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因縁の終焉

第十四章

 こうして、青燕の南魏侵攻は事前に食い止められたのみならず、劣等感をいだいていた白鈴の気持ちは晴れ晴れとして、南魏と青燕の女性たちの働きかけは有意義なものになった。

他方、南魏と青燕と延漢が不可侵条約を締結して以来、南魏に対する攻撃を仕掛けていないのが延漢ではあるが、その延漢で暮らしている者たちは、必ずしも南魏と仲良くしたい者たちばかりではなかった。荀慶や蔡単など、延漢を外交で南魏より格上と認識したい者たちもいる。特に荀慶は外交に優れているので、外交に優れているもう一人の重臣とともに、部下を使って外交の場で南魏を貶めようと画策していた。そしてその策動は、最終的に南魏と延漢の宴席で披露されることになった。

それは夏の終わりごろの、とある日のことであった。南魏の郊外、延漢からも青燕からも近い場所で、南魏と延漢と青燕の三国が、対遊牧民同盟の継続を話し合う、『史記』の澠池(めんち)の会を模した大宴会席が開かれた。

宴もたけなわとなったころ、延漢の外交官がわざとらしくため息をつき、銀月に向けて言い放った。

「南魏の王は法銀月どのとおっしゃる女子(おなご)を外交の席に連れてこられた。まことに新鮮な趣向だ。……ところで法どの、今宵の酒は美味だが、漢の武帝の時代、宮廷の宴会で『礼記(らいき)』の教えに倣(なら)い、『女官はただ酒を注ぎ、座の興を添えるもの』と定めた儀礼をご存知かな?ここはひとつ、我が国の若き策士に杯を注いで、南魏の礼を示していただきたい」

これは銀月をただの酌婦(しゃくふ)あつかいして、南魏の官僚制度の威信を公衆の面前でおとしめるという陰湿な罠であった。席が一瞬で静まり返り、南魏の男性同僚たちは青ざめた。

しかし銀月は一切表情を変えず、優雅に立ち上がると、酒で満たされた酒器を持って、延漢の若き策士ではなく青燕の若き策士の前に進み出た。

「延漢の先生は漢の武帝を引き合いに出されましたが、歴史の隠れた側面をいささかお忘れのようです。武帝の御代において匈奴を震撼させた名将の衛青(えいせい)を見出すきっかけを作ったのは、武帝の姉である平陽公主(へいようこうしゅ)でした。彼女の推挙が無ければ、漢はその後遊牧民の馬蹄に踏みにじられていたでしょう。私は本日、我が王の命を受け、青燕との間に、新たなる衛青と霍去病(かくきょへい)の同盟を結ぶために参りました。青燕の若き英傑よ、天下を動かした平陽公主の酒、お受けいただけますか?」

銀月は青燕の策士に堂々と酒を注いだ。青燕の策士は銀月の気転と、青燕を漢の名将になぞらえた絶妙な賛辞に圧倒され、思わず膝をついて両手で杯を受け取らざるを得なくなった。

延漢の外交官は南魏を侮辱するつもりが、逆に南魏を引き立てる結果になり、同盟内で自国が孤立するという大失態を演じた。銀月の圧倒的な歴史の知識と敵の連帯を切り崩す外交感覚が、宴の席を支配した。

そこで延漢の別の策士――先ほどの人物より若い策士が、周囲にいる護衛の武将たちを見た。その中には馬術も含む武芸の総合力では最も高い呂恬や、武芸のみならず剣舞にも秀でた馬典の姿もあったが、甘成の様な文武官もいた。そして延漢の若い策士は女性文武官では最も武芸に秀で、智謀にも長けている麗玉に目を付けた。だが、敬意を表したのではなく、いわばお飾りであろうと甘く見たのだ。その策士は述べた。

「南魏の将兵は大変有能な方がそろっているとのこと。こちらの護衛たちもさぞや武芸に秀でた方がお揃いなのでしょう。ですが、こちらの女性は果たしてどのような武芸に秀でていらっしゃるのか、教えてくださいませんか?」

そこで銀月は答えた。

「そちらの女性は朱麗玉どのでございます。先の契丹と我らが南魏の戦において、城壁の上で舞を舞って敵を翻弄し、その後は契丹の副王を相手に槍や剣でしばらくのあいだ斬り結んだ者でございます。槍術や剣術だけではなく剣舞も優れております。そちらの馬典どのも剣舞に秀でておりますので、馬典どのと麗玉どのによる剣舞をご覧になりますか?」

銀月の発言が虚言では無い事を直感的に悟った策士は別の提案をした。

「いやいや、私は剣舞が嫌いというわけではないが、どうも『史記』における鴻門の会や、『三国志』における劉備と劉璋の宴席で龐士元が主催した剣舞を思い出し、今ひとつ楽しめないのだ。何か和やかになる芸を披露してくださるなら拝見したいところだが……」

この言葉に対しては銀月も返答に窮した。だが銀月に代わって麗玉が答えた。

「貴公は『史記』や『三国志』をご愛読なさっているご様子。ならば『三国志』の故事にちなんだ、和睦のための芸をお見せいたしましょう。一度幕屋を出て、私に付いてきてくださいませんか?」

延漢の若い策士と、それにつられて宴席の出席者たちが、麗玉とともに幕屋の外に出た。幕屋の外には南魏の武官のみならず文武官も護衛のために立っていた。そしてその中には麗玉の後輩にあたる若い女性文武官と、麗玉の先輩にあたる少しだけ年上の女性文武官もいた。麗玉は若い方の一人に耳打ちをする。麗玉の意図を察した女性文武官は、少し離れたところに駆け足で進み、地面に自らの槍を刺した。急いで麗玉のそばに戻ってくる若き文武官。

「都尉さま、この距離でよろしいでしょうか?」

「そうね。ちょうど良いわね。どうもありがとう」

「はい」

後輩の女性文武官は微笑みながらうなずいた。麗玉は自らが背負っていた矢筒から矢を一本取り出し、左手に持っていた弓につがえた。何が起きるのかと皆がかたずをのんだが、銀月は事情を察した。かの『三国志』で一触即発の状況をまるくおさめた名場面を麗玉は再現するつもりなのだろう。

麗玉は銀月の予想通り、弓をきりりと弾き搾り、先ほど若き女性文武官が刺した槍をめがけて矢を放った。矢は見事に槍に命中し、居合わせた人たちは麗玉の弓術の腕前に感嘆した。

「いかがでしたか?貴公のお好きな『三国志』の故事にならい、昭烈帝劉備と紀霊将軍を和睦させた飛将軍、呂奉先の真似ごとをしてみました。お気に召しましたでしょうか?」

延漢の若き策士は麗玉の弓術を認めざるを得なかったが、単に褒めるだけでは悔しかったのか、追加の要望を述べた。

「いやいや、実に見事な腕前ですな。しかし『三国志』における弓術の見せ場と言えば、空を飛ぶ雁を射落とした関興の故事も私は好きでございます。ちょうどあのあたりに鳥が円を描いて飛んでおりますな。せっかくですから呂奉先のみならず、関興の故事も再現していただければありがたく存じます」

この要求に対して麗玉は

「かしこまりました」

と一言答えて軽く会釈すると、再度弓に矢をつがえて、空を舞う鳥を射た。麗玉の放った矢は見事に鳥の翼に刺さり、鳥は落ちてきた。そこで麗玉は

「魯雲…いや魯雲どの。済まないがその鳥を連れて来てくれないか?」

「分かったよ朱さん…いや、分かりました朱どの」

少し遠く、鳥の落下地点に近いところにいた魯雲に向けて麗玉は頼んだ。魯雲は麗玉の真意を理解して、落ちた鳥を捕まえに行った。数分後に戻った魯雲は、親鳥がひな鳥を翼でかばうように、先ほど落ちてきた鳥を大切そうに抱えながら持ってきた。

「はい。さすがは朱さん…いや、朱どのだね。僕の考えを受け入れてくれてうれしいよ」

「気にするな魯雲どの。貴殿の考えに道理があるから受け入れたまでだ」

 二人はお互いの意図を理解しあっている様だが、その意図は他の人には分からなかった。だが銀月だけは、鳥の様子を見て即座に理解した。麗玉は鳥の風切羽(かざきりばね)を射抜き、鳥を殺さずその飛行能力だけを奪ったのだ。

「仰せの通り射落としました。ところで、貴公はこの鳥をお召し上がりになりたいので?」

「え?いやいや、南魏の料理人たちが本日用意してくださった料理には大変満足しています。その上さらにその鳥まで食べたいという意図ではございません。単に関興の故事の再現を見せていただければ、王都洛陽への素晴らしい土産話になると考えた次第です」

「かしこまりました。ところで私は貴公の御所望の通り鳥を射落としました。しかしお召し上がりになる訳でないなら殺す必要はございませんよね?土産話になさるなら、鳥かごをご用意しますから、どうぞこの鳥を洛陽まで連れて行き、羽が生え変わって再度飛べるようになるまで貴公のお屋敷で飼育なさってはいかがでしょう?」

「!?……」

「私は風切羽を狙って射抜きました。ですからこの鳥はしばらくすればまた飛べるようになりますし、せっかくの土産話ですから、お聞きになる方々もこの鳥もお見せになってお話しなさった方が、『これがその時の鳥か』と感じ入りながら、土産話をいっそう興味深くお聞きになるでしょう」

