第五三話 暗闇のぬくもり
冷たく分厚い鉄の檻に閉じ込められた。
圧倒的な重量物に覆われて非常に危険な状況にある。
「……」
「ひっく……えぐっ……うぇえ〜……」
自力での脱出は不可能だ。
錬成された鉄はただの鉄。たとえアイゼを殺したとしても何も変わらない。
対処するならファンタスマゴリアであるうちにやるべきだったが、僕には何も選べなかった。
ノロマなアイゼはいつの間にか僕の天敵とも呼べる存在になっていたのだ。まさか泣き声で動けなくなるとは思っていなかった。
「……なんで泣いてる?」
「あぁああああ〜……」
密閉された真っ暗な空間に女の咽び泣く声が響き、鼓膜を伝って胸の奥を痺れさせる。ビビッとではない。
泣いているアイゼの事情が理解できず、思考は散り散りになって纏まらない。こんなことは初めてだった。
泣き声は徐々に小さくなってゆき、すすり泣きに変わり、やがて止まった。
「ヤクト……見えない。どこにいる……ねぇ?」
「自分でやったんだろ」
視界が無くとも不自由は無い。
新月の夜の森は闇に閉ざされ、此処より遥かに多くの音に満ちている。
鉄に反響するアイゼの音を聴き分け、頭にポンと手を置いた。いつものように乳を触る気分じゃない。
「ヤクト……」
僕の腰や腕を手探りして立ち上がると、ゆっくりと柔らかく、アイゼは僕を抱きしめた。
「ごめん……ごめんなさい」
「……なんで謝る?」
「私が悪かった。誰にでも優しくしろなんて……」
「男にも、できるだけだろ」
人間は弱くてすぐ死にそうになる。
僕は強いが、師匠と比べれば赤ん坊のように弱い。
「僕には師匠みたいにできない」
「優しくしなくていい。私が間違ってたんだ」
「……わからない。何が言いたい?」
アイゼは僕に語りかけるように内心を話し始めた。
「私はな……ヤクトのことが好きなんだ」
僕に対するアイゼの気持ちだと言う。
自分に向けられる他人の気持ち。そういうものがあることを知った。
「好きって……好物とかの話じゃないよな? たぶん」
「似たようなものだ。欲しくなるという意味ではな」
水が欲しい、肉が欲しい、魚が欲しい、カレーが欲しい――数多ある『欲しい』と同じように、アイゼは僕が欲しいのだと言う。
その気持ちを簡単に表す言葉として『好き』が用いられる。
「僕は僕のものだ。誰にもやらない」
「そうだな。そこが難しいところだ」
僕を抱いたまま腰をモジモジさせ、コホンと咳払いを入れたアイゼは「例えばの話だぞ?」と前置きして、殊更に弱い手つきで僕の髪を撫でながら言った。
「私はヤクトのものだ。ヤクトになら全部あげる」
心臓が跳ね上がり、呼吸が乱れ、今まで経験したことのない気持ちが腹の底から湧いてきた。
何かわからない熱が――グラグラ煮え滾る熱い感情が脳を焦がす。
「これは……ホントに例えばだぞ? 例えば――」
他に好きな男ができた。私はその男のものになる。
「――ダメだ!」
それは許せない。即座にその男を殺さなくては。
「〜〜っ! あぁ……耐えろ私……っ! おほんっ……例えば、私が本気でその男を好きだとして、その男が死んだら……」
「男が死んだらなんだ?」
「あの女のように自殺するかもしれないぞ?」
「――あっ」
あの女はあの男のことが好きだった。だが、死んだ者は決して手に入らない。
「あれは兄妹だったから少し違うが、本質は同じだ」
現実は時に人間を絶望させ、耐えられない場合は何をするかわからない。
直接手を下さなくても、僕の気持ちがアイゼを殺すこともある。
「人の心は食べ物とは違う。自分の『好き』だけで得られるものじゃない」
手元に置くだけではダメだ。自殺しようとするアイゼを止める力が僕には無い。
「ならば、どうやって望みを叶える? どうすれば手に入ると思う?」
「わからない……どうにもならない」
「簡単なことだ。好きな人にも自分を好きになって貰えばいい」
「――」
水をあげる、肉をあげる、魚をあげる、カレーをあげる――数多ある『好き』に打ち勝つために、好きな相手に気持ちを贈る。
「それが、人が人に優しくする理由だ」
僕は何も知らなかった。
根本的な部分をすっ飛ばして、自分の知る優しさだけを頼りに――、だから『アイゼの気持ちを考えろ』だったのか。
「男も女も関係ない。好きじゃない相手に優しくする必要は無いんだ」
「……好きと欲しいは違うんだろ? どうやって決める?」
「そこは……アレだ。ビビッとくるんじゃないか?」
ようやくベルさんの教えの意味がわかった。
本当に言いたかったことは『好きな女には特に優しく』だったのだ。
ベルさんには『好き』という気持ちを上手く説明できなかったから、ヒントとしてくれたものが――、
「ビビッとだったのか」
「まぁ、そうなんだろう。不器用……というか変な御仁だな」
僕にはまだ『好き』という気持ちを理解できていない。
だがそれでも、優しさの理由を知って良かったと思う。
(師匠は……僕が好きだったのか……)
胸の奥がじんとする。少し苦しいが、決して嫌な感じじゃない。
「はは……」
「ヤクト……笑ってるのか? 見えなくて残念だ」
アイゼは勘違いしている。
暗闇の中、ぬくもりに包まれて、僕は泣いていたのだ。




