第6話 六枚目の封筒には、「好き」が入っていた
午後九時ちょうど。紬は約束どおり、俺の部屋へやって来た。
ローテーブルには、一回目の夜から預かっていた六枚目の封筒を置いている。
何度も、あの封筒に何が入るのか考えた。それでも、紬が来るまで待つという約束は守った。
一回目の夜と同じように、紬が向かいへ座る。
違うのは、千円札がないことと、紬がまっすぐ俺を見ていることだ。
紬は鞄から、昨日書いた便箋を取り出した。俺の前で六枚目の封筒へ入れ、封をする。
「開けてみて」
封筒の中には、便箋が一枚。
〈好きな人に、練習ではない返事をする〉
息が止まった。
紬は膝の上で手を組んだ。指先が白くなるほど力が入っている。
「昨日、律が好きな理由を言ったでしょ。だから私も、ちゃんと言う」
一度息を吸い、握った指をほどく。
「塩味のクッキーを作ったときも、失恋して押しかけた夜も、律は呆れながら最後までそばにいてくれた。私、律の前ならダメな所見せても嫌われないって、ずっと安心してたの」
紬はこらえきれないように視線を落としたが、頬を赤くしながらもしっかりと俺の方を見ながら続けた。
「失敗したときに会いたくなるのも、頑張ったときに最初に見てほしいのも、いつも律だった」
紬の声は震えていた。それでも視線は逃げない。
「イヤリングをなくしたときは、同じ物を買えばいいじゃなくて、私がなくしたくない理由までわかってくれた。本屋の男の子にも、律が決めた本を押しつけないで、本人が読みたいものを聞いてた」
「あれは仕事だ」
「私にも同じだったよ。会うかどうかを決めつけなかった。でも、会ってほしくないって自分の気持ちは言ってくれた」
胸の奥が熱くなった。俺自身が長所と思っていなかった部分を、紬は拾い集めてくれていた。
「律は、私の代わりに答えを決めないで、私が決めるまで待ってくれる。だから律の隣では、迷っている私も隠さなくていいし、自分の気持ちで前に進める。そんな律が好き」
紬は言い切り、赤くなった顔で笑った。
「失恋したから代わりに選んだんじゃありません。練習相手だからでもありません。私は、律が好きです」
「面倒なところも?」
「もう、今、その確認いる?」
「大事だろ」
「面倒なところは、お互いさま」
紬の目に涙がたまる。笑わせて逃げるのは、もうやめる。
「水瀬紬さん。俺と付き合ってください」
紬は両手で頬を押さえた。最初の夜と同じ仕草だ。ただし今度は背を向けず、赤くなった顔のまま俺を見る。
「……はいっ。よろしくお願いします」
紬が笑った。涙が一つ落ち、慌てて手の甲で拭う。
「これからは、料金なしで恋人になってくれる?」
「料金を取る恋人がどこにいる」
「ここにいたでしょ」
「あれは恋人役だ。恋人契約はこれで終わり」
「じゃあ、ここからは本物の恋人?」
「そのつもりで告白した」
紬はまた両手で頬を隠した。今度は指の隙間から、うれしそうな目だけがこちらを見ている。
俺は本棚から十八枚の千円札を出し、テーブルへ置いた。
「これは返す。仕事だと思ったことは、一度もなかったから」
「やっぱり。一枚も使ってなかったんだ」
「数えたのか」
「依頼人なので」
紬は千円札を鞄へしまい、残った六枚の封筒を重ねた。
「じゃあ、今度はこの封筒に、二人で行きたい場所を一つずつ書こう」
「また六回?」
「最初の六回。全部使ったら、新しい封筒を買うの」
「今度は回数制限なし?」
「恋人だからね」
封筒を重ねると、紬は視線を横へ逃がした。
「手、つないでもいい?」
水族館では、混雑に押されて俺からつないだ。今は部屋に二人きりで、離れる理由もない。だからこそ、聞かれると緊張した。
俺は右手を、掌を上にして紬の前へ差し出した。
