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第二二話 ビビッときて、ゾクッとなった



 ムヅキには売られた奴隷の様子を見ておけと言われている。


 仕事はきっちりやっておくべきだろう。あの予報官でさえ自分の仕事は毎日きっちりこなしているのだ。


(ここか……)


 時刻は夕暮れ時をとうに過ぎ、スヴェン号を出たその足で奴隷商館の裏庭にやってきた。5棟ある平屋の1つから『黒いの』の匂いを感じ、夜陰に紛れて見張りを躱し忍び込む。


 ムヅキにその気があったかは知らないが、『黒いの』もあの日売られた奴隷の1人には違いない。


 そんな言い訳じみた理由は置いておくとしても、僕にはどうしても気になっていたことがあった。


 スヴェンが選んだ奴隷の中にあの妊婦は居なかった。


 選抜する目的を考えれば当たり前のことだとわかっているが、ビビッとこなかったのに何故かあの女の事が頭から離れなかったのだ。


 他とは違う甘い匂いは妊婦が居た平屋から漂っていて、相変わらずスラムみたいな悪臭が満ちる屋内へ足を踏み入れた。



**********

 


 歌が聞こえる――。


南の崖を さまよえば

昔のことぞ 偲ばるる

波の音よ 霧の様よ

寄する波も 海の色も


 悪臭の立ち込める空間にあって、檻の中の奴隷たちは安らかに眠っていた。


 懸命に気配を消して無音歩法で檻へと足を進めるが、響き渡る音色が僕の理解を外れて周囲と一体になり切れない。

 

御岩が浜を 廻れば

昔の人ぞ 偲ばるる

寄する波よ かえす波よ

森の色も 霧のかげも


 何処かで聞いたような歌声に丹田が勝手に回り始めて気が満ち、じんわりと暖かくなって呼吸も乱れ始めた。


 眠る奴隷たちは誰もが無理なく歌声に寄り添い、先日とは打って変わって丹田を回している。


 今、この場の空気にそぐわないものは僕だけだ。

 

浄衣たちまち 濡れひじし

赤裳の裾ぞ 御山の花


 逃げ出したい気持ちを抑えて歌声の生じている檻に近づけば、暗がりで光る青緑色の瞳が見えた。


 妊婦は既に息絶えていて、その隣りに座る半魔の女が抱く赤ん坊はくるくる丹田を回しながら、スヤスヤと眠っている。

 

霧は静かに 島を囲う

巫女の御霊は 根付きける


 マフラーで小さな命を包んで抱く『黒いの』は透徹した無表情だった。

 

 ビビッときた――それはもう猛烈に。


 僕は深く後悔してその場に膝を突き、その音で『黒いの』に気付かれてしまう。


 僕を見つけるなり『黒いの』はニッコリと微笑み、それっきり歌も鳴り止み、無言の笑顔に隠された本音を聞いた気がした。



**********



 月光の下、バタバタと足音を鳴らして息も絶え絶えに夜道をひた走る。


 歩法も呼吸法もあったもんじゃない。きっと今の僕は誰より弱い。


(喋れないんじゃない)


 こんな事ではすぐに死んでしまう。わかってはいても心臓は乱れに乱れて呼吸を妨げ、僕だけが全から弾かれたような感覚に震えが止まらない。


(喋らなかっただけだ……なんで?)


 何処で間違えたのか。初めから全部間違えていたような気がして、サメ肉を抱えて漂流していた頃に戻ったような寒気を感じる。


(あの笑顔は……なんだ?)


 わからない。わざと笑っていることだけは確かだが、何故そうしているのか見当も付かない。


 あの笑顔が、怖くて怖くて堪らない。


(何なんだ!?)


 恐怖から逃げた。生きるために逃げたことは数え切れないが、恐ろしくて逃げたのは久しぶりのことだ。


 わからないものは恐ろしいが、それを放置してはならない。そうやって恐ろしいものを増やしてはいけない。


 いずれは全が恐怖に成り代わって僕を襲ってくるからだ。


 そうなれば、僕は生きていけなくなる。


「わぁああああああああああああ――っ!」


 危険を増長するとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。


 ムヅキなんかに会いたくない。あの女は僕に優しくない。


 どうすればいいかわからず、とにかく奴隷商館から遠くへと走り続け、無様にもスヴェンと同じように道に迷った。


 行くべき場所を見失なって路地裏を走り続け、スラムに迷い込んで鼻を突く悪臭に平屋を思い出して嘔吐き、元来た道を引き返す。


 魔女に囚われた時とはまったく違う違和感の正体を感じて、それだけは絶対に認められない。


(不自然なのは……僕の方だ!)


 自覚してしまったことを知り、自然に還るための道を探り、本能の赴くままに走り抜けて――、


「ヤ、ヤクト!?」


 僕はアイゼの乳へと逃げ帰った。


 嗅ぎ慣れた女の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、深く深く呼吸を戻していく。


 自分でも信じられないことに、薄れてゆく恐怖に安堵して眠りについた。



**********



 ヤクトもようやくわかったらしい。女は怖いということが。


「アイゼ……別にいいから」

「……」


 翌朝、アイゼは基地中から鉄という鉄を奪って巨大なファンタスマゴリアを錬成し、鬼の形相で遊郭へ侵攻を開始した。


「え? へ? お、お嬢さん! ここは普通の女人は通れね……ああ……」


 門番は絶望の声音を残して門前から逃げた。


 鈍色のファンタスマゴリアはゆっくりとだが、まったく変わらない速度で進み続ける。


「義姉上! 義姉上ぇ! そ、それはさすがに……ああ……」


 アイゼを止めようと進路上に割り込もうとしたティタンは門番と似たような声音を残して退散した。


 遊郭の門は塀ごと鉄に押し潰されて突破され、スッキリして店から出てきた客や、おゆかりを見送りに出た遊女や、轟音に飛び出してきた若衆や――とにかく、あらゆる遊郭関係者を絶望させるアイゼの殺気が迸る。


「何事でありん…………ホントに何事!?」

「あああああ〜! 止まれ! 止まって……イヤァアアア!」

「キャアアアア〜! 服だけでもぉ〜!」


 ヤクトに方角を指差させ、その方向に真っ直ぐ、障害物を無視して進む鉄血鬼を止められる者や物は無かった。


 複数の女郎屋を打ち壊し、遊郭を阿鼻叫喚の地獄――その5丁目あたりまで堕とし、半裸の男女を虫ケラを見る目で睥睨するアイゼはヤクトを優しく胸に抱き、地上5メートルの高さに浮かんで進み続ける。


「…………ごくっ」


 そして遂に、目標の女にたどり着いた。


「アイゼンプルート・ドラントである」

「……ムヅキでありんす」


 アイゼは胸元の黒髪を優しくナデナデしながらファンタスマゴリアを変形させ、2階の窓から顔を出すムヅキの頭上5メートルに上昇し、店の屋根に巨大な鈍色の両手を這わせた。


「普通にしゃべれ。潰すぞ」

「ムヅキです」

 

 ミシミシと倒壊の兆しが音になって響き渡る。新素材製の塀ですら耐えられない重量にのし掛かられて、普通の木造建築物が耐えられるはずがない。


 それでも潰れないのはアイゼが絶妙な加減で自重を地面に逃しているからだろう。


「私の男に何をした」


 質問ではない。これは尋問である。


 鈍重なアイゼが本気になったら誰にも止められない。その事実が証明された朝だった。


「アイゼ……別にいいから」


 2人の女から恐怖の種子を植え付けられたヤクトがどんな花を芽吹かせてくれるのか。


 僕としては楽しみで仕方ない。


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