第107話 悪役令嬢、王子と初めての公務へ向かいます
その日の朝。
私は鏡の前で、人生最大級に緊張していた。
「無理です」
「何がですか」
エマが即答する。
「全部です」
「却下です」
最近この流れが多い。
私は深くため息をついた。
今日は――
婚約後、初めてアルフレッドと共に王宮の外へ出る日だった。
正式な公務。
行き先は、王都の孤児院。
王妃様の視察を引き継ぐ形で、私たちが訪問することになったのだ。
「王子妃教育、まだ途中ですよ……」
「だからこそです」
エマは淡々と言う。
「実際に見ることも必要です」
正論だった。
反論できない。
私はもう一度鏡を見る。
淡い紺色のドレス。
派手すぎず、動きやすい。
胸元には、以前王妃様からいただいた小さなブローチ。
「……変ではありませんか?」
「問題ありません」
エマは一瞬も迷わなかった。
その時。
「準備はできたか」
低い声が響く。
振り向く。
アルフレッドだった。
今日は正装ではなく、動きやすさを重視した濃紺の装い。
それでも隠しきれない王族感がある。
ずるい。
「……おはようございます」
「顔色が硬いな」
「誰のせいだと思っているんですか」
「私だな」
即答だった。
最近、認めるのが早い。
彼は静かにこちらへ近づく。
そして。
「似合っている」
さらりと言った。
「っ……」
不意打ちだった。
エマが静かに視線を逸らす。
逃げた。
「……ありがとうございます」
小さく返すと、アルフレッドはわずかに目を細めた。
「行くぞ」
差し出される手。
私は少しだけ迷って――
そっと重ねた。
---
王宮の馬車は、静かに王都を進んでいた。
窓の外。
賑やかな通り。
開店準備をする店。
走り回る子どもたち。
王宮の中とは違う空気。
「久しぶりです」
私は小さく呟く。
「王都へ出るの」
「そうか」
アルフレッドは短く返した。
その時。
馬車が少し揺れる。
私は思わず身体を傾け――
「危ない」
ぐい、と引き寄せられた。
近い。
近すぎる。
「だ、大丈夫です!」
「そうは見えん」
彼は平然としていた。
心臓に悪い。
---
やがて。
馬車がゆっくり止まった。
「到着しました」
エマの声。
私は小さく息を吸う。
(大丈夫)
隣を見る。
アルフレッドが当然のように立っていた。
「行くぞ」
「……はい」
馬車を降りる。
その瞬間。
ぱっと、周囲の空気が変わった。
「殿下だ……!」
「婚約者様も……!」
視線が集まる。
少し緊張する。
だが。
「アメリア」
低い声。
「前を向け」
私は小さく息を吐いた。
「……はい」
顔を上げる。
すると。
孤児院の入口で、小さな子どもたちがこちらを見ていた。
興味津々の目。
少しだけ緊張した顔。
私は自然と膝を折り、目線を合わせる。
「こんにちは」
できるだけ柔らかく笑う。
すると。
一人の小さな女の子が、おずおずと近づいてきた。
「……おひめさま?」
思わず目を丸くする。
後ろで、アルフレッドが小さく咳払いした。
絶対笑っている。
「違います」
私は慌てて首を振る。
「私は――アメリアです」
そう名乗ると。
女の子は少し安心したように笑った。
「アメリアさま!」
その笑顔に。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
---
その後。
私たちは孤児院の中を案内されていた。
「現在、子どもたちは三十二名おります」
院長が静かに説明する。
「年齢は五歳から十五歳までです」
私は周囲を見渡した。
建物は綺麗に掃除されている。
子どもたちの服も清潔だ。
だが――
(少し、痩せている?)
数人の子どもたちが、少し細い。
食堂へ入る。
並べられた昼食。
パン。
薄いスープ。
少量の野菜。
私は静かに視線を落とした。
「……最近、食材の値段が上がっておりますので」
院長が申し訳なさそうに言う。
「できる限り工夫はしておりますが……」
私は小さく頷いた。
責める気にはなれない。
むしろ、限られた環境で努力しているのが分かる。
私はそっとスープを見る。
具材の切り方。
量。
塩加減。
(栄養が足りていない)
その時だった。
「アメリア」
アルフレッドが静かに呼ぶ。
「気づいたか」
「……はい」
短く答える。
「野菜とタンパク質が不足しています」
院長が目を見開いた。
私は続ける。
「量だけではなく、栄養の偏りがあります」
「特に成長期の子どもには、もう少し必要です」
その場が静まり返る。
院長は少し俯いた。
「……やはり、分かりますか」
「ですが、予算が」
苦しそうな声だった。
私はしばらく考え――
そして、ゆっくり口を開く。
「例えば」
皆の視線が集まる。
「スープを工夫できます」
「え?」
「野菜を細かく刻み、量を増やすんです」
「豆類を少し入れるだけでも、栄養は変わります」
「パンも、固くなったものをスープへ入れれば、食べやすくなりますし、満足感も出ます」
院長が驚いたようにこちらを見る。
私はさらに食堂を見渡した。
「香草を育てる場所もありますね」
「え?」
「小さな畑でも、香りが加わるだけで食欲は変わります」
「子どもたちと一緒に育てれば、勉強にもなります」
静かな沈黙。
その後。
「……なるほど」
低い声。
アルフレッドだった。
彼は静かに周囲を見る。
「教育にも繋がるな」
「はい」
私は頷く。
「食べることは、生きることですから」
その瞬間。
院長の目が、少しだけ潤んだ。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
---
その後。
子どもたちが勉強している部屋へ案内された。
古い本。
擦り切れた机。
それでも、皆真剣に文字を書いている。
その中で。
一人の男の子が、こっそり紙を隠した。
私はそっと近づく。
「どうしました?」
男の子は困った顔をした。
「……計算が、分からなくて」
私は自然と隣へ座った。
「どこですか?」
小さな手が、おずおずと紙を差し出す。
私は一緒に数字を見る。
その時。
周囲の子どもたちも、少しずつ集まってきた。
「アメリアさま、これも!」
「ぼくも!」
一気に賑やかになる。
私は思わず笑ってしまった。
「順番です」
すると。
後ろでアルフレッドが、小さく息を吐いた。
「人気者だな」
「……助けてください」
「無理だ」
即答だった。
「なぜですか」
「お前しか見ていない」
またそれだ。
こんな場所で言うことではない。
エマが静かに天井を見ていた。
完全に聞こえている。
---
帰りの馬車。
私は少し疲れながら、窓の外を見ていた。
王都の夕暮れ。
静かな光。
「……考えていました」
私はぽつりと呟く。
「何をだ」
「できることです」
孤児院の食事。
子どもたち。
勉強道具。
まだ足りないものが多い。
すると。
「なら、やればいい」
アルフレッドが静かに言った。
私は彼を見る。
「簡単に言いますね」
「簡単ではない」
短く返される。
そして。
「だから、お前が必要だ」
胸が、少しだけ熱くなる。
「……まだ、未熟です」
正直に言う。
すると。
「知っている」
即答だった。
「だが、お前は見る」
その言葉に。
私は静かに目を見開く。
「見ようとする者は、強い」
低い声。
でも。
その声は、どこまでも真っ直ぐだった。
私は小さく息を吐き――
そして、少しだけ笑った。
「……頑張ります」
すると。
アルフレッドはほんの少しだけ目を細めた。
「それでいい」
馬車は、夕暮れの王都をゆっくり進んでいく。
こうして悪役令嬢は――
初めての公務の中で、“王子妃としての役目”を少しずつ見つけ始めるのだった。




