2◆走る若奥様
その嵐の日、アーネストの妻であったルルアは猛烈に走っていた。
魔女が作ってくれた伝説の『数日間仮死状態になる薬』から蘇ったはいいけど、しっかり棺に釘が打ち付けられていた。そして埋葬されており窒息寸前という危機的状態。そこに魔女の使いである黒猫がやってきて、ルルアに何やら魔法を掛けた。すると棺を大破し、ルルアは墓から這い出てきたのだ。
生き返ったことがバレてはいけないと、作業小屋からスコップを拝借して、えっほえっほと埋め直していた。それを庭師のおじさんに見つかってしまったのだ。とても驚かせてしまって腰を抜かしていたのは申し訳ないが、ルルアも必死だ。ここまで来て捕まってはかなわないとスコップを投げ出し、庭師のおじさんを放ったらかしにしてルルアは一目散に逃げだした。
どうやら黒猫の魔法は肉体強化だったらしく、かつてないくらい足が速い。棺もルルアが拳で壊して脱したようだ。
「か…髪が、邪魔くさいですわっ」
顔に張り付く髪の毛が視界を遮り、逃亡する足を引っ張る。先ほどシャベルを拝借した作業小屋を通りかかった際に、今度は鎌を拝借した。
「これですっきり!」
ルルアは思い切りよく髪を切って鎌と一緒に放り出した。肩より短い髪は貴族令嬢としてはあり得ないが、ルルアは満足げにまた走り出した。強化された肉体で高くそびえる壁を駆け上がり、外に広がる森に着地する。
「にゃあ」
いつの間にかルルアの足元にいた黒猫は、ルルアを見上げて一声鳴いた。
「さあ、黒猫さんの魔法が消える前に、急いで魔女様の元へ参りましょう」
「にゃ」
肉体は強化されど、激しい嵐の中で体は冷えきっている。それについ先ほどまで仮死状態で動きが鈍い。今は肉体強化の魔法と気持ちだけで動けているだけだ。しかも嵐の轟音が響き渡る闇の中。
だけどルルアはかつてないほど気分がよかった。
***
ルルアは一度死んだ。だがそれは嵐の日に墓から蘇った、ずっと前のことである。ずっと前というか、時間的には未来というか。
ルルアを迎え入れた魔女は滋養に良い薬草スープを煮込みながら、憮然とした表情をしていた。
「ルルア、前に死んだ時よりもタイミングが早いのではない?こんな日に来ると思わなかったから何の準備もしちゃいなかったよ」
「魔女様、ご迷惑をお掛けしたします。タオルと着替えをお貸しいただいて、とてもありがたいですわ」
魔女の寝間着に着替え、タオルで髪を拭きながらルルアは暖炉の火に当たる。その横には黒猫がぴったりとくっついていた。
ルルアは嫁入りしたばかりでまだ少女と言える年齢だ。スープの味見をする黒髪の女は目じりに少しシワが浮かぶ飾り気のない女である。
魔女はエルガ領と隣国との境目にある辺境の町に住み、今はギルドに薬を卸すのが生業だ。
魔女とはこの国では不思議な存在ではないが、たくさんいる訳ではない。国のお墨付きの魔女となれば栄誉なる魔塔の魔女となり、一生安泰に暮らせる。
実際この魔女もその昔魔塔に住んでいたが、あまりにも退屈になったので国の保護から自ら外れ、好き勝手に生きているらしい。彼女は見た目通りの年齢ではないのだ。
「ルルアの死んだ時を戻して逃げおおせる手伝いをしたけども。なんだそれじゃあ、ルルアに毒を盛った女は無罪放免じゃないか」
「魔女様、無罪放免と言いますか、彼女はまだ何もやっておりませんのよ」
「前と同じタイミングで毒の入ったお茶ではなく、私の渡した薬を飲めば、公爵の妻に毒を盛ったとしてあの女は裁かれただろうに」
魔女がそう言うと、ルルアは目をまん丸く見開いた。
「魔女様、そんなことを考えておられたのですね」
「当然、あなたにも伝わっていると思っていたわ」
「まあ、わたくしったら何も気付かず…」
魔女から薬を渡された時、確かに「毒を盛られた席で、紅茶を飲んだふりをしてこの薬を飲みなさい」と言われたのだ。