麗玉の放った矢は、麗玉の狙い通り鳥の翼に刺さっただけで、幸い鳥の命は奪っていなかった。その鳥はしばらく養生すれば再度飛べるようになるだろう。かつて魯雲が自作の痺れ薬を犬に対しても使わず自らの体で試したのと同じ様に罪なき生き物を理由もなく傷つけるのは可哀想と感じる様になった麗玉だったが、他国の使者の求めとあれば食べるわけでもない鳥とは言え落とさないのも無粋というもの。しかし命を奪わずとも弓術の腕前を示すことは出来る。そこで麗玉が今回選んだのは、鳥の風切羽を射て、羽が生え変わるまでは飛べない様にすることだった。飛んでいる鳥の風切羽を狙って見事射抜いた麗玉の弓術の技量と、そして「食べるのでなければわざわざ鳥を殺す必要は無い。再度飛べるようになるまで世話をすべきだ」と判断した麗玉の心情に、延漢の使者たちも青燕の使者たちも敬服せざるを得なかった。

とは言え、件(くだん)の若き策士は麗玉によるこの提案に対して

「いかに鳥かごを用意していただいても洛陽まで連れて行くわけにはいかない。しかもその鳥にとっても、故郷の南魏で暮らす方が幸せであろう」

と言ったので、結局その鳥は羽が生え変わるまで魯雲が雪蘭とともに世話をすることを魯雲が提案した。

宴の後、南魏の男性官僚たちは銀月と麗玉の前にやって来て褒めそやした。

「さすがは銀月どの。見事なご対応でした。延漢からの挑発をあれほどまで見事に切り返すとは、感服いたしました」

同僚からの誉め言葉に銀月は照れ笑いをしながら

「めっそうもございません。皆さまが私たち女性官僚も男性官僚と分け隔てなくあつかってくださるからこそ、四書五経などの勉強にも打ち込めるのです。それより麗玉さん…麗玉どのの妙技こそ素晴らしかったですね」

と、麗玉を礼賛(らいさん)した。そこで他の男性官僚が

「たしかに、銀月どのの弁舌のみならず麗玉どのの武芸も素晴らしかった」

と述べ、別の男性官僚も

「左様ですな。槍や鳥を射るあの弓術も素晴らしかったが、あえて鳥を殺さず、食べないならこの鳥を殺さないで、あなたが飼育なさってはいかがしょう、とやり返したあの皮肉も素晴らしい。延漢の反南魏派の連中が悔しがる顔が目に浮かびます!」

と、笑いをこらえながら言ったが、麗玉はキョトンとしながら言った。

「皮肉?私は単に食べもしない生き物を殺すのは可哀想だし、せっかくだからあの鳥を洛陽に連れて行けば土産話に花を添えることになると思っただけですけど……」

麗玉のこの発言を聞いて、その場にいた魯雲以外の官僚たちは不意に足払いを食らった様にヨロッと体を傾けた。

だが魯雲と麗玉にはそれが皮肉であることが分からなかった。そこで弓術のみならず外交にも優れた男性文武官の夏侯勝が説明した。

「いや、あのですね麗玉どの。あの場合は麗玉どのが良かれと思ってあの鳥を洛陽に連れて行くように言ったとしても、相手は麗玉どのに鳥を射落とすという難しい要求をして麗玉どのが見事にその難題を成し遂げたのみならず、まるで『あなたが言い出したのだからあなたが責任をもって世話をしてよね』と言ったように解釈できる発言を麗玉どのはなさったのです。それゆえ延漢の使者たちは『目論見が外れた上に恥をかいた』と思ったことでしょう。また、仮に彼ら自身がそう思わなくても、王都洛陽で彼らの上官に今回の顛末を報告したら、報告を聞いた上官は恥ずかしくてたまらないでしょう」

これを聞いて麗玉と魯雲もようやく意味を理解して「ああ、そういうことか」と納得したような表情をした。少なくとも周囲の者はそう感じた。

ともあれ、一瞬ヨロッと体を傾けた者たちのうち、銀月は麗玉を擁護した。

「ま…まあ、皆さん…麗玉どのには皮肉を込めたつもりが無かったのなら、それはそれで良いことではありませんか。そうした天真爛漫なところも麗玉どのの良いところですよ」

この銀月の発言のおかげで、さっきは脱力した他の官僚たちも気を取り直し、麗玉の天真爛漫さと高い技量を共に褒めたたえた。


第十五章

法銀月は外交に関しては酈陽の弟子にあたる。その酈陽が銀月の外交における成果を知った際には、単なる外交上の勝利という以上に、延漢の策士を打ち破ったことについて深く感じ入った。

(そうか、銀月君は古典に関する知識を利用して見事な反駁をおこなったものじゃな。それにしても青燕ではなく延漢からの策謀を跳ね返したことは感慨深い。延漢の外交の総責任者は、あの蒯融(かいゆう)だ。かつて淮陰侯韓信(わいいんこうかんしん)をそそのかし、我が祖先の酈食其(れきいき)さまを残酷なる死に至らしめた蒯通(かいつう)の子孫が黒幕である以上、儂の弟子がご先祖さまの仇を討ってくれたことになるのう。延漢の策略を逆手にとって延漢は青燕より格下であると印象づけた今回の外交の顛末を果たして延漢の外交の責任者たちはどう考えるのか。その評価を聞いてみたいものじゃ)

後日、洛陽の翠安城に延漢の策士たちが登殿して、今回の顛末を荀慶および荀慶以上に外交に精通した外交の総責任者である蒯融に報告したところ、荀慶も蒯融も青ざめた。呂奉先の故事にちなんだ弓術の妙技を披露した麗玉に向けて関興の故事も再現して欲しいと頼んで大恥をかいたことも延漢の名誉にかかわるが、麗玉の弓術や槍術や剣術は既に彼らも知るところであるから「挑発した相手が悪かった」と納得した。だが、古典を引用した弁舌でもって荀慶と蒯融が考えた論理を見事に逆転させた銀月の方が外交上恐ろしいと感じたのだ。

まさか荀慶と蒯融の二人が相談しながら考えた、女性外交官をおとしめる弁舌を、これほど見事に切り返されるとは思っておらず、外交官として女性文官も起用している南魏はさぞかし悔しがっただろうと考え、吉報を期待していたのが荀慶と蒯融だったからだ。とは言え、これもまた麗玉と同様に「挑発した相手が悪かった」と言えるだろう。たしかに銀月は契丹との戦いに参戦するまでは楽郷城内の兵糧の管理や近郊諸地域の治水を主たる任務としていた。だが銀月は、当代随一の説客である南魏の酈陽、すなわち、稀代の説客である酈食其(れきいき)の子孫から外交について学んでおり、契丹との戦いの後は彼女の後輩にあたる夏侯勝や徐明琶などの外交官を、酈陽とともに指導するほどに成長していたのだから。

かつて淮陰侯韓信に進言して稀代の説客である酈食其(れきいき)を死に至らしめた蒯通(かいとう)の子孫である蒯融は、よりによって酈食其の子孫が銀月を指導して外交について教えていたことは知らなかった。だが結果的には、蒯通のせいで斉王田広に煮殺された酈食其の子孫が、まるで先祖の恨みを晴らすかのように、弟子の銀月を通して蒯通の子孫の部下を完膚なきまでに論破した瞬間が、今回の宴席だったのだ。

 他方、実際に南魏や青燕との宴席に参加した延漢の策士たちは、そうした先祖の因縁を巡る外交の戦いとは別のところにいら立っていた。麗玉の弓術が予想以上に素晴らしかったせいで恥をかいたのは仕方ない。ただ、鳥かごを用意するからこの鳥を洛陽に連れて行ってはいかがかと麗玉が提案した時に、魯雲が無邪気にほほ笑んだことが彼らの誇りを深く傷つけていた。

宴(うたげ)に列席した延漢の策士の一人は思った。

(あの魯雲とかいう童顔の美男子。アイツだけは許せん。奴は麗玉が鳥かごを勧めた時に笑いやがった。あれは絶対に我ら延漢が大恥をかいたことを嘲笑していたに違いない)

別の者は思った。

(魯雲とやらの名前は忘れないぞ!あんな涼しげな表情で我らを愚弄する笑みを浮かべたあの童顔の男!アイツにだけはいつか必ず逆襲してやる!)

