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第五六話 優しさの発露


 ヤクトは目を覚ました。


 アイゼの胸元は何やら液体に濡れているが、まさかやらかしてしまったのか。その歳でなんて羨ましいヤツだろう。


「ヤ、ヤヤ、ヤクトぉおおお〜! 貴様は義姉上に何をしたぁ!?」

「は? なんか疲れたから寝てただけだ」


 良かった。少し安心した。


 どうやら間違いを起こしたわけではなさそうだが、僕の知らないヤクトの物語もあるということか。


 濡れ場には出て来られないナレーター。いかにも僕らしい。

 

「疲れて寝てただぁ!? 何をやってて疲れたんだコラ! こっちは大変だったんだぞ!」


 ティタンはこの場で起こった落盤について語って聞かせた。


 いかに危険な状況だったか。限られた戦力で落盤を収めた奇跡に、皆がどれほどの感動を覚えていたか。


 死力を振り絞って戦った島民たちの武勇伝――と呼ぶには余りにも生々しすぎる報告だったが、まったく気付いていなかったらしいヤクトとアイゼは目を丸くしている。


「それで……ティタン? お前たちだけで収めたのか?」

「はい義姉上! 皆の連帯と知恵の勝利にございます!」

「ほぉ〜! すごいじゃないか! 見直したぞ!」

「いやいやぁ〜、それほどでも!」


 ヤクトは未だ信じられない様子だ。


 ファンタスマゴリアに呑まれる直前に見せられた光景を思い、とても乗り越えられるとは思えないのだろう。


「ここで落盤? お前らだけで全部倒したって?」

「そうだ。お前が義姉上に守られている間にな」

「守られた? アイゼに?」

「……わからんのなら別にいい」


 ヤクトは少し考えてからアイゼをじっと見て、さらに考え込み――、服の袖でアイゼの胸元を拭い始めた。


「ヤ、ヤクト?」


 呆気に取られているアイゼの乳には触らず、弱すぎるほどの手付きで液体をそっと拭き取っていく。


「どうした? らしくないぞ?」

「わからない……アイゼ? これは優しいか?」

「――んふっ!? ヤクトが私に優しくしようと……あぁ……拭かなくていいのに」


 アイゼは幼子を見守る母のような、それでいて妖艶な遊女のような奇妙な瞳でヤクトを見つめ、頬を染めて微笑んでいた。


 僕には彼女の心情がさっぱりわからないが、不明瞭な女心に下手に触れてはならないということはわかる。

 

「義姉上! その汁は何ですか!? まさかとは思いますが、過ちを犯されてはおりますまいな!?」


 その辺りがわからないティタンはまだまだ幼い。


 女とのお付き合いどころか、人付き合いすら覚束ない僕に言われては彼も心外だろうが、どうせ聞こえやしないのだ。

 

「汁って言うなクソ義弟……野暮なお前は1人で泣けばいい」

「はい? 何の話です?」

「案ずるなクソ義弟……お前は学園に行ってもモテないから」

「だから何の話です!?」


 涙の跡を拭き終えてアイゼから離れたヤクトの元にハリッシュがやってきた。


「「…………」」


 向かい合う2人が沈黙し、ティタンは静かに離れて中庸な位置に立つ。女心とは違ってこの手の間合いの掴み方は長けているらしい。


 アイゼはヤクトの、アユーはハリッシュの斜め後方に控えて互いの出方を窺っていた。アイゼは島民を、アユーはヤクトを警戒する。


「……まずは謝罪するのである。すまなかった。先の土下座は忘れてほしい」

「……お前らのボスはやめた」

「「……?」」


 ハリッシュは視線を揺らし、アユーは首を傾げて疑問符を浮かべる。アイゼにはその意味がわかるのか、小さく息を吐いた。


 島民を代表して陳謝したハリッシュに対するヤクトの返事は謎めいているが、おそらく先の威嚇に関する答えだろう。


「だが……混乱を鎮めるにしてもアレは承服しかねるのである。本気で殺されるかと思ったぞ」

「本気でやらなきゃ威嚇にならないだろ」

「……結果的に我らはまとまり、落盤も乗り越えられた。その点だけは感謝するが、次は屈さぬ」

「言っただろ。お前らのボスはやめた」

 

 これはヤクトなりの手打ちだ。


 大勢の弱者が弱さを盾に何かを求めてきたことに対する苛立ちは消えていないが、それも人間の強さなのだと割り切ることにしたらしい。


「それで、ハリッシュは僕に何をして欲しかったんだ?」


 これも驚くべき変化だ。ヤクトが他人の求めに興味を持った。


 いや、アイゼの表情を窺っていることから見て、土下座集団に思考を割いているわけではないのか。


「冷静に考えれば無理な相談であった。我はただ……貴殿なら親父殿らを救えるのではないかと……期待してしまったのだ」

「僕には余計に無理だ。納得できないなら教えてやる」


 ヤクトはハリッシュに概念魔法『鉱山』の概要を懇切丁寧に教えた。


 鉱山はおそらく海の魔女が創ったダンジョンだが、その有り様を規定しているのは鉱山と共に今を生きる人間が抱くイメージそのもの。


 大勢の人間が無意識に抱く鉱山の概念は曖昧に揺らぎ、結果的に道すじが変わったり、島ごとに構造が異なったりする。


「そういう魔法だ。採掘してる当人の認識も影響するから、人によって潜れる深度……というか空間が違う」

「では……親父殿らが消えたのは?」

「全体のイメージから外れたから。家に帰ることすら忘れて鉱石を求めた結果だ」

「真実……なのだろうな……」

「お前もそこまでのめり込めば合流でき――るかわからない。やめておけ」


 口に出しかけた冷たいひと言にアユーの目尻が吊り上がり、悲しげなアイゼの顔をチラ見したヤクトは咄嗟に言葉を選んだ。


 肩を落とすハリッシュに言うべき言葉が見つからなかったのか、ヤクトはアイゼの目から逃れるように壁際に移動して軽く溜め息を吐く。


 苦悩しているようで何よりだ。


 僕としてはアイゼに感謝の言葉しかない。出歯亀になれないこの身が怨めしいが、やっぱり君に決めた。


 そんな権利は僕には無いのだが、どうにかしてヤクトを真っ当な人間にしてやってほしい。


「ヤ、ヤクト君……」


 集団から離れたヤクトの元にダミニとチャーナがやってきた。


「さっきのことだけど……あと、その前のことも……」

「あんな風に冷たくしちゃって……本当にごめんなさい。助けてくれて、ありがとう」


 またもやヤクトはアイゼを見る。親に嫌われることを恐れる子供のような態度が可愛らしい。


「……ラシだったか?」

「ええ……あれだけ探して見つからないんだもの……きっと……もう……ぐすっ」

「だ、大丈夫だよ。息子のアヒットはしっかりしてるし、成人までは私たちで……何とか……ひっく」


 心配そうに見ているアイゼから何を感じ取ったのか、ヤクトはまた溜め息を吐くと、おもむろに歩き出した。


「……やるだけやってやる。期待はするな」

「ヤクト君!」

「あ、ありがとう!」


 嬉しそうに顔を綻ばせたアイゼを見て、安堵した様子のヤクトは「誰もついてくるな」と念押しして深部へ下りて行った。


 一体、アイゼは何をしたのだろう。


 興味は尽きないが、ナレーターは自分の興味では動けないのだ。



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