27◆待ちわびた人
馬上の男――アーネストが降り、ルルアに向かってやってくる。その足は少し引き摺っていた。
「ルルア」
「はい」
「…傷で驚かせてしまうかもしれないが」
「…お顔を、見せてくださいませ」
ルルアの言葉に、アーネストがゆっくりとフードを脱いだ。美しかったアーネストの顔は額から瞼を抜け頬まで届く傷があり、傷のある右の目は白く濁っていた。他にも小さな傷跡や痣が残っている。その姿を見てルルアの目に涙が溢れる。こんなに静かな人が、相手を怖がらせたくない人が、こんなになるまで戦いを強いられてきた。その事実がとても悲しかった。
「よく、生きて…帰って…」
「帰りたいと思ったんだ。この森に」
見れば、左手の指も無くしている。苛烈な戦場だということはギルドの噂で聞いていた。何もできない自分がもどかしく思ったが、現実としてルルアにできることは日々の暮らしを守っていくことだ。このエルガ領は戦場となっている西の国境線とは遠く離れているので戦争の影響も少ない。訪ねてくると言っていたこの場所を、穏やかに保つことだけがルルアの役割だ。
「あなたからの手紙に、この森の暮らしのことが書いてあった。早くそれが見たかった」
「はい、ええ、早く魔女様の家に行きましょう!お疲れでしょう!」
「………」
「……エルガ公爵?」
「もう少し、ルルアと二人でいては、だめか?」
ルルアは少し考える。きっと馬を駆けてきて疲れているだろうと思うけど、話したいこともあるのだろう。
「では、手紙に書きました休憩所に行きましょう。今はランプも設置しているんですのよ?暗くなっても心配ございませんわ」
そう言って、二人は魔女の家の方角へ歩き出した。ゆっくりとした蹄の音が森に響く。
「てっきりこちらに戻られる時は、もっと立派な凱旋をされるのかと思ってましたの」
「戦場で味方の陣からはぐれてしまった。どうにか近隣の村に辿り着いて、先日まで世話になっていたのだ。今度正式に礼をしなくてはならない。そこから馬でここまで来た」
「え?」
「ん?」
「王都には戻られていないのですか?」
「ああ」
では、セラフィーナの言っていたのは、嘘ではないが本当のことも言っていなかったのだ。音信不通は本当だが、忙しさなどではなく、行方不明だったのだ。黙っていたのはルルアに心配させまいとしたのだろう。それにしたって戦場から王都の方が近かっただろうに、無茶をする人だとルルアは思う。そんなことを話しているうちに魔女に家に到着した。
「馬はこちらで休んでもらってくださいな。ちょっと待っていてくださいね、お茶を持ってきますから」
そう言ってルルアが家の中に入ると、入れ違いに魔女が出て来た。
「おかえりなさい、エルガ公爵」
「ああ。母が世話になっているようだな」
「えぇ?ふふ、あの子そんなことも書いてるのね。さっきも来てたよ」
「そうか」
二人が言葉を交わしていると、ルルアがバスケットを持って出て来た。いつものお茶セットである。
「では魔女様、行ってまいります」
「ああ、ひざ掛けも持っていきな。馬のことは任せて行っておいで」
「ありがとうございます!」
ルルアが魔女に渡されたひざ掛けを受け取り、アーネストと休憩所に向かった。黒猫はうにゃうにゃと馬と話している。魔女は馬に水と果物をあげて労った。
休憩所までの道には踏み石が置いてあり、雨でぬかるんでも歩くことができる。森の中で丁度いい石を見つけるたびに、町の人や、ギルドの顔見知りや、エルガ公爵家の騎士が持ってきてくれて設置してくれたのだ。「その代わり、森に入った時に使わせてくれよ」と言われ、ルルアは快諾した。その道を通ってやって来た休憩所は、今では屋根も作られ東屋のようになっている。テーブルとベンチ、そしてランプがあって、それを様々な花が取り囲んでいる。ルルアはランプにマッチで火をつけて、東屋の一角に引っ掛けた。
「この屋根も、町の人が作ってくれましたの。あっという間に一日で作ってくださってびっくりしました。わたくし、今はこの休憩所の管理人みたいな感じなんですよ、ふふ」
「…美しい所だな」
「お見せできて嬉しいです。掛けてくださいな」
アーネストはルルアに促されてベンチに腰掛ける。夕暮れに染まる小川の水面も、取り囲む花々も、東屋を伝う蔦も、何もかもが美しかった。これがルルアの作った場所なのだ。
ルルアはいつもの野草茶と魔女のお菓子をアーネストに出した。そして自分もベンチに腰掛ける。今はベンチを増設していて、テーブルの二辺を取り囲むように並んでいる。ルルアはアーネストの左側の一辺に位置するように座っている。
「魔女様のお菓子は素朴で、わたくしはとても好きなのです。いかがですか?」
「ああ、美味いな」
アーネストはルルアの言葉に素直にそう答えた。答えてからふと気づく。何かを美味いと思って食べたのは、遠い昔のことだった。だけど今、この焼き菓子を美味いと感じたのは本当だ。そういえば、何かを美しいと感じたのはいつだったか。ルルアの文字だ。それがアーネストに美しいと感じる心を思い出させた。
失った心を、感覚を、取り戻したのはルルアがいるからだ。
「ルルア」
つい先ほどとは様子の違うアーネストの呼びかけに、ルルアは首をかしげる。静かなアーネストの声に、少しだけ熱が帯びる。
「はい」
「あなたは、私の妻のままでいいだろうか」
「え?」
「私は、あなたを妻だと思って、いいだろうか」
ルルアは驚いて目を見開く。公爵家から逃げて、ずっとただのルルアとして生きてきた。目の前に居るのは栄えあるエルガ公爵家の当主であり、時の英雄だ。自分にそれを受け止める器があるとは到底思えない。
だけど、それはアーネストなのだ。ルルアの知るアーネストはただ、静かで優しい人だ。その彼がルルアを見つめる目は、縋るような、怖がっているような、そんな目だ。
公爵の妻などルルアには務まらないだろう。きっと命をすり減らすだけだ。そこから逃げて、自分の生活を手に入れたのだ。だけど。
「はい」
ルルアはアーネストに、そう言ってしまった。
アーネストは身をずらしルルアに近づくと、きつく抱きしめた。どちらからも言葉は何もなかった。ただルルアは、アーネストの広い背中に手を回し、撫でた。
そのまま黙ったまま、陽が落ちきるまで。夜の虫も鳴き出して、すっかりお茶も冷めてしまったけど。二人に先のことなど何もわからない。だけどどうしても、離れがたいのだ。
「エルガ公爵、寒くなって来ましたわ」
ルルアが、触れる空気の冷たさにアーネストに声を掛けた。
「妻でいてくれるのなら、名で呼んで欲しい」
「…アーネスト様?」
「アーネストでいいんだが」
「え、でも、あの、それはまだ、あの」
「では、いずれは」
「は、はい…アーネスト様」
「うん」
返事をしたアーネストが見せた笑顔は、とても柔らかだった。その笑顔が嬉しくて、ルルアも微笑み返す。
「アーネスト様、そろそろ魔女様の家に参りましょう。きっとお夕食を作ってくださっておりますわ」
「世話になるな」
冷めてしまったお茶を飲み干して、二人は魔女の家に向かう。ふと手が触れて、アーネストがルルアの手を握った。驚いてルルアはアーネストの顔を見るが、もう暗くて表情はよくわからなかった。結局そのまま手を繋いだまま魔女の家に着いたのだった。