魯雲の表情を見ていた延漢の他の列席者たちも魯雲に対してはほぼ同じ印象で、魯雲は身に覚えのない理由で延漢の外交官たちから恨まれることになってしまった。

実際には魯雲は、麗玉の提案に対して

(その方が良い。せっかくの土産話に花を添えることになるからね)

と無邪気に思ったから無意識に笑みがこぼれたのだが、深読みをする外交官たちからは痛烈な厭味(いやみ)であるかのように思われてしまった――


いわれのない理由で恨まれる羽目になった魯雲。そんな魯雲の事績を竹簡でたどると興味深い特徴に突き当たる。戦における駆け引きは歴戦の軍師には及ばないものの、四歳年上の銀月や三歳年上の陸正に比べてわずかに劣る程度である。魯雲が比較的得意とする弓術を含む武芸を加味すると南魏の文武官としての総合成績は麗玉や賈良以外に魯雲を上回る者はほぼいないと思われる。しかも後年の魯雲が邁進した内政に関して、如何に韋脩の指導があったとはいえ、単なる努力だけではなく才能もあったのではないかと言わざるを得ないほどに善政を敷いていた。ただ、外交に関しては酈陽や銀月や魯真には遠く及ばず、外交においては酈陽に劣る郭俊や韋脩や法純にも及ばない。そして夏侯勝や徐明琶といった外交の専門家はもとより、内政では魯雲より劣る麗玉や賈良や甘成にも遠く及ばない。要は外交のように人と人が向きあって腹の探り合いをすること自体が、無邪気な魯雲には苦手なのである。

だが、そうした魯雲が外国の人と話して上手くいく場合もある。それは魯雲が素直だから、相手が「騙そう」という意図をもっていない場合にはかえって上手くいくこともあるからだ。外交に優れた人間であれば、かえって「何か隠された別の意図があるのではないか?」と思うような場面でも、魯雲は無邪気に相手の言葉を信じてしまう。だからこそかつて阿瑠奈が生け捕りにされて停戦を提案した際には、魯雲は深読みしないで阿瑠奈の提案を喜んだのだ。そうした場合、深読みをする者が阿瑠奈の提案を聞いたら、その提案を即座に快諾しなかったかもしれない。その意味で魯雲は外交の達人に比べて、むしろ早く停戦という結果にこぎつけることが出来たと言える。

そしてそうした魯雲の性格を耶律玄賽も知っているので、耶律玄賽が魯雲と話をすることになった際には「魯雲ならウソはつかないだろう」と楽観視しながら、話が容易に進んだことがあった。

魯真との舌戦を終えたしばらく後、魯雲は耶律玄賽に話しかけた。

「耶律玄賽どの、貴殿に一つ頼みがある」

思い詰めたような表情の魯雲。耶律玄賽は、何かただならぬものを感じた。そこで

「かしこまりました。魯雲どのの頼みとあれば、まずは聞かせていただこう」

と応じると、魯雲はしばしの沈黙ののち、再度口を開いた。

「ありがとうございます。実は唐突な話ですが、我が兄の魯真が貴殿に謝罪したいと申しております。そこで是非その旨を伝えて欲しいと私に言ってきました」

「……」

あまりに意外な魯雲の発言に、耶律玄賽は二の句が継げなかった。そこで魯雲はどうにか話を続けようとした。

「耶律玄賽どの、貴殿がおっしゃりたいことは分かる。貴殿の御子息は我が兄の魯真により人質にされ、さらに貴殿が私を捕まえて牢屋に入れなければ貴殿の御子息は殺されていた。だが、考えて欲しい。我が兄が貴殿の御子息を害しようとしたのは我が南魏の領土拡大のためであった。一方貴殿は契丹の領土拡大のために我が南魏に侵攻し、僕や朱さん…朱都尉などと敵対した。だが今はこうしてあなたは僕と話をしている。かつて殺し合いをした者たちでも語り合うようになれる。そのことは貴殿もご存じのはずだ」

真剣なまなざしで説得する魯雲に、しばし逡巡していた耶律玄賽も、ついに口を開いた。

「魯雲どの、貴公のおっしゃることはもっともだ。匈奴は朱那郁単于の命により延漢に侵攻し、そして我が契丹はオレの命令により南魏に侵攻した。そしてオレは麗玉どのが彭蒙どのを止めてくれなければ戦死していたはずの人間だ。オレが裏切る危険に備えてそして貴公の兄上がオレの息子を人質にとったのも、そして貴公を舌戦に参加させまいとして牢屋に入れるためにオレに脅しをかけたのも、すべては南魏のためであり、契丹の領土拡大のために南魏に侵攻したオレの考えと大差ない……だが……」

そこまで話しながら躊躇したようにうつむいた耶律玄賽に魯雲は尋ねた。

「だが……何なのだ?…教えてくださらないか?」

魯雲の真摯な口調に、耶律玄賽はゆっくりと答えた。

「だが、理屈ではオレも魯真どのも自国の領土拡大のために他人の命を犠牲にしたのであり、そのことに違いは無いと分かっていても、やはり我が息子を人質にとってさらにその命を盾にして魯雲どのを牢屋に入れることを強制した魯真どのを、オレは許すことが出来そうにないのだ」

「……」

魯雲は対応に苦慮した。第三者である魯雲の観点から言えば、魯真も耶律玄賽も互いに自国の領土拡大のために他国の人間を犠牲にした点で同じ立場である。だが、耶律玄賽としてはやはり魯真を許せないのも、それはそれで分かる話である。兄の願い通り耶律玄賽と魯真の和解を求めるために兄の謝罪を聴いてもらいたいが、かと言って強制は出来ない。どうすればこの問題を解決できるのだろうかと魯雲が頭をかかえた時

「耶律玄賽どの、貴殿の考えはまったくもっともだ」

その声の主は魯真であった。

「兄上、何故ここに?」

耶律玄賽との今回の話し合いの前に、魯真から

「耶律玄賽どのに謝罪したいので、その旨を伝えてくれないか?」

と頼まれた魯雲は、

「兄上、僕の出来る最大限の努力をしてみる。何とかして耶律玄賽どのに兄上の謝罪を聴いてもらいたいからね」

と答えて、どうにかして魯真からの謝罪を耶律玄賽に聞いてもらおうとして、気負い過ぎと言えるほどに熱心だったからだ。そんな状態を見た魯真は

(耶律玄賽との交渉を全面的に僕に任せるつもりだろう)

と、魯雲は思っていた。だが魯真は知っていた。人の好い弟が、「どちらの言い分も正しい」と感じた場合には、どちらの味方をすれば良いのかが本当に全く分からなくなってしまう、という経験をしている事を。だから魯真は、おそらく魯雲が耶律玄賽の言い分を聞いて判断が出来なくなるだろうと見越していたのだ。

ゆえに、魯雲には悪いと思いながらも、そばで聞き耳を立て、耶律玄賽の言い分に対して魯雲が何も言えなくなったら自らが出て行こうと思って待機していたのである。その意図を知っていか否か、耶律玄賽が魯真に話しかけた。

「魯真どの、聞こえていたなら話は早い。オレは正直に言ってアンタが嫌いだ。アンタがオレの息子の暫隗を人質に取ったことは、オレが南魏の領土を得ようとして侵攻しなければ起きなかったことだ。だが、オレはそうした理屈は分かっても、やはり息子が人質に取られ、魯雲どのをオレが牢屋に入れない限り息子の暫隗を殺すと脅したアンタを許せる自信が無い」

 そこで魯雲が口を開いた。

「耶律玄賽どの。貴殿の今の言い方は、自らを客観視して、あるべき姿に到達できるかどうかと自らに問いかけている、非常に高度な精神状態だと僕は思う。ならば、僕や兄上の意図がどうあれ、『許せない』という気持ちを捨てられないままの貴殿であっても、すでに十分妥協したと言えるのではないだろうか?」

「?……」

魯雲の言葉が少し難しかったのか、耶律玄賽は魯雲の言いたい事が分からなかった。その表情を見た魯真が言った。

「耶律玄賽どの、弟が言う通りだと思う。私は貴殿に許してもらえると思っていない。ただ、単に貴殿に対して謝罪したいだけだ」

魯真が言う意味は分かったが、耶律玄賽はどうしても言いたいことを言った。

「魯真どの、オレが言う『許せる自信が無い』という意味は、アンタを力いっぱいぶん殴らないでいられるかどうか分からない、という意味だ。正直に言うと、オレはさっきからアンタを思いっきりぶん殴りたいと思ってるんだよ」

この言葉に魯雲は慌てたが、魯真は落ち着いた口調で言った。

「耶律玄賽どの、私は一度死んだと思っている。それは私の計画が露呈して、麗玉どのが私を問い詰めた時だ。あの時私は死を覚悟した。だから今貴殿が私を殴ろうとしているなら、殴られても仕方ないと私は思っている」

魯雲は兄の言葉に不安を感じずにはいられなかった、槍術ではあの麗玉を相手にほぼ互角、いやそれどころか若干は有利に戦いを進めたのが耶律玄賽だ。しかも武器を使わない殴り合いの場合では、その膂力(りょりょく)は間違いなく麗玉を凌ぎ、魯真を実際に殴ったら大ケガさせる可能性が高い。そこでどうにかまとめようとしたが、巧(うま)い言い回しが思いつかない。どうにか口を開いた魯雲がどうにか言った言葉は

「耶律玄賽どの、貴殿の怒りを鎮めてくれとは言わない。だがどうにか兄を殴ることはしないで欲しい。お願いだ」

ただそれだけだった。そして魯雲が深々と頭を下げ、魯真もまた深々と頭を下げた。

「耶律玄賽どの、弟が無理を言って済まない。私を殴って多少でも気が晴れるなら殴っていただいて構わない。ただ、私は南魏と契丹の対立だけは避けたい。貴殿が釈放される事が決まった以上、貴殿は契丹に帰るであろう。その後に南魏と契丹が不仲になっては困る。それは何としても避けたいのだ」

魯真の発言を聞いた耶律玄賽は、今までにないほど複雑な表情をした。そしてしばしの沈黙の後、引き絞るような声で言った。

「魯真どの、オレはアンタを殴らない。だが、オレはアンタを許せるほど寛大ではない。元はと言えばオレが部下とともに南魏に攻め入ったせいで息子の暫隗が人質に取られ、命の危険に陥ったことは分かっている。だが、それでもアンタがオレの息子にしたことを、どうしても許せないのだ。だが、アンタを殴ることは我慢する。それがオレの限界だ」

