第142話 悪役令嬢、王太子妃としての第一歩を踏み出します
数日後。
王宮の空気は、また少し慌ただしくなっていた。
「視察日程はこちらです!」
「地方領主への連絡は完了しました!」
「馬車の準備も進んでおります!」
廊下では使用人たちが慌ただしく行き交っている。
私はその様子を見ながら、小さく息を吐いた。
(……本当に始まるんですね)
王太子妃としての、本格的な公務。
今回向かうのは、王都から少し離れた川沿いの街だった。
水運が盛んな土地。
香草栽培と川魚料理でも有名らしい。
「緊張していますね」
隣でエマが静かに言った。
「……顔に出ていますか?」
「かなり」
最悪である。
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その日の午後。
私は王宮の図書室へ来ていた。
机の上には、分厚い資料が山積みになっている。
「地域資料」
「産業報告」
「歴史」
「人口推移」
「特産物一覧」
多い。
明らかに多い。
私は思わず遠い目になった。
「……全部読むんですか」
「最低限は」
エマが即答した。
逃げ道がない。
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私は一冊の資料を開く。
「川魚料理……」
思わずそこへ目が止まる。
「名物は香草焼きと、川魚の燻製……」
さらにページをめくる。
「保存用の干物文化もあるんですね」
「気候が湿気を含みやすいため、香草を使った保存食が発展した、と……」
私は自然と読み込んでいた。
その時だった。
「やはりそこを見るか」
低い声。
振り向く。
アルフレッドだった。
「殿下」
彼は静かに机の向かいへ座る。
その視線が、私の開いている本へ向いた。
「食文化から入るのは、お前らしい」
私は少しだけ笑った。
「食べ物を見ると、その土地が分かる気がするんです」
「気候も」
「水も」
「生活も」
「全部、料理に出るので」
アルフレッドは静かに聞いていた。
そして、小さく頷く。
「悪くない視点だ」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
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その時。
「失礼します!」
勢いよく扉が開いた。
「兄上ー!」
ルシアンだった。
相変わらず元気である。
「騒がしい」
アルフレッドが即座に返す。
だがルシアンは気にしない。
「視察の街って、あそこだよね?」
「川魚の串焼きめちゃくちゃ美味しいよ!」
私は思わず顔を上げた。
「串焼き?」
「うん!」
ルシアンが楽しそうに頷く。
「あと香草スープ!」
「寒い日に飲むと最高なんだよね」
私は完全に興味を持ってしまった。
「……香草は何を使うんですか?」
「そこ食いつく!?」
ルシアンが吹き出す。
「いや、義姉上らしいけど!」
アルフレッドが小さく息を吐いた。
「知っている」
「兄上も食べたことあるの?」
「ああ」
「美味い」
短い。
でも。
その一言だけで期待値が上がる。
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「ただ」
アルフレッドが静かに続ける。
空気が少し変わった。
「現地を知らずに行っても、見えるものは半分になる」
私は自然と背筋を伸ばす。
「その土地がどう生きているのか」
「何を大切にしているのか」
「何に困っているのか」
「それを知るために行く」
低い声。
でも。
どこまでも真っ直ぐだった。
私は小さく息を呑む。
(……そうか)
ただ“行く”だけではない。
見るために、学ぶ。
知るために、準備する。
「……はい」
私は静かに頷いた。
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ルシアンはその空気を察したのか、
「じゃ、俺は仕事戻る!」
と軽やかに立ち上がる。
そして去り際。
「義姉上」
「はい?」
「香草スープ、絶対飲んでね」
にっと笑う。
「美味しいから」
そう言い残して去っていった。
私は思わず笑ってしまう。
本当に、分かりやすい。
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静かになった図書室。
私は再び資料へ視線を落とした。
その時。
「全部覚える必要はない」
低い声。
私は顔を上げる。
アルフレッドが静かにこちらを見ていた。
「知ろうとすることが大事だ」
「現地で見る」
「聞く」
「感じる」
「それが公務だ」
その声は、静かだった。
でも。
どこまでも真っ直ぐだった。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「……はい」
私は小さく頷く。
すると。
アルフレッドが私の手元へ視線を落とした。
開きっぱなしだった分厚い資料。
彼はそっと、それを閉じる。
「アメリア」
「はい」
「無理はするな」
少し乱れた私の前髪を、指先で優しく払う。
その仕草があまりにも自然で。
胸が、どくんと跳ねた。
「……アルフレッド様」
「何だ」
「急に優しくしないでください」
「優しくしているつもりはない」
即答だった。
ずるい。
本当にずるい。
私は少しだけ頬を膨らませる。
すると。
アルフレッドが、ほんの少しだけ目を細めた。
「だが」
低い声。
「お前が頑張っているのは知っている」
その一言が、胸へ真っ直ぐ落ちる。
私は思わず視線を逸らした。
「……まだ、全然です」
小さく呟く。
すると。
「問題ない」
また即答だった。
「お前は、ちゃんと前へ進んでいる」
胸が熱くなる。
私は思わず小さく笑った。
「……殿下って、本当にずるいです」
「今さらだな」
少しだけ楽しそうな声。
その時。
夕陽が窓から差し込む。
赤く染まる図書室。
積み重なった資料。
でも。
その空気は、不思議なくらい穏やかだった。
昼間は完璧な王太子夫妻。
でも。
今はただ、お互いを支え合う夫婦だった。
ただ王太子妃として行くのではなく。
ちゃんと知って。
ちゃんと感じたい。
その土地を。
そこに生きる人たちを。
そう思いながら。
私は静かに、アルフレッドの肩へ寄り添った。
こうして悪役令嬢は――
“王太子妃としての第一歩”を、少しずつ踏み出していくのだった。




