第66話 悪役令嬢、恋人なのに呼び方が変わりません
朝食会で盛大に公開処刑されたその日。
私は逃げるように厨房へ戻っていた。
「アメリア様、お疲れさまでした」
侍女ミラが同情の眼差しを向けてくる。
「何も終わっていません……」
むしろ始まったばかりだ。
恋人になった。
王宮中にも知れ渡った。
王妃様は祝いの準備を始めた。
そして何より問題なのは――
「殿下」
「またそれか」
背後から低い声がした。
振り向けば、アルフレッドがいつの間にか厨房入口に立っていた。
なぜこの人は足音がしないのだろう。
「な、何でしょうか」
「何でしょうか、ではない」
彼は真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
料理人たちが一斉に壁際へ避難した。
見世物ではない。
「今、何と呼んだ」
「殿下……ですが」
「私は昨日、お前の何になった」
「こ、恋人です」
「なら、なぜまだ殿下なんだ」
その一言で厨房中が静まり返った。
やめてほしい。
全員聞いている。
「そ、それは長年の癖と申しますか……」
「直せ」
簡単に言わないでほしい。
「無理です!」
「無理ではない」
「無理です!」
「やれ」
「横暴です!」
言い合いになっている。
料理長が背を向けて肩を震わせていた。
笑っているな、あれは。
アルフレッドは一歩近づき、少しだけ声を落とした。
「私だけ、他人のような呼び方をされるのは気に入らん」
心臓が止まりかけた。
ずるい。
そういう言い方はずるい。
「で、ですが……名前で呼ぶなど」
「恋人なら普通だ」
「普通ではありません!」
「王宮基準では知らん」
知らないなら言わないでほしい。
ルシアンがひょこっと厨房へ顔を出した。
「面白そうなことしてる!」
「していません!」
「兄上、呼んでもらえば? アルフレッド様〜って」
「黙れ」
即答だった。
ルシアンはけらけら笑っている。
王妃様まで来そうで怖い。
アルフレッドは私を見下ろしたまま言う。
「今ここで呼べ」
「嫌です!」
「なぜだ」
「恥ずかしいからです!」
「私は昨日、好きだと言った」
「それとこれとは別です!」
「別ではない」
ある。
絶対ある。
彼は少し考えるように黙り、やがて静かに告げた。
「……では、人のいない場所ならいいのか」
私は思わず口をつぐんだ。
人前よりは、ましである。
その沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「分かった」
何が分かったのか怖い。
そのまま彼は静かに向きを変え、厨房を後にした。
「ゆ、夕方、庭園へ来い」
またですか。
「返事は不要だ」
必要でしょう。
そう言い残し、彼は去っていく。
厨房に静寂が落ちた。
数秒後。
「きゃー!」
侍女たちの歓声が上がった。
「恋人らしい!」
「呼び方問題ですって!」
やめてほしい。
私は顔を覆った。
料理長がにやにやしながら言う。
「頑張れ、アメリア」
「何をですか……」
「王子の名前を呼ぶ練習だ」
私はその場でしゃがみ込みたくなった。
その日の午後。
パンをこねながら、私は小さく呟く。
「ア、アル……」
無理。
「フレ……」
無理無理。
「……殿下でいいではありませんか」
現実逃避した私に、周囲から生温かい視線が注がれた。
こうして悪役令嬢は、恋人になったにもかかわらず――最大の難関“名前呼び”に直面するのだった。