この言葉に魯雲も魯真も、再度頭を下げた。だが、今度は耶律玄賽が少し困ったような表情をした。

「いや、二人とも頭をあげてくれ。オレもそもそもオレが南魏を攻撃したことが事の発端だったことは分かっているのだ。ただ、息子に関する事だから、さすがに割り切って許す気にはなれない。だが、それは正直に言えばオレの度量が狭いからだ。だからアンタらは頭を下げるべき人間じゃない。気にしないでくれ。オレの器はその程度なのだ」

耶律玄賽の言葉に、魯雲は再度戸惑ったが、魯真は言った。

「耶律玄賽どの、貴殿の器が小さいなら、私の器も小さいと言わざるを得ない。私が貴殿の立場だったら、やはり息子を人質に取った相手を許せる自信が無いからだ。なので、この件はお互いこれ以上踏み込まないことにしたい。どうだろうか」

「承知した。オレはアンタを殴りはしないが、気持ちの上では許せない。ただ、アンタもオレと同じ立場だったらオレと同じ心境なのだな。その点が分かっただけでもアンタの謝罪を聞けたのは良いことだった」

耶律玄賽のこの言葉を聞いた魯雲はホッと胸をなで下ろした。

「ありがとう、耶律玄賽どの。その言葉を聞けて嬉しい。僕は貴殿の器が小さいとは思わない。我が南魏に侵攻されたのは困るが、しかしかの永嘉の乱の直後の戦乱の世を生き抜いた者たちが我が南魏の先祖であり、僕の先祖も今より過酷な時代を生きてきた。だから貴殿が南魏の領土を得ようとしたような国土を巡る争いは、かつてはもっと頻繁だったのだろう。そして兄も貴殿と同じく南魏の領土を拡大するため他国を攻めるべきと主張した。そのように考える者たちが決して少なくないのが戦国の常だと僕は思う。なのでその現代にあって、自らの軍事侵攻を他国からの視点で考えられる貴殿は充分に王者たりえると僕は思う」

魯雲のこの言葉に耶律玄賽は

「かたじけない。そこまで言っていただき、オレとしては身が引き締まる思いだ」

と述べ、この三者の話し合いは区切りを迎えた。

そして、耶律玄賽がその場を去った後、魯真は魯雲に頭を下げてから話しかけた。

「雲、済まなかったな。当初思った以上にお前に迷惑をかけた」

魯真の言動に魯雲は恐縮しながら言った。

「兄上、そんなにかしこまらないで。僕は特に役に立っていない。兄上が誠実に耶律玄賽どのに向き合ったから、あのような形で事態が収束したんだよ」

魯雲のこの言葉に魯真は、少し笑いながら言った。

「しかし雲、いかにもお前らしいなあ」

「え?どこが?」

先ほどまで張り詰めていた空気が明らかに軽くなったのを感じた魯雲も、わずかに笑みを浮かべながら尋ねた。

「耶律玄賽どのに対するお前の態度だよ。そもそも俺の言い分も耶律玄賽どのの言い分も、どっちも道理があるからと言ってどっちの味方も出来なくなるのがお前らしいし、しかも最後には永嘉の乱まで引き合いに出して先祖や諸侯の戦いを踏まえて耶律玄賽どのを論じるんだから、まるで目の前の人物を後世の歴史家が大局的に論じるような口ぶりだったぞ」

「そ…そうかな?」

魯真が糾弾しているわけではないことは理解した魯雲は、自らの言動は兄が奇異に思うほど変な事だったろうかと考えながら、首をかしげた。

だが、今度は魯真が少し考えこんだような表情をしたので、魯雲が尋ねた。

「兄上、何か気になることでも?」

考えに耽っていた魯真は、弟から話しかけれて我に返った。そして自らの疑問を述べた。

「いや、なあに、ただ単に、もしこの俺とお前を偉大なご先祖さまが見ていたらどう思うか。そしてどちらの言い分を支持しただろうかと思ってな」

「偉大な…ご先祖さま?」

普段は先祖の事をあまり考えない魯雲だったが、伝説の慶山王魯胤の末裔とも孫呉の重鎮魯粛の末裔とも噂されたことがある自らの経験を踏まえて兄の考えを読み解こうとした。

「ひょっとして兄上は、あの伝説の慶山王から見た僕たちはどう見えるだろうか、とかんがえていたのですか?」

魯雲の言葉を聞いた魯真は軽く笑いながら否定した。

「いやいや、そんな伝説的な古代の名君ではなく、かの益陽侯魯粛(えきようこうろしゅく)どのなら、子孫にあたる我らをどう評価するかな、と思ってさ」

この言葉を聞いた魯雲は、長年の謎が解けた様な気がした。

「ああ、やはりそうだったのですね」

「ん?何がだ?」

「いや、やはり僕たちはあの天下三分の計を提唱した魯粛公の子孫だったのか、と思っただけです」

この言葉に魯真はやや戸惑った。

「そうだよ。お前は今まで我が家の家系図を見たことが無かったのか?」

驚いた魯真の表情と口ぶりに、魯雲は恥ずかしそうに言った。

「いや…まあ、僕としてはご先祖さまが誰であれ、僕自身が出来る限り頑張れば、それが僕の人生の最大の成果につながるだろうと思って、家系図を別段気にしなかったんだよ」

魯真は逆に魯雲の考えに感心した。

「雲、それはそれで非常に正しい。そして心を強く保たないと出来ない考え方だ。先祖の威光に頼りたくなる気持ちはなかなか避けられないからな。正直俺は文官試験のための勉強でも、その後の仕事でも、魯粛公の事績を『三国志』で繰り返し読んで、『オレはこの偉大なご先祖の末裔ならばもっと頑張れるはず』と思いながら乗り越えてきたんだ。なのにお前はそうしたご先祖さまを頼りにしないで、自らを励ましながら今まで頑張って来たんだな。その方が凄いことだと俺は思うぞ」

それに対して魯雲は照れくさそうに言った。

「でも兄上、朱さん…麗玉どのが、あの朱鮪の子孫であることで『光武帝劉秀が我が先祖を敵として討っていたら私はこの世に生を受けなかった』と言って、敵をなるべく生け捕りにしようとした僕を擁護してくれたんだ。だから僕は朱さんのご先祖様の故事に救われたんだよ。それに何と言っても劉明さまさ。劉明様が安楽公劉玄、ひいては昭烈帝劉備の子孫でいらっしゃるから、延漢は匈奴と対等な条件で和睦出来た。李荘陛下が如何に名君とは言え匈奴と延漢の総合的な戦績が五分五分の状態で延漢の方から講和を持ちかけたら、匈奴と対等な条件で和平条約を締結できたか否か分からないよね」

魯雲の言い分はもっともだと思った魯真だったが、一つ付け加えた。

「雲、確かにそれはそうだ。だが、麗玉どのがご自身の先祖がかつて劉秀に討たれてもおかしくなかった立場だったことを述べて……いわば先祖の恥を周囲に明言してでもオマエの考えを擁護してくれたのだ。それに劉明さまも単に蜀漢の劉備の末裔というだけじゃない。ご自身で延漢と匈奴の架け橋になりたいとお前に伝えたからこそ今実際に延漢の光禄大夫のみならず朱那郁単于の義弟として匈奴と延漢の和睦の要(かなめ)になってくれているのだ。私は我が先祖の魯粛公を尊敬しているが、単にその威光に甘えていては良くないと思うし、麗玉どのや劉明さまのように、先祖から得るべきものを得て、そして自らも最善を尽くす、という行動もまた先祖の遺徳意外に大事なことだと思う」

魯真の言葉の深さに、魯雲は「戦の知略においては兄と互角、そして武芸では文官に過ぎない兄をはるかに凌ぐ。そして外交では兄の方が格段に上」と冷静に自己と魯真を比較していたが、兄の言う血筋とその血筋を踏まえて今を生きる我らが、そして他ならぬ魯雲自身が何をすべきか、と問いかけながら生きることの大切さを知り、兄の読みの深さに感嘆した。

さらに魯雲には、もう一つ気になる事があった。そこでせっかくの機会だから今こそ尋ねてみようと魯雲は思った。

「兄上、耶律玄賽どのなど契丹との戦いの際には西方に赴任した僕たちが戦いました。しかし青雅どのや夏侯勝どのはなるべく前線に立ちたいと望み、しかも夏侯勝どのに至っては甘成どのとともに輜重の任務にあたったり、その後は外交を兼ねた会食に参加したりと、北方や東方での活躍を自ら所望なさっています。本来は名家の子孫として、もっと厚遇されても良いと思うのですが、何故わざわざ前線に立ちたいとおっしゃるのでしょうか?」

魯雲の言葉に魯真は少し意外そうな顔をして言った。

「雲、お前が言う『名家』との評価は正しい。我が南魏はかつての曹魏つまり、かの曹孟徳が夏侯一族などの協力を得て建国した魏の後裔だからな。魏の遺徳を継ぐ国家として、また、そもそも周越陛下のご先祖さまに貢献してこの南魏を建てた曹一族や夏侯一族は、さながら延漢にとっての拓跋一族や劉一族のように大切な存在だ。だがな……」

