第4話 恋人役なのに、嫉妬だけは本物だった
四回目の封筒には、〈部屋で一緒に夕食を作る〉とあった。
「恋人っぽい料理って何だと思う?」
紬は買ってきた食材を台所へ並べた。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、鶏肉。どう見てもカレーである。
「家庭科の調理実習だな」
「雰囲気を壊さないで」
「材料がもう、給食なんだよ」
「じゃあ、恋人っぽく味見させてあげる」
「まだ皮もむいてないぞ」
紬はエプロンを持参していた。淡い黄色で、胸元に小さな犬がいる。
「それ、実家から持ってきたのか」
「中学のときの」
「物持ちがいいな」
「笑わないでよ。家にこれしかなかったの」
腰のひもを結ぼうとして、長さが足りない。紬は無言で腹を引っ込めた。
「見ないで」
「見てない」
「笑ってる」
「犬が横に伸びてる」
布巾が飛んできた。受け止めると、紬も吹き出した。
こうして二人で台所に立つのは初めてではない。高校の文化祭前、俺の家でクッキーを焦がした。大学生のころには、紬が風邪をひいた俺へ雑炊を作り、塩を入れすぎた。
恋人らしい新しさなどない。それでも、後ろを通るたびに肩へ触れないよう気をつける自分がいた。
紬は玉ねぎを切りながら、藤代と会った日の話をした。
「友達から始めたいって。告白されるまで意識してなかったけど、プライベートでも君のことを知りたいって言われた」
「紬は、どうしたい」
「わからない」
包丁の音が止まる。
以前の紬なら、相手が望みそうな答えを探していただろう。けれど今は、「わからない」という自分の気持ちを、そのまま口にしている。
「でも、律といるのは楽しいの。今日も、ここへ来るのを楽しみだったんだ」
「それなら、何がわからないんだ」
「その楽しさを、どう受け取ったらいいんだろう」
「……なら、今は無理に答えを決めなくていい。楽しいと思ってることを否定するなよ」
「恋人の練習は、続けてもいいの?」
「続ける。ただ、俺も平気なふりはやめるよ」
「……どういうこと?」
「紬があの人と会った話を聞いて、悪いんだけど、喜べるほど余裕がない」
紬が包丁を置いた。
「それって、嫉妬?」
「……そうだよ」
答えた途端、鍋から焦げた匂いがした。
「律、玉ねぎ!」
「お前が火を弱めたんじゃなかったのか」
「律の嫉妬顔に気を取られたのよ」
「俺のせいにするな」
二人でわたわたしながら急いで鍋を火から下ろす。黒くなった分だけ取り除き、残りを別の鍋へ移した。
夕食が台無しにこそならなかったが、出来上がったカレーには少しだけ苦みが残った。
「味見、する?」
紬が小皿ではなく、木べらの先をこちらへ向ける。
「恋人っぽく食べさせる話、まだ生きてたのか」
「四回目の課題ですから」
「封筒には書いてなかった」
「現場判断よ」
妙に真剣な顔で待たれ、仕方なく口を開ける。紬が木べらを傾けすぎ、熱いルーが舌へ落ちた。
「熱っ」
「あっ、ご、ごめん!」
紬が慌てて水を差し出す。飲み込んでから、もう一度味を確かめた。
「ちょっと甘い」
「律、辛いの苦手でしょ」
「中辛までは食える」
「小学生のころ、給食のカレーで泣いた人が?」
「昔の話を今頃になって使うな」
紬は笑い、自分でも木べらの先を舐めた。直後、その動きが止まる。
さっき俺が口をつけた場所だった。
「……洗う」
「味見は?」
「終わり。今のはノーカンだから」
紬は耳まで赤くして木べらを流しへ放り込んだ。俺も平静を装いながら、冷たい水をもう一口飲んだ。
「昔も、こんなことあったね」
「高校の文化祭でクッキーを焼いたとき?」
「律が砂糖と塩を間違えた」
「間違えたのはお前だろ」
「緊張して、袋の字が見えてなかったの」
「何に緊張するんだよ」
紬はスプーンでじゃがいもを割り、俺を見ずに答えた。
「律に渡すつもりだったから」
「俺に?」
「試作に付き合ってくれたお礼。失敗したのに、律は全部食べたよね」
「紬が泣きそうだったから」
「そういうところ」
紬が顔を上げる。
「私が変な失敗をしても、律は笑わない。文句は言うけど、最後まで隣にいてくれる」
「塩味のクッキーを食うより、文句のほうがましだろ」
「そうやって、たいしたことしてないって顔をするところがずるい」
胸の奥が熱くなる。俺にとって当たり前だったことを、紬はずっと覚えていた。
「向こうと会って、楽しかった?」
「楽しかったと思う。でも、お互いに嫌われない答えを選んでるようで、なんか面接みたいだった」
紬はほろ苦いカレーを一口食べる。
「律とは、失敗したカレーでも食べられるのにね」
「次は俺が作る。もう少しましなことで比較してほしい」
「次、あるんだ」
「六回契約だろ。それに……」
俺はスプーンを置いた。恋人役という役割に合わせた返事で逃げないと決めたのは、自分だ。
「紬があの人とうまくいっても、俺は喜べない。紬には幸せでいてほしい。でも、その隣が俺じゃないなら、笑って背中を押せるほど立派じゃない」
紬の目が大きくなる。頬がゆっくり赤くなり、やがて困ったように笑った。
「それ、ずっと聞きたかったのかも」
「俺も、ずっと言うべきだった」
「どうして言わなかったの」
「幼馴染の関係までなくすのが怖かった」
「格好悪いね」
「お前にだけは言われたくない」
「私は一万八千円払って動いたから、律より少しましだよ」
反論できない。紬はころころと楽しそうに笑い、五枚目の封筒をテーブルへ置いた。
「次は、行き先を律が決めて。私をどこへ連れていきたいか、ちゃんと考えて」
「了解」
「失敗しても、次の日から口を利かないなんてことは、たぶんないから」
「そこでたぶんなのか?」
「絶対とは言い切れない」
一回目と同じ言葉を返し、紬はいたずらっぽく笑ってカレーへと視線を落とした。
紬が帰った後、次の封筒を確認した。
封筒の中にあった紙には、短い一行だけ。
〈今度は、律がしたいデートをする〉
次は俺が、恋人役ではなく、一人の男として紬を誘う番だ。