前回毒を盛られたのは嫁いでから半年後、そして今は結婚二か月が経ったばかりである。毒を盛られたタイミングで魔女の薬を飲まなければ、恐らくルルアの自殺で片付けられてしまう。
「ちゃんと罪を理解させて、やり返しせばよかったのに」
「魔女様、わたくしは相手の手を汚させないという、崇高な気持ちで時期を早めたわけではございませんのよ。この前ですね、ふと思い立ったのです。半年も我慢しなくてもいいのではないかしらって。別に二か月でも半年でも死ぬのでしたら同じじゃございませんか?」
「なるほど?」
魔女はいい具合に煮込まれた薬草スープをカップに注いで、「熱いよ」と言いながらルルアに渡す。濃い緑色でとろみのついたそのスープは、一緒にジャガイモも煮込まれていてお腹にも溜まるのだ。
「ありがとうございます。おいしい…」
少し変わったおいしさではあるが、トロトロとしたスープはとても温まる。
「わたくし、時間が巻き戻る前に公爵邸で豚の血を浴びましたの」
「…なんてこと」
庭を散歩している最中にかけられたのだ。庭掃除のバケツをひっくり返してしまったと笑いながら言うメイドと、何故か見物に来ていた複数の使用人たち。笑い声の中に「豚の血がお似合い」という言葉があったので、それと知れた。
嫌がらせにしては度が過ぎている、と魔女は思う。エルガ公爵家の諍いは小耳に挟んだが、どうにも屋敷全部が狂っているようだ。
「豚の血なんてどんな病気を媒介するかわからないってのに…」
「まあ、そうですの?さすが魔女様は博識でいらっしゃいますわ。わたくしも以前を思い出して、あれは嫌だわって思ったのですの。で、わたくし思いついてしまったのです。毒を盛られるまで待たずとも、私が毒で死んだように演じてしまえばいいと!豚の血シャワーの前日に、わたくしこっそり探したのです。そうしたら庭の作業小屋に豚の血の入ったバケツがありましたのよ。わたくしは思いましたわ、これは神様のお導きだと」
語るルルアは興奮が高まり、目がキラキラと輝く。おそらく武勇伝だと思っている。豚の血のどこが神の導きか分からないが、魔女はルルアの話を遮ることなく聞いていた。
「その血の入ったバケツを、自分の部屋に持って帰ってきたのです。そして私が吐き出したようにテーブルやカップや床に血を撒きましたの。結構たっぷりありましたので部屋が血塗れになってしまいましたわ」
持って帰って来れたなら、そのまま処分したらいいだろうと思うが、これはもう起きてしまったことなので魔女は余計な口を出さずにいた。だけど顔は「なんでかな」と言いたげな表情をしている。
「だけど豚の血を口に含むのはどうしても抵抗がございました。どうしようかと思っておりましたけども、わたくしの部屋にはちょうど野イチゴと蜂蜜がございましたの!潰して混ぜましたら、ええ、ええ、とてもいい感じになりました!この野イチゴと蜂蜜はご飯が運ばれてこない時の非常食ですのよ」
「うん、そして?」
「はい、舞台が揃いましたのでカップを落として割り、わたくし物凄いうめき声を上げましたの。だけど誰も来ないのです。薬の効果が切れるまで放ったらかしにされたら困るので、わたくしとても一生懸命やりました。そうしたら屋敷を守る騎士が何事かと、わたくしの部屋を見上げ動き出しましたの。今だと思ってえいやとお薬を飲みました。そうだ、魔女様!」
「なあに?ルルア」
「あのお薬があんなに苦いだなんて聞いておりませんでしたわ!」
「言ったら飲むのを戸惑うだろう?」
薬の苦さにルルアは苦悶の表情となり、その瞬間に事切れた。一時的にだが。
これが世にも恐ろしい公爵家の若奥様が死んだ現場の真相である。そうして恙無く埋葬され、今に至る。葬儀はあったかは知らないが、それはルルアにとって重要なことではない。