そこまで言ったところで一呼吸おいて、魯真はしみじみと言った。

「だがな、雲。我が南魏の官僚制度は名家だからと言って試験を甘くするわけではない。そして試験に受かった後も、評価は実績に応じてなされる。都尉になるのも侯に奉じられるのも、あくまでも官僚としての実績次第だ。だからこそ、名家の名に恥じないように、曹一族と夏侯一族は人一倍働き、功績を遺して、家名を穢さないように努めているのだ。我らも我らの先祖を誇って良いが、曹一族や夏侯一族は我が国の国号の由来たる魏の末裔。それゆえ青雅どのや夏侯勝どのは、他の官僚以上に我が国に貢献しなければならない、という重圧に耐えながら任務にあたっているのだ」

「……」

魯雲はしばし沈黙した。もちろん魯雲もこれまで命がけでいくつもの戦を切り抜け、内政にも打ち込んできた。だが、それはいわば自らの意志として立派な官僚になろうとしただけのこと。曹一族や夏侯一族の人々は、各々が自由意志ではなく家名ゆえに背負わされた名誉を守る使命を帯びていたのだ。そのことに思い至った魯雲は「僕が同じ立場だったら、果たしてそんな重圧に耐えられただろうか?」と、思わず不安になってしまった。

しかし、何はともあれ魯雲は魯雲で頑張るしかない。背負わされているものが重い一族もいれば、そこまで重くは無い一族もいる。魯雲は後者に生まれたことを幸運に思いながら、あくまでも一人の官僚として任務を全うする覚悟を新たにした。

 とは言え、基本的に有能でありながら、苦手分野もあるのが魯雲で、それは阿瑠奈から付き人あつかいされた際には泣き言を言ったり麗玉たちの武芸に助けられたりしたことからも明らかだった。そして、任務の種類によっては魯雲の得手不得手がハッキリと分かってしまうことになるとは、この時の魯雲はまだ気づいていなかった。


第十六章

その後、匈奴との戦いにおける軍功によって契丹に帰ることが許された耶律玄賽およびその部下たち、そして耶律玄賽の息子を韓叡および張蓋が暮らしている昇鶴城へと護送する際、魯雲のみならず許秀もついて行くことになった。兵站を担っていた許秀には、匈奴と延漢の間で和睦がなされた以上、今後は軍の遠征があまり無いだろうから、外交の一翼を担ってほしいという南魏上層部の考えもあったが、許秀としても望むところであった。それに、耶律玄賽の護送の後に、昇鶴城で契丹との会談を持つことはいわば外交である。魯雲だけではなく許秀もついて行き、魯雲とともに外交交渉にあたるべきと考えたのは許秀自身でもあった。

魯雲は許秀の随行を嫌がりはしなかったが、何もわざわざ随行しなくても大した問題は生じないだろうと思っていた。だが、許秀は「あること」を心配していた。

昇鶴城で身柄を引き渡された者たちのうち、耶律玄賽の部下および耶律玄賽の息子の耶律暫隗は休息すべく昇鶴城の奥の部屋に行ったが、耶律玄賽は韓叡とともに魯雲や許秀と話し合いをすることにした。そこで韓叡からは意外な要求が出された。

「魯雲どの、そして許秀どの。我らの副王たる耶律玄賽さまおよびその部下やご子息をお帰し下さったこと。まことに感謝いたします。ただ、本来ならここはお礼を述べる場ではございますが、しかしあいにく我が契丹は天候不良のため中々農作物が育たず、さらに貴国に対する賠償の負担が重く、貴国から食糧の支援を承りたいと存じております」

「――!?」

戦で慎重な戦いぶりをしてきた韓叡のこの発言に、許秀はとっさに身構えた。だが魯雲は

「そうですか。それはさぞやお困りでしょう。私としてできる事はなるべくさせて頂きます。私は具体的に何をすれば良いですか?」

と言ってしまった。そこで許秀があわてて叫んだ。

「魯雲どの、まだ契丹の実情が我々には分かっていない!それにそもそも先の戦では契丹が我が南魏を攻撃したせいで南魏の国土があらされ人も死んだ。ゆえに契丹が、いくら賠償の負担が苦しいと言ってもそれはもともと契丹が起こした戦が原因だ!我が国が契丹に援助する義理など無い!」

許秀の言うことにも道理があると感じた魯雲だったが、しかし韓叡の言う通りかもしれないという気もする。そこで魯雲は

「たしかに許秀どののおっしゃることも道理ですね。ただ、天候による作物の不作は民衆を苦しめます。いかに契丹による攻撃が戦の原因とはいえ、契丹の民衆が不作に苦しんでいるのを放置するのは仁義をわきまえた態度とは言えないでしょう」

魯雲のその言葉に「我が意を得たり」と思った韓叡は話を続けた。

「左様でございます。まさに魯雲どのは仁義を重んじるお方でいらっしゃいますな。是非とも我が契丹の窮状をその仁義でお救いくださいませ」

「はい。南魏の民草にも負担がかからず、契丹の民衆にも南魏の民衆にも負担が少ない方法を私なりになるべく考えますゆえ、韓叡どのもご協力くださいませ」

「……」

すっかり韓叡に丸め込まれそうな魯雲に対して、許秀はどう言葉をかけるべきか迷ってしまった。だが、そこで契丹の副王である耶律玄賽が口を開いた。

「待て韓叡。オレはしばらく契丹を離れているから故郷の最近の状況については知らないが、契丹の現状は南魏に援助を求めないとならないほどに苦しい不作なのか?」

魯雲の人の良さゆえに、契丹ではなく南魏の味方をしたくなってしまった耶律玄賽の発言に韓叡は驚いたが、とっさに言葉を発した。

「左様でございます耶律玄賽さま。実際に我が国は現在、天候のせいで不作に苦しんでおります」

耶律玄賽は韓叡の言葉に嘘は無いと思ったが以下のように述べた。

「分かった。だがたとえそれが事実だとしても、帰国したらオレはなるべく贅沢を慎むつもりだし、息子にも兄上にも甥や姪にも質素な生活をするよう要求する。オレはな、南魏の不殺の徳を学んでなるべく仁義を重んじるべきだと考えるようになったし、延漢では国王の李荘やその妃の華王妃も匈奴との戦になってからは質素な生活をして、部下と同じ食事をして、宮中の行事も旅行も取りやめて戦で生じる庶民の負担を減らしたとのことだ。我ら契丹も王族自身が範を示して質素な生活をし、その上でもなお生活苦の者たちを自国で救えないなら、その後に南魏に援助を依頼することにしようではないか」

「……か、かしこまりました耶律玄賽さま!まったくもっておっしゃる通りでございます!」

契丹王の弟であり武芸では王族随一であり、契丹では張蓋などごくごく一部の武将以外には武芸で負けていない耶律玄賽の発言ゆえに韓叡は軽んじることが出来ず、かくして魯雲や許秀が契丹に対する援助を周越や張豊に上奏する必要はとりあえず無くなった。こうして契丹と南魏の交渉は、耶律玄賽のおかげで契丹が折れる形に収まった。

その後、魯雲との別れの際に耶律玄賽は困惑したような複雑な表情を浮かべながら言った。

「魯雲どの。私は貴殿に大変お世話になりました。また、いくら私の息子をそんな貴殿を牢屋に入れてしまい申し訳ないとも思っています。ただ、無礼を承知で一言申し上げたいが、よろしいか?」

「はい…どうぞ。いったいどのようなお話ですか?」

耶律玄賽の表情から何かただ事ではないと感じた魯雲は神妙な面持ちで答えた。耶律玄賽は深刻な表情で答えた。

「実に言いにくいことだが、貴殿は今後なるべく外交には携わらない方が良いと私は思う」

「……」

言葉に詰まった魯雲を見ながら遠慮しそうになった耶律玄賽だが、正直に伝える事にした。

「貴殿は戦では知略に優れ、内政に関しても有能と聞いている。そして仁徳もある。しかし貴殿は人が好すぎるので、外交では他国の意向をそのまま丸呑みしてしまう。貴殿は外交以外の場でこそ活きる人材だと私は思う。おそらく先ほど同席なさった許秀どのという方も私と同じご意見だろう」

「か…かしこまりました。ご忠告に感謝いたします。以後外交については他の方(かた)に任せることにいたします」

痛いところを突いたが、しかし親切心から出た言葉であることが明らかな耶律玄賽の発言に、魯雲は頭を下げながらそう答えた。


第十七章

しばらくの後、酈陽と話をしていた魯雲に麗玉が尋ねた。

「ところで魯雲。あの鳥はどうなった?宴席の座興として射ないわけにはいかなかったけど、ケガをさせたのは申し訳ないから、羽が生え変わるまでの間の餌代は私が払うよ。今まで魯雲が払ってくれたんでしょ?」

「え?…あ、まあ、朱さんは仕事で鳥を射たんだから気にしないで。あと、餌代は春華さんが払ってくれてるよ。たしかに都尉の俸給は高いから鳥の餌代ぐらい大したことないけど、春華さんの家は豪商だからお金には苦労してないからね。それに僕や雪蘭さん以上に春華さんが気に入って、春華さんの邸宅で飼ってくれてるんだ。春華さんも新しい友達だと思ってくれてるようだよ」

