殿――アルフレッド様!」
慌てて言い直すと、彼の眉がぴくりと動いた。
嬉しそうにするな。
王妃様が手を叩いた。
「今のは良いですね! では修業中はその呼び方で」
「増やさないでください!」
「では参りましょう」
両腕を取られ、私はずるずると連行される。
「料理長! 助けてください!」
「午後の仕込みまでには返してください!」
見捨てられた。
振り返ると、アルフレッドが珍しく口元を緩めていた。
笑っている。
あの人、完全に面白がっている。
こうして悪役令嬢は、恋人になった途端――王妃様による本格的な花嫁修業へ突入するのだった。