「ほら」
「先に待たれると、恥ずかしい」
「じゃあ、やめる?」
「それは駄目」
紬は慌てて手を重ねた。そのくせ、掌が触れた瞬間に動きを止める。
「恋人役のときは、もっと簡単だったのに」
「今は本物だからな」
「そういうこと言うから、余計に緊張するの」
俺から指を絡める。紬は小さく息をのみ、おそるおそる握り返した。
「手、汗ばんでない?」
「大丈夫。離したくないくらいには」
紬の指に、きゅっと力が入った。顔を背けても、首筋まで赤くなっているのは隠せていない。
「律の手、好き」
「手だけ?」
「手から言っただけ。律のことは、全部好き」
「もう一回聞きたかった」
「欲張り。じゃあ、私にも言って」
「紬の全部が好きだ」
紬は指を絡めたまま、逃げ込むように俺の肩へ額を預けた。
「六回目、もう一つだけやりたいことがある」
「便箋には書いてなかったぞ」
「書けるわけないでしょ」
紬が額を離す。ためらいながら近づいてきた顔を、俺も迎えにいった。
触れた唇は、驚くほど柔らかく、すぐに離れた。
紬は俺の肩へまた額を押しつける。さっきより勢いがあり、今度は少し痛い。
「次は、律からして」
「了解」
もう一度顔を寄せると、紬が慌てて俺の胸を押した。
「今じゃないから!」
顔を上げた紬は、泣いた直後とは思えないほど真っ赤だった。
一週間後、俺たちは駅裏の洋食店へ行った。
紬は迷わずオムライスを頼み、ケチャップで猫を描く。今度の猫は両耳がきれいにそろっていた。
俺がスマートフォンを向けても、皿を隠さない。
「撮っていい?」
「料理だけね」
シャッターを押す。画面にはオムライスと、その向こうで笑う紬が写った。
「私まで入ってる」
「本物の恋人なんだから、少しくらいいいだろ」
紬はスマートフォンを取り上げようと手を伸ばし、途中で止めた。
「……一枚だけだからね」
紬は赤くなった耳を隠すように髪をかけ直し、猫の真ん中へスプーンを入れた。
俺は撮ったばかりの一枚を、消さずに保存した。
店を出たあと、紬は駅とは反対側へ歩き出した。
「どこへ行くんだ」
「本屋」
「さっきいた」
「律の職場じゃなくて、町の小さいところ。前に買った本に載ってた」
二回目の練習で、俺が渡した旅行記だった。紬はもう読み終え、付箋を何枚も貼っていた。
「感想、まだ聞いてなかった」
「デートに使える店が多かった」
「そこ?」
「あと、知らない町を二人で歩くの、楽しそうだと思った」
紬は一度俺を見て、すぐ前を向いた。
「今度、この町に行こうよ」
「電車で二時間の?」
「うん」
「日帰りで?」
「最初から泊まりは、その……早いでしょ」
紬は最後だけ小声になった。自分で言い出したくせに、首筋まで赤くなっている。
「俺は日帰りの話をしてた」
「わかってる。確認しただけ」
紬は俺の腕を軽く叩き、そのまま手を取った。
今度は、どちらからともなく指が絡んだ。
恋人役として過ごした六回は終わった。それでも、二人で初めてすることは、まだいくらでも残っていた。
日帰り旅行の前夜、紬からあの水族館の写真が送られてきた。
〈今見ると、律の顔が硬すぎる〉
〈緊張してた〉
〈別の意味で?〉
水族館で紬が使った言葉を返される。俺は少し考え、今度は逃げずに打った。
〈好きな子が近かったから〉
既読がつく。返事は五分来なかった。
やがて、猫が両手で顔を隠すスタンプが届く。
〈明日、どんな顔で会えばいいの〉
〈そのスタンプみたいな顔でいいだろ〉
〈絶対しません〉
翌朝、待ち合わせ場所にいた紬は、昨夜のスタンプそっくりに両手で頬を隠していた。
「顔から練習中?」
「うるさい。行くよ」
紬は俺の手を取り、改札へ引っ張った。
今度の行き先は、二人で選んだ場所だった。