 かつて麗玉が宴会の座興として射落とした鳥は、春華にとって慰めになる友達になったようだ。もっとも、そろそろ傷も癒えるだろうから、最終的には野生に帰してあげる事になのかもしれない。だからその点は全く問題が無いのだ。しかし魯雲は、麗玉の問いに答えた直後に、何か落ち込んだような表情を見せた。その様子がどうしても気になる。

「それなら鳥の事はもういいけど…でもどうしたの?魯雲。浮かない顔をして」

内政や外交どころか鳥の健康という細かいことまで含めて、およそ全てが魯雲の望むように進んでいるのが現在の状況だと感じている麗玉は、悩んでいる様子の魯雲をいぶかった。

「実はね朱さん、一つだけどうしても気になる事があるんだよ」

「何?何が気になるの?」

「青燕の丞相の公孫瑞さまだよ。公孫瑞さまが司馬仲達に属滅された公孫一族の末裔なら司馬徴さまに対して恨みをいだくのは無理もない、って思ってさ。もちろん青燕が戦を起こしたら南魏にとっては大迷惑だけど、国対国の関係ではなくて司馬一族と公孫一族の過去のわだかまりを、司馬一族からの謝罪という形で何とか解決できないかな、って思ってさ」

この話を聞いて酈陽は思わず膝を打った。

「魯雲君!それは一見奇策に思えるかもしれないが、実は漢の王道の神髄じゃよ!そもそも、かつて公孫氏を滅ぼした司馬仲達のやり方は残酷すぎた!もしも延漢王が寛大なお方なら、司馬氏のせいで生じた因縁を解くことこそが真の徳だと気づいて下さるだろう!よし、儂が延漢へ行って、この条件を丞相の司馬徴さまに呑ませてこよう!」

今にも部屋を飛び出そうとした酈陽に、陸正が声をかけた。

「お待ちくだされ酈陽どの。酈陽どのが延漢に言ってこの条件を飲ませることには賛成しますが、そのための文面の作成は私に任せてくださいませ。時に国宝をも超越する名門の家名を国家間の公式外交ではなく宗簇の若い儀礼として法的に位置づければ、延漢と青燕と南魏のいずれの国威も傷つけずに済む。その様な一族の長としての謝罪の文面は、どうしても私に任せていただきたいのです」

陸正の真摯な訴えに対して、酈陽は頭を下げ、文面の作成を陸正に依頼した――


その後、謝罪の場は延漢でも青燕でもなく、中立国であり提唱者でもある南魏の武漢に決まった。陸正の指揮のもと、朝廷の公式な外交の場ではなく、「司馬氏と公孫氏の先祖をともに祀る、臨時の祭壇」という意味合いを持つ祠堂を建立した。

国家の使者としてではなく「司馬家の家長である司馬徴」と「公孫家の家長である公孫瑞」が、私的な衣服である喪服をまとって対面することになった。周囲には南魏王の周越や丞相の張豊のみならず、数多くの高官が儀式を見守っていた。

中立国である南魏の外交責任者の酈陽が、祭壇の前で、司馬徴に「過去の過ちを認め、公孫氏の先祖の霊に酒を捧げて拝礼する」という儀式を行わせることになった。

司馬徴が深く頭を下げ、公孫一族の過去の名誉を回復する――つまりお家再興を祝う――という趣旨の書状を手渡した。そして

「司馬仲達の子孫として、公孫淵の子孫である公孫瑞どのにたいして、一族を代表して謝罪する」

と司馬徴が述べ、さらに地面に向かって激しく額を打つ土下座をしたその瞬間、酈陽は青燕の丞相公孫瑞に向かって大喝した。

「公孫どの!司馬家の長は、長年の怨念の泥を自らかぶり、貴殿の先祖の霊を慰められた!延漢王もこれを認め、公孫家の不滅の誇りを中原に布告なさったぞ。これ以上の血を求めるならば、それは一族の復讐ではなく、ただの野心と悪鬼の所業。貴殿の清廉なるご先祖は、そんな醜い戦を望まれるのか?刀を収め、名門たる公孫一族の誇りを取り戻されよ!」

この言葉を公孫瑞は感極まったような表情で聞いていた。歴史に葬られた、公孫淵という先祖の名前が、司馬仲達の子孫である司馬徴の口から出たこと。そして何よりその司馬徴の口から公孫淵に対する謝罪の言葉が出たこと。その事柄が公孫瑞の心の中の堰を決壊させた。公孫瑞の身体から、すうっと力が抜けていった。公孫瑞はそれまで司馬徴はもとより南魏の王宮さえも敵視して、威圧するかのように背筋を硬く尖らせていた。だが、司馬徴の言葉と酈陽の言葉を聞いたことで、公孫瑞の肩がふっと小さく落ちた。

司馬徴の伏せられた頭を見つめる公孫瑞の目からは復讐者の凶暴な光が消え、まるで長い旅を終えた旅人のような、深い寂しさと穏やかさが湛(たた)えられれていた。

周越や魯雲など、南魏の王宮で沈黙する者たちの視線の中で、公孫瑞は自ら歩み寄って司馬徴の肩を優しく叩いた。公孫瑞は言った。

「……顔を上げられよ。延漢の丞相どの。他国であるここ南魏の、周越陛下の御前で、貴公がそこまで一族の誇りを捨てて我が祖先に頭を下げてくれた。……その姿を、遼東の冷たい土の下にいる我が祖先たちに見せてやりたかった。」

公孫瑞の言葉に救われたように顔を上げた司馬徴。その司馬徴に向かって公孫瑞はさらに続けた。

「私が求めていたのは、司馬の血を絶やすことではなく、我が家が受けた不条理な痛みを、歴史の表舞台で誰かに誠(まこと)をもって認めてもらうことだったのだ。南魏の魯雲どのや酈陽どのにうながされたとはいえ、中原の大国の丞相たる貴公がこれほど見事な平伏を見せたのだ。公孫の怨念は、今この南魏の清らかな風の中に溶けた。もう充分だ。これ以上謝る必要はない」

公孫瑞に肩を叩かれ、頭を上げるよう促された司馬徴は、ゆっくりと顔を上げた。その目には安堵のみならず、公孫瑞の寛大さに対する深い敬意が宿っていた。司馬徴は乱れた衣服を正し、再び「対等な一刻の臣」としての礼を執った。

「……公孫瑞どの。司馬の破滅ではなく、和解を選んでいただいたその大器、深く感謝いたします。貴公が我が祖先の罪を雪に流してくださったこと、生涯忘れません。

これより先、延漢と青燕は、単なる利害の同盟ではなく、我が身をもって示した『信義』の同盟国です。百八十年の闇を抜け、共に新たな中原の光を築きましょう」

司馬徴のこの言葉に公孫瑞は感極まったように深くうなずき、二人は手を取り合った。それはまさに、司馬炎による晋建国よりも前から続く司馬一族と公孫一族の間の長い因縁が氷解した瞬間であった。

その直後、一族同士の和解の会場である南魏の王宮は万雷の拍手と歓声に包まれた。儀式の責任者である酈陽はもとより後ろの列にいた魯雲や陸正も長年の怨恨に終止符が打たれた場面を感慨深く見ていた。

そこで周越が玉座から立ち上がり、二人を見つめて朗らかに笑った。

「見事である! 司馬徴どののまこと、公孫瑞どのの義、どちらも我が南魏の朝廷を照らす至宝の如き輝きであった。これほど美しい和解の証人となれたこと、この周越、誇りに思うぞ。

さあ、これにて怨讐の宴は終わりだ。これからはじまるのは、延漢、青燕、そして我が南魏の、真の平和の宴である。魯雲!陸正! すぐに特上の酒を運ばせよ!」

かくしてその後は魯雲や陸正が宮殿にいる文官の男女とともに酒と料理を運んできた上で酒宴となり、下戸の魯雲も付き合い上、乾杯した最初の一杯だけはどうにか飲み干した。とは言え魯雲の予想以上に強い酒だったので、宴会の途中で酒を注ぐために来た女官には「すみません。お茶かお水を下さいませんか?」と低姿勢で頼んだ魯雲は、その女官から「これが今回の和解の発端となった高名な魯雲どの?」と怪訝な表情をされてしまった。もっとも魯雲は、そんな表情を特に気にするわけでもなく、青燕や延漢の高官たちと楽しく談笑しながら宴会の料理を楽しく味わった。

和解の宴会は和やかに幕を閉じたが、儀式を終えて魯雲と陸正が話し合った際に、陸正は魯雲の感覚のヘンテコさを味わわされた。陸正は言った。

「和解の儀式の責任者として貢献なさった酈陽どのも素晴らしいし、私も文章を作成することで今回の和睦に貢献した。だがそもそも魯雲どの、貴殿の発言が今回の歴史的な和解のそもそもの発端だ。貴殿の言葉が無ければ公孫一族は末代まで司馬一族を恨み続けていたであろう」

陸正に褒められた魯雲は嬉しくもあったが、それより気になる事があった。魯雲は言った。

「ありがとうございます陸正どの。しかし、僕には今回の会の儀式に関して心配があります」

「ん?…それは一体どういう意味ですか?」

深刻そうな魯雲の口ぶりに不穏なものを感じた陸正は真顔になって尋ねた。だが、魯雲が言ったのは

「いや、和解出来たこと自体は良いのですが、司馬徴さまの額、王宮の床に強く打ち付け過ぎて赤くなってましたよね?僕は最近痺れ薬以外にも打ち身の塗り薬を調合しましたので、後で司馬徴さまにお渡しした方が良いでしょうか?」

