第3話 つないだ手は、温かいよりも熱かった
水族館へ入って三十分。紬は魚より俺の右手を見ていた。
「手相なら外で見ろ。入場料がもったいない」
「見てない」
「クラゲを見ながら俺の小指を確認するな」
「今、タイミングを測ってるの」
「自然さが完全に死んだな」
薄暗い通路を青い光が揺れている。休日の館内は親子連れで混み、少し油断すれば人の流れに押し離されそうだった。
紬は二回目に買った青いイヤリングを、左耳だけにつけていた。水槽の光を受け、小さく揺れる。
「右は?」
「え?」
紬が耳に触れ、顔色を変えた。
「両方つけた。駅ではあったと思う」
「思う……か。買った日は?」
「箱に戻した……はず」
紬は足元を見回し始める。人の流れに逆らって戻ろうとする肩をつかんだ。
「館内には俺が聞く。買った店と前回の洋食屋にも連絡しよう。落ちた場所がここだとは限らない」
「同じの、まだ売ってるかな」
「なくしたと決まってないだろ」
案内所へ届けを出し、店へ電話する。紬は隣で何度も右耳を触っていた。
「そんなに気に入ってたのか」
「律が似合うって言ったから」
声は小さかった。聞き返すふりをするには、はっきり聞こえすぎた。
「そうか」
「何、その返事?」
「うれしいときに、とっさにどう返せばいいのかわからない」
「それこそ練習したほうがいいよ」
「誰に頼めばいい?」
「一回三千円で、私がやる」
紬が笑う。少し前まで、その笑顔は藤代の話をするときにだけ見せるものだと思っていた。
大水槽の前で子どもが飛び出した。紬が避け、後ろの客とぶつかりかける。
俺は反射的に紬の手をつかんだ。
「こっち」
指先が一度逃げた。離そうとした瞬間、紬のほうから握り直してくる。
手のひらが熱い。たぶん俺も同じだった。
「これ、自然?」
「聞いたら台なしだろ」
「でも確認は必要でしょ」
「必要ない」
紬は黙った。つないだ手だけが、さっきより少し強くなる。
大水槽を抜けても、離さなかった。ペンギンの区画を過ぎ、土産物店の前まで来ている。練習の課題としてなら、とっくに終わっている。
館内の喫茶スペースへ入った。手を離す理由ができたのに、紬は注文台の前までつないだままだった。
「財布が出せない」
俺が言うと、紬はようやく気づいた。
「早く言ってよ」
「名残惜しそうに感じたからな」
「もうっ、そんなはずないでしょ」
そう言いつつも、先ほどまでつないでた手の指先が、くるりくるりと髪をいじっている。
紬は冷たい紅茶、俺はコーヒーを頼んだ。窓の向こうでは、屋外の水路をペンギンが歩いている。
「恋人同士って、手をつないでるとき何を考えるんだろう」
「それは恋人に聞け」
「今、恋人役でしょ」
「俺は、手が熱くて汗ばんでないか考えてた」
「私も」
「じゃあ同じだな」
「もっと、ときめくことを考えるんじゃないの?」
「ときめいてるから、そんな所が気になるんだろ」
紬がストローを口へ運び損ねた。先端が頬に当たり、慌てて差し直す。
「そういうの、急に言わないで」
「聞いたのはお前」
「回答は選べるでしょ」
紬は紅茶を飲み、窓の外ばかり見る。頬に触れたストローの跡が薄く残っていた。
「藤代さんと手をつないだら、こんなに考えない気がする」
「どうして」
「緊張して、何も考えられないと思うから」
「俺とは緊張しない?」
紬はすぐ答えなかった。氷をストローで押し、からからと鳴らす。
「別の意味で、する」
「別の意味か」
「そこは、自分で考えて」
紬はまた、答えを俺へ返した。都合のいい解釈をするのが怖くて、俺は見ないふりをした。
席を立つ前、紬がスマートフォンを出す。
「写真、撮っていい?」
「何の?」
「二人で来た証拠」
窓を背に並ぶ。紬が画面を見ながら肩を寄せた。青いイヤリングが俺の頬の近くで揺れる。
「近くない?」
「恋人の写真なら、このくらい」
「誰に見せるんだ」
「見せない。私が持ってるだけ」
