第5話 恋人役のままでは、終われない
五回目に選んだのは、実家近くの河川敷だった。
町内の灯籠流しを翌日に控え、土手には白い提灯が並んでいる。屋台は半分だけ開き、焼きそばのソースの匂いが夕方の風に混じっていた。
「デートの行き先が地元って、手抜きじゃない?」
「嫌なら帰るか」
「帰らない」
紬が屋台へ向かう前に、俺は冷えたラムネを二本差し出した。
「用意してたの?」
「一本は普通、一本は桃味。お前、普通のは最後まで飲まないだろ」
「いつの話?」
「毎年」
紬は桃味を受け取り、瓶についた水滴をハンカチで拭いた。
「手抜きは取り消します」
「まだあるぞ」
スマートフォンに保存してきた古い写真を見せる。小学生の俺と紬が、この河川敷で手をつないでいた。
二人とも浴衣の裾を泥だらけにし、紬は泣き腫らした顔、俺は得意そうな顔をしている。
「これ、おばさんが持ってたの?」
「昨日、実家で探した」
小学四年の夏、紬が金魚すくいの屋台を見つけて駆け出し、俺も止めようとして家族とはぐれた。
帰り道もわからないくせに、俺は「任せろ」と紬の手を引いた。結局、二人そろって町内会の放送で呼び出された。
「迷子にした張本人が、よくこんな顔できたよね」
「泣いてるお前を連れて受付まで戻った。差し引きで功績の方がでかいだろ」
「手は、ずっと離さなかったね」
「離したら、また金魚を追うにきまってたからな」
紬は写真を拡大し、つないだ手を見つめた。
「だから、ここなの?」
「俺が初めて紬と手をつないだ場所で、今度は俺がしたいことを言おうと思った」
「……それ、先に言う?」
「まだ中身は言ってないからセーフだろ」
紬はラムネを一口飲み、瓶で赤い頬を隠した。
子どものころから何度も来た場所だ。新鮮さはない。それでも隣を歩く紬の腕が触れるたび、意識してしまう。
河川敷の端には、灯籠へ絵を描くための長机が出ていた。
町内会の人に声をかけられ、俺たちも一枚ずつ描くことになる。
「何を描く?」
「猫」
「また?」
「オムライスは途中で耳がなくなったから」
紬は筆ペンを持ち、四角い紙へ猫を描いた。今回も胴が妙に丸い。
「ハムスターじゃないのか」
「猫だってば。小学生のころから言ってるでしょ」
「進歩がない」
「なら、律が描いてよ」
筆ペンを渡され、隣にもう一匹描く。俺の猫も大差なかった。
「下手っぴ~」
「お前にだけは言われたくない」
二匹の間に、紬が細い線を引いた。尻尾同士が触れる。
「仲良し」
「幼馴染?」
紬の筆が止まる。
「それだけなの?」
「今は……まだ。でも、幼馴染だけでいるのは今日で終わらせる」
紬は何も言えなくなり、尻尾の線をもう一度なぞった。灯籠を係の人へ渡す指が、わずかに震えていた。
「二回目の洋食屋も、三回目の水族館も、ここも。昔、一緒に来た場所だ」
「ここを選んだのは律でしょ」
「お前が選んだ場所もだよ」
紬がラムネの瓶を傾ける。中のビー玉が、乾いた音を立てた。
「次の恋でしたいことを考えたはずなのに、思い浮かんだのが律としたことばっかりだったの」
「それ、恋人の練習になってるか?」
「なったよ。私、行きたい場所がなかったんじゃない。もう一度、律と行きたかったんだってわかったから」
風が吹き、土手に並んだ提灯が一斉に揺れる。
「この前、藤代さんに返事をしてきた」
「……何て?」
「うれしかったです。でも、プライベートで知りたい人はほかにいます、って」
胸を締めつけていたものがほどける。それを安堵だけで済ませてはいけない。
「返事をしたあと、最初に伝えたいと思ったのは律だった」
「……俺に?」
「でも、怖かったの。三年も好きだったのに、振られてからまだそんなに経ってないのに……」
紬はラムネの瓶を両手で包んだ。中のガラス玉を見る目がじわりとうるんでいた。
「律を好きかもしれないって思うたびに、今までの三年間が軽くなる気がして……」
「軽くならない」
考えるより先に、言葉が出た。
「紬があの人を本気で好きだったこと、三年間話を聞いてきた俺は知ってる。次に誰かを好きになっても、それまでが嘘になるわけじゃない」
「でも、律は嫌じゃないの?」
揺れる紬の視線が俺の顔とガラス玉の間をさまよっていた。
「失恋を忘れるためだけに選ばれるのは嫌だ」
紬の指に力が入る。
「違う。それは違うよ……」
「なら、何日経ったかだけで決めることじゃないだろ。今の紬が、誰といたいかで決めてくれ」
「律は、誰といたいの?」
「紬だよ」
言葉は自然と出た。紬と俺の視線が絡み合う。
息を止め、目を大きくした紬を見て、ふと可愛いなと思った。
息を吸う。逃げ道にしてきた幼馴染という言葉を、今度は自分で越える。
「紬が好きだ」
視線は外さない。
「失恋したお前を放っておけないからじゃない。失敗するのが怖いくせに、最後にはちゃんと自分で動くところが好きだ。誰かに気を遣いすぎるのに、俺には遠慮なく文句を言うところも。猫を描けば毎回太るところも」
「最後のは悪口」
「そうやって泣きそうでも言い返すところも」
紬の目から、一粒だけ涙が落ちた。けれど口元は笑っている。
「俺と付き合ってほしい。これは五回目の練習じゃなくて、俺の告白だ」
「……六回目が残ってる」
「恋人契約の話はもうよくないか?」
「私には大事なの。私が始めたんだから、最後は私がちゃんと終わらせたい」
紬は鞄から便箋を取り出した。膝の上で何かを書き、すぐに四つ折りにして鞄へしまう。
「今すぐ返事を聞いたら、駄目か?」
紬は鞄を胸元に抱えた。視線が一度だけ俺へ向き、耐えきれなくなったように足元へ落ちる。
「……駄目。今なら、うれしくて何でも『はい』って言いそうだから」
「それは期待していいってことだよな?」
紬は唇をきゅっと結んだ。けれど、緩んでいく口元までは隠せていない。鞄を少し持ち上げて赤くなった頬を隠し、ちらりと俺を見る。
「自分で考えて」
またそれだ。
けれど弾んだ声も、隠し切れていない笑顔も、ほとんど答えを言っていた。
紬は鞄の持ち手を胸元へ引き寄せた。指先に、ほんの少しだけ力が入る。
「明日、六枚目の封筒にこれを入れるから。私が来るまで、絶対に開けないでね」
「気になるんだけど」
「駄目。六回目の練習だから」
それから逃げるように土手を下りていき、十歩ほど進んだところで振り返った。
「明日は夜九時、律の部屋で。六回目も絶対遅刻しないでね」
「俺の部屋でどう遅刻するんだよ」
「じゃあ、逃げないで待ってて」
「ああ。逃げない」
紬は満足そうに頷き、今度こそ歩き出した。
鞄にしまわれた便箋には、何が書かれているのだろう。
一回目の夜、六枚目の封筒に書かれていた〈最後に必要になったこと〉の答えを、紬はもう決めたのかもしれない。