というものだった。魯雲の感覚のズレにあきれた陸正は、脱力しながら言った。

「魯雲どの。貴殿は人道的ではあるが、政治に関する感性がどこかズレているなあ。歴史的な和解の直後に心配するのが司馬徴さまの額の赤みとは……塗り薬は私が後で延漢の高官に渡しておくから安心してくれ」

その後魯雲は塗り薬を陸正に渡し、先ほどまでの緊張した表情を解いた。


第十八章

他方、かつて魯雲を見込んで内政について指導していた韋脩は、再度魯雲の見識に感嘆することになった。魯雲は数年にわたる契丹の侵攻によって疲弊した南魏の耕作地、そしていくら延漢から報酬として金品を得たとは言え延漢の援軍として南魏の将兵が匈奴との国境付近まで遠征したことで放置された耕作地の復興のための計画を練っていたのだ。

そして韋脩が魯雲の計画書をじっと見つめると感慨深げな表情をした。魯雲の書いた計画書、そこには兵糧の備蓄計画についても生け捕りにした捕虜の配置についても、そして屯田つまり農業の効率化についても、寸分の狂いもなく計算されていたのだ。

韋脩は言った。

「驚いたな。魯雲どの、貴殿の復興計画、人員の配置から兵糧の消費予測に至るまで、私の計算と完全に一致している。いや、地元の民の感情に配慮して移住の時期を収穫期の後にずらしている点においては……私の合理主義の上を行く。君の内政手腕は、私が知る南魏のどの文官よりも実務に即している」

南魏における軍功第二位の軍師であり、内政においても丞相諜報に比肩する韋脩から高い評価を得た魯雲は、少し照れくさそうな表情で言った。

「あ、いえ……!韋脩先生にそう言って頂けるなんて光栄です。僕はただ、無理な移住で民草が飢えてしまうのは可哀想だと思い、過去の『漢書』にある失敗例から逆算し、数字を述べただけですから……また、かの曹孟徳も屯田の重要性を指摘して政治改革をしましたよね。そもそも我が南魏は曹孟徳が建国した魏の遺徳を継ぐ国家。曹孟徳の屯田政策も参考にさせて頂きました」

韋脩は南魏建国の理念を忘れず政務に邁進している弟子である魯雲の気概と実務能力を知り、目を細めて喜んだ。ただ、それでいながらどうしても一言忠告を加えておきたい事もある。そう思った韋脩は言った。

「それは素晴らしい考えじゃ。じゃがな、君のこの『美しすぎる内政の数字』は、君の『人の好さ』という脆(もろ)い土台の上に成り立っておる。君は契丹との交渉で、相手の要求をあっさり呑みかけたそうじゃないか。耶律玄賽どのが自制してくれなければ、此の計画書にある兵糧の半分は契丹に奪われていたぞ」

韋脩のこの言葉に、魯雲は冷や汗をかきながら答えた。

「うっ……それは、返す言葉もありません。許秀どのにも朱さん…麗玉どのにも、後でひどく叱られました。相手が困っているのを見ると、つい『これぐらいなら南魏の備蓄で賄(まかな)えるのではないか?』と思ってしまって……僕は本当に外交には向いてませんね」

心底申し訳なさそうに話す魯雲の言葉を受けて、韋脩は微笑みながら言った。

「いや、向いていないのではない。君の外交は、駆け引きではなく全幅の信頼を相手に投げてしまうのだ。私から見れば、それはあまりに危険な行為だ。……だが」

そこまで話した韋脩は、一呼吸おいて感慨深げに言った。

「だが、実に面白い。君が先に全てを差し出すからこそ、君に要求をのませようとした契丹が、かえって己の『信義』を試されているかのように感じて自制してしまう。

普通、外交というのはお互いの狡猾さをぶつけ合うものじゃ。じゃが、君の外交は相手の良心を強制的に引き出してしまうようだ。そのおかげで契丹の耶律玄賽どのが君の味方をしてくれた。耶律玄賽どのが君の味方をしたのは、君の言動が仁にかなっているからじゃよ」

韋脩の言葉を聞いて安堵した様な表情をした魯雲に韋脩は続けて言った。

「安心したまえ。君が人が好すぎて騙されそうになるたびに、麗玉どのや許秀どの、そしてこの私が、裏で冷徹に帳尻を合わせてやる。君はその危なっかしいまことの人道を曲げずに、この美しい計画書通りに民を救いなさい。内政官としての君の知性を、私は全面的に支持しよう」

「ありがとうございます韋脩先生!先生や他の仲間たちが裏で支えてくれるなら、僕は安心してみんなのご飯の心配に専念できます!」

韋脩の言葉に励まされた魯雲は深く頭を下げ、その童顔に心からの安堵の笑みを浮かべた。


第十九章

その後、延漢王李荘のもとに、郭俊からの贈り物が届いた。そしてその贈り物を見た李荘は目を丸くしてしばし言葉を失った。だがどうにか気を取り直して丞相の司馬徴に用件を伝えるべく側近の一人に司馬徴への伝言を託した。だが司馬徴は即座には李荘のもとに行かなかった。と言うのも、司馬徴は李荘の言葉が信じられず、そして用件を伝えた側近による以下の言葉に納得したからである。

「司馬徴閣下!陛下はご乱心です!」

側近の言葉に司馬徴は即座に応じた。

「まさにそなたの言う通りだ!荀慶どのと蔡単どのを呼んでくる!こんな異常事態では、もはやあの二人に陛下の乱心を治めていただくしかない!」

そう叫んだ司馬徴は、延漢で軍功第一の軍師である荀慶と軍功第二位の軍師である蔡単が、澠池(めんち)の会を模した大宴会席で延漢の策士たちが二名も恥をかかされたことに対する雪辱をいかにして晴らすべきかについて、お茶を飲みながら話している場に駆け込み、大声で叫んだ。

「荀慶どの!蔡単どの!呑気(のんき)に茶を飲みながら話をしている場合ではない!李荘陛下がご乱心だ!」

だが荀慶も蔡単も司馬徴が大げさに騒いでいるだけだと感じた。と言うのも、李荘に限って乱心など決してあるはずが無いと思っていたからだ。

「落ち着いてください司馬徴閣下。李荘陛下がご乱心など、ありえない話ですよ」

「左様です。司馬徴閣下の杞憂に過ぎません」

などと言って優雅にお茶を飲みかけた二人に司馬徴は叫んだ。

「杞憂ではありません!何しろ陛下は『我が延漢には賄賂を受け取った役人がいる』とおっしゃったんです!」

ブホッ!!――

荀慶と蔡単は同時にお茶を吹いた。そして

「な…何をおっしゃってるんですか?司馬徴閣下!この時代に賄賂なんてあるはずがありません!」

と荀慶が叫ぶと、蔡単も

「その通りです!そんな古い時代の悪習など、延漢にも南魏にも、そして青燕にもあるはずないでしょう!」

と叫んだ。だが司馬徴は言った。

「もちろんあるはず無い!しかしそのあるはず無いものを陛下が『ある』とおっしゃったのだ!これは乱心以外の何ものでもない!」

司馬徴のこの言葉に「大変だ!あの英明なる李荘陛下がご乱心だ!」と確信した二人は大慌てで李荘に謁見するための広間に集まった。その際に司馬徴はこの「あり得ないこと」を伝えた側近には「そなたはすぐに典医(てんい)を呼ぶように」と命じ、命じられた側近は大慌てで、典医のいる少し離れた部屋に向かった。

 李荘の前にやって来た司馬徴と荀慶と蔡単は口々に言った。

「陛下!お気をたしかに!今の時代に賄賂などありませぬ!」

「丞相閣下のおっしゃる通りです!我々は『三国志』の時代に生きているのではありません!晋の世祖より後の時代…その晋さえも滅亡した後の時代に生きているのですぞ!」

「荀慶どののおっしゃる通りです!この時代に賄賂など、太陽が西から昇ってもあり得ない事です!」

 あわてふためいた三人の訴えに、李荘は沈痛な表情で言った。

「余もそうだと思っていた、ついさっきまではな。だが郭俊からこれだけ明らかな証拠を突きつけられては、太陽が西から昇る以上の異常事態が実際に発生したと認めざるを得まい!」

 李荘が三人に見せたもの。それは商人である春華や田観の手形を延漢の東部の役人の一部が賄賂として受け取った証拠と、その事に関する郭俊からのお願いだった。

「英明なる延漢王李荘陛下、我ら南魏の将兵は貴国のために援軍を送り、当代随一の猛将たる廉淵将軍のもとに馳せ参じました。しかれど廉淵将軍は本来なら受け取れるはずの食料や将兵の補給を貴国東部の不届きな役人たちにより遅滞させられ、我ら南魏の者たちがやむを得ずそれら役人たちに対して廉淵将軍のための補給を要請するも、それらの悪官汚吏はあろうことか賄賂を要求し、やむなく南魏の商家たる厳家や田家の手形を賄賂として差し出した次第です。今回同封いたしました証拠をご覧になれば、貴国の東部の役人の一部が賄賂を受け取ったことは陛下にも疑いの余地がございますまい。その後我が南魏の厳家と田家は貴国における兵糧の確保のために家財を犠牲にして貢献いたしました。貴国の命運は我が南魏の命運とも密接に関連した、まさに一衣帯水の関係ではございますが、賄賂を求める役人ごときのために商家たる厳家や田家が私財を投げ打ってまで兵糧を確保したことに鑑みるに、貴国における厳家や田家の商売を支援していただくなど、何らかの厚遇を賜りたく存じます」

 延漢のみならず南魏でも青燕でも賄賂など見たことも聞いたことが無いのが当時の常識であった。たとえ延漢の一部の役人に関してとは言え、その常識が覆ったことを郭俊が指摘する証拠付きの手紙を突き付けられた司馬徴と荀慶と蔡単はしばし唖然とした。ただ、内心ではこの事態を司馬徴も荀慶も蔡単も深刻に受け止めていた。司馬徴は思った。

(信じられん!しかしこんな証拠を見せつけられては反論の余地が無い!これは我が延漢始まって以来最大の問題だ!)