撮影の瞬間、紬は笑った。俺はたぶん、ひどく固い顔をしていた。
「撮り直す?」
「これでいい」
紬は写真を保存し、俺には送らなかった。あとで欲しいと言うこともできず、その一枚は紬だけが持つことになった。
そのタイミングで知らない番号から、俺のスマートフォンへ着信が入った。
前回の洋食店だった。窓際の椅子の下で、青いイヤリングを預かっているという。
「帰りに寄ればいい。閉店には間に合う」
通話を切ると、紬は安堵したあと、妙にうれしそうに俺を見た。
「そういえば、同じのを買えばいいって言わないんだね」
「これを選んだとき、お前は俺の隣にいた。同じ物でも、買い直したら違うだろ」
「……よく、おわかりで」
紬が俺の手を取る。今度は練習のためではなく、見つかった安心を分けるようなやわらかな力だった。
土産物店で紬は青い魚のキーホルダーを手に取り、棚へ戻した。出口へ向かう途中、スマートフォンが震える。
画面を見た紬の足が止まった。
「藤代さん?」
「なんでわかるの」
「顔」
紬は画面を伏せた。眉が下がり、唇を一度結ぶ。うれしいだけではない顔だった。
「告白されてから、ちゃんと考えたって。今度、プライベートで話せないかって」
胸の奥へ冷たい水を流し込まれたようだった。
藤代は誠実だ。紬の気持ちを断ったあと、なかったことにせず考えたんだろう。
「会うかどうかは、紬が決めろ。ただ、向こうが考え直したからって、その答えを受け入れるかは別だろ」
「どうして?」
「今度は、相手が何を望んでいるかじゃなくて、紬がどうしたいかで決めろ。何もしなかったことを後悔して、ここまで動いたんだろ」
紬は俺を見た。驚いて見開かれた目から、少しずつ力が抜けていく。
「律は、会ってほしい?」
喉が詰まった。それでも、一回目に決めた。俺も、嫌なことは嫌だと言う。
「会ってほしくない。けど、決めるのは紬だ」
「……そっか」
紬は伏せた画面を鞄へしまった。口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
水族館を出たあと、その足で洋食店へ寄った。紬は戻ってきた青いイヤリングを掌へ載せ、しばらく眺める。
「イヤリングまで探してもらって、三千円じゃ足りないね」
「追加料金はいらない。最初にそう言っただろ」
「契約書はないけど?」
「口約束も約束だ」
そんな軽口を言い合いながら歩きだした。
駅までの道で、俺たちは手をつながなかった。代わりに紬が、俺のシャツの袖を指先でつまんだ。
「四回目も、来てくれる?」
「契約は六回だ。紬がやめたいと言うまでは行く」
「……よかった」
袖をつまむ指が離れない。
その仕草に、隠しきれない期待が膨らんだ。紬は改札の前まで来て、ようやく袖を離す。
改札へ入る直前、紬は土産物店の袋から、さっき棚へ戻した青い魚を二つ取り出した。
二つの腹を並べると、それぞれに入った白い点がつながり、一筋の波模様になる。
「一個、律の」
「いつ買ったんだ?」
「恋人役への現物支給」
紬は片方を自分の鞄につけ、もう片方を俺の掌へ載せた。俺の返事を待たず、笑いながら改札の向こうへ逃げていく。
帰宅してキーホルダーを机へ置く。青い魚の腹にある白い模様は、途中で途切れている。
紬が持つもう一つと並べなければ、波は完成しない。
紬はそれを知って買ったのだろうか。
メッセージを打つ。
〈魚、ありがとう〉
消す。
〈四回目、いつにする〉
それも消した。
迷っているうちに、紬から写真が届く。自分の鞄へつけた魚が写っていた。
〈二つで波になるんだから、なくさないで〉
俺は机の魚を、仕事用の鍵につけた。
〈了解〉
それだけ返すと、すぐに猫が親指を立てるスタンプが来た。
手をつないでいるあいだより、離れたあとのほうが、紬を近く感じた。
幼馴染という呼び方を変えたら、ずっと隣にいた紬との関係も、違う形になるのだろうか。




