第105話 悪役令嬢、王子妃教育の現実を知ります
セシリアが帰った翌朝。
私は自室の窓辺で、小さく息を吐いていた。
昨日まで賑やかだった分、少し静かに感じる。
「……頑張っていたわよね」
思い出すのは、セシリアの姿だった。
緊張しながらも笑顔を忘れず、丁寧に会話をしていた。
以前よりずっと、大人びて見えた。
(……私も頑張らないと)
未来の王子妃として。
アルフレッドの隣に立つために。
私は小さく頬を叩く。
「負けていられません」
その時だった。
「本日より、本格的に再開します」
背後から静かな声が落ちた。
「ひゃっ!?」
振り返る。
そこには――
マルグリット・ヴァレンシア。
逃げ場のない王子妃教育担当である。
「おはようございます、アメリア様」
「お、おはようございます……」
なぜこの人は気配なく現れるのだろう。
怖い。
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数十分後。
私は王宮の応接室で、早くも限界を迎えていた。
「違います」
ぴしゃり、と扇が閉じられる。
「お茶を飲む前に、一度会話を挟みます」
「……はい」
「相手が話しやすい空気を作るのも、王子妃の役目です」
難しい。
料理より難しい。
「次は外交時の会話です」
「外交」
嫌な予感しかしない。
マルグリットは淡々と言葉を続ける。
「先日の交流祭以降、あなたは既に“未来の王子妃”として見られています」
空気が少し変わった。
「あなたの言葉一つが、王家の言葉として扱われることもあります」
私は小さく息を呑む。
(……本当に、変わったんだ)
婚約した。
隣国にも紹介された。
もう、“ただの伯爵令嬢”ではない。
胸の奥が少しだけ重くなる。
すると。
「ですが」
マルグリットが静かに続けた。
「必要以上に恐れる必要はありません」
「え?」
「あなたには既に、“見る力”があります」
私は目を瞬かせた。
「見る力、ですか?」
「はい」
マルグリットは紅茶を置く。
「厨房で、常に周囲を見ているのでしょう?」
「それは……はい」
「誰が疲れているか」
「何が足りないか」
「誰が困っているか」
「それを自然に見ている」
静かな声。
「王子妃に必要なのも、同じです」
私は思わず言葉を失った。
(……同じ)
料理も。
王子妃教育も。
相手を見ること。
その本質は、変わらない。
「では」
マルグリットが扇を閉じる。
「次は、来賓対応です」
「まだあるんですか!?」
「当然です」
厳しい。
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昼過ぎ。
私は完全に疲れ切っていた。
「もう無理です……」
思わず机へ突っ伏す。
エマが静かに近づいた。
「お疲れ様です」
「エマ……」
「本日はまだ半分です」
「嘘でしょう」
絶望しかない。
その時。
「随分と疲れているな」
低い声が落ちた。
私はゆっくり顔を上げる。
「……殿下」
アルフレッドだった。
今日も相変わらず整った姿。
悔しい。
彼は私を見るなり、小さく息を吐いた。
「顔に出ている」
「王子妃教育のせいです」
「当然だな」
否定してほしかった。
私はぐったりしたまま机に伏せる。
「厨房へ逃げたいです……」
「無理だ」
即答だった。
ひどい。
すると。
ことり、と音がした。
目の前に、ティーカップ。
アルフレッドが無言で置いたものだった。
「……ありがとうございます」
「飲め」
素直に口をつける。
温かい。
少しだけ、張り詰めていた力が抜けた。
その時。
「褒められていた」
ぽつり、とアルフレッドが言った。
「……え?」
「マルグリットが」
私は目を見開く。
「本当ですか?」
「ああ」
短く頷く。
「飲み込みが早いと」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「……でも、まだ全然です」
小さく呟くと。
アルフレッドは静かにこちらを見た。
「問題ない」
その声は、いつも通り落ち着いていた。
「お前は、ちゃんと前に進んでいる」
不意打ちだった。
心臓が、少しだけ跳ねる。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そういうことを、平然と言うところです」
彼は少しだけ目を細めた。
「事実だ」
またそれだ。
でも――
嫌ではない。
私は小さく息を吐き、そっと笑った。
「……負けていられませんね」
「誰にだ」
「セシリアに、です」
その瞬間。
アルフレッドが少しだけ驚いた顔をした。
だがすぐに、小さく口元を緩める。
「そうか」
そして。
「なら、私は安心だな」
その言葉が。
不思議なくらい、嬉しかった。
こうして悪役令嬢は――
未来の王子妃として、少しずつ前へ進んでいくのだった。