 荀慶もまた同感で、司馬徴以上に国辱を痛感していた。

(何と言うことだ!我が延漢はこんなにも腐敗していたのか!これでは延漢は南魏や青燕から笑いものにされる!これこそ国家の一大事だ!)

蔡単も同感だったが、さらに「この時代に賄賂があるわけが無い」という、当時の中原の常識に反する事例があることを予期していた郭俊の慧眼に戦慄した。

(現代においてはあり得ない賄賂など、どうして郭俊は予想できたのだ?郭俊は神か妖魔か?それとも郭俊には天帝の加護があるのだろうか?)

かくして当時の中原ではありえないはずの賄賂という極めて稀有な事件によって、「南魏を敵視している場合ではない!我が延漢内部の腐敗を一掃しなければ!」と四人が一致団結したが、その直後に典医があわてて叫びながら駆け込んできた。

「陛下!側近の方から話は聞きましたぞ!この時代に賄賂があると思い込むなど、これはもはや麻沸散(まふつさん)を用いて意識を失って頂き、その間に陛下の頭の中の病巣を取り除く以外に手立てはございません!」

たとえ魏の曹操に殺された名医の華佗(かだ)と同じ運命をたどるとしても、医者としての使命感から、何としても唯一の解決策と思われる「頭の中の病巣を取り除く」という提案をせずにはいられなかった。だが大急ぎで手術道具まで出した典医は、郭俊からの証拠と手紙を李荘から見せられ、「この時代にいくら一部の役人とは言え賄賂を受け取る者がいる」というあまりの意外な事態に驚愕し、典医自らが荀慶や蔡単と同じく二日間も食事をとれなくなってしまい、健康を完全に回復するまでには五日を要した。

 ともあれ、「収賄などというとんでもない悪事を働く者は死刑だ」と司馬徴は叫んで荀慶も蔡単も同意したが、李荘は

「如何に驚天動地の悪事とは言え、人の命を奪っていない者を死刑にするのは人道に反する。また、この悪官汚吏にも家族はあるだろう。その家族たちが最低限の生活を出来る保障だけはしつつ、また、彼らの子ども達が『お前の親は賄賂などという現代ではありえない犯罪を犯した』と周囲が騒いで仲間外れにされる事が無いように、その地方の太守から現地の寺子屋の教師たちに『親が悪人であってもその子どもまでが悪人という訳ではない』と説諭するように言うべきだ」と配慮して、わざわざ国王の名義で太守宛てに手紙を送った。

だが、実際に収賄をした役人たちは証拠がある以上言い逃れが出来ず、裁判では即日有罪が確定し、他の囚人たちと同じく重労働をさせられる羽目になった。賄賂を受け取った者たちは重労働の合間に言った。

「なあ、なんでオレ達こんな重労働をしないとならないんだ?」

「仕方ないだろ!今どき賄賂を要求するなんて、オレたちごくごく一部の役人しかやらない異常な奇行(きこう)なんだから」

「う~ん、たしかに陛下や丞相閣下が多数の部下を使って延漢中を調べさせても、東部の一部の役人しか賄賂を受け取っていなかった、という調査結果が報告されたらしいからな……」

「まあ、オレたちが今の時代にあるはずが無いことをやってしまったのは事実だが、一生このまま重労働するしかない人生なのかな?」

「う~ん……あ!ひょっとしたら皇太子の李嬰殿下が御即位なさる際には恩赦があるかもな……」

「それもそうだな……だがそれって一体何十年先なんだ?」

 その時代にはあり得ないはずの罪を犯した悪人たち。彼らは刑務官だけでなく他の囚人たちからも「まさか収賄なんていう罪を犯す者が実際にいるとは思わなかった」と奇異の目で見られ、他の囚人たちは彼らに

「オレも泥棒だから偉そうなことは言えないが、アンタらみたいな収賄をする役人なんて初めて見るし、オレの泥棒仲間からもこの現代に役人が収賄するなんていう話は聞いたこともないぞ」

 だの

「オレは金目当てに人を殺したからお前らより罪状は重いが、何はともあれ俺のような犯罪はともかくお前らのような珍しい罪を犯した奴らは判例もないだろう。判例が無いから裁判官もどれぐらいの刑期にすれば良いか迷っただろうな」

 だのと言われ、さらには退職間際の年老いた刑務官からは

「儂も長年いろんな犯罪者を見てきたが、収賄する役人などというのは見たことも聞いたこともない。すでに退官した先輩に儂が会って『収賄役人が刑務所に来ました』と言っても、実際に判決文を見ない限り信じてもらえないじゃろうな……」

 とまで言われ、まるで珍獣を見るような視線に耐えざるを得なかった。

かくして刑務所に入れられたそれらの収賄役人たちは、何十年後かにはひょっとしたら恩赦があるかもしれない、という希望にすがりつつ長年の刑務をこなすこととなった。

 その後厳家と田家には延漢王李荘から失われた家財を補填してあまる金品と感謝状が届き、さらに南魏だけでなく延漢でも家業を続けられるようにとの配慮がなされ、厳家と田家はさらに裕福になった。


第二十章

その後はさらに、かつて甘成の一行が出会った黒水党とのやり取りも説明した手紙を酈陽がしたためて延漢王の居城である翠安城に送ったので、延漢東部の一部役人の収賄によって生活基盤を失った人々が盗賊になっていることを知った蔡単や荀慶など延漢の高官たちは、自ら延漢東部を視察して盗賊の捕縛に取り掛かった。さすがは智謀に秀でた蔡単や荀慶である。盗賊たちはすぐに捕縛され、やむを得ず盗賊になったものは刑を減刑されたが、ともあれ刑務に服しながら、荒れた耕作地の復旧次第、農民として暮らすことにしてもらえた。

こうして延漢東部の一部の役人が起こした収賄事件という、この時代にあっては極めて稀有な事件は、その二次被害も含めて収束した。


他方、そのころの南魏では、かつて戦に貢献した者たちの間に恋を謳歌する者が少なくなかった。南魏に限らずこの時代の中原では恋愛や結婚に関して自由な気風が一般的であったが、当時の中国の恋愛事情について竹簡の記録が特に残っているのは『延漢志』や現存する竹簡があまり多くない『青燕志』ではなく、『南魏志』に記された者たちである。その者たちについての記録によると、当時の恋模様は以下の通りだった。

既婚者の魯雲と雪蘭は相変わらず仲睦まじい夫婦であるが、未婚の彭蒙と麗玉も交際を続けている。ただ、この時期は麗玉が彭蒙に対して「ある疑惑」をいだいていたため、耶律玄賽を捕縛する戦いの直後のような親密さは無く、若干距離を置いた関係になっていた。

そして新しく交際を始める者たちの記録も、『南魏志』などの当時の中原の竹簡に残っている。たとえば賈良や許秀といった人物とその想い人たちである。『南魏志』の記述によると、それらの人々の恋愛は以下のようなものだった。

 賈良の想い人である毛紅梅は孫紫蓮の友人であるが、その孫紫蓮の妹である孫藍蓮と毛紅梅も友人である。そして毛紅梅は当初賈良を特に気にしていなかったのに対して、紫蓮は紅梅の将来を思って、文武両道の優秀な賈良をどうにかして紅梅と突き合わせたいと思って行動を開始した。それは紫蓮の単なる思い込みではなく、賈良の態度を見て「賈良どのは紅梅どのに惚れている」と気づいたからとった行動だった。

ただ、賈良は何を思ったか、せっぱ詰まった表情をしながら、紫蓮に意外なお願いをしてきた。

「紫蓮どの、少しお時間を頂いて良いか?私としばし付き合って頂きたい!」

「は?」

紫蓮は目を丸くした。普段の賈良の言動を見て「絶対賈良どのは紅梅どの一筋だ」と確信していたのに、まさか紅梅どの以外の女性に言い寄るとは思わなかった。ただ、

(いや、これはひょっとして賈良どのが紅梅どのを諦めたというわけではなく、恋とは別の何らかの相談かも知れない)

とも紫蓮は思った。そこでとりあえず話を聞いてみると、賈良の意図がようやく分かった。

「紫蓮どの、実は私は紅梅どのとお付き合いしたいのだ。だが、私は戦に明け暮れ、武芸の稽古の他には兵法書を読むことしかしていない。そんな私では

紅梅どのと共通の話題が無い。音楽について全く分からないままでは、紅梅どのと付き合うのは無理だと思う……」

「はあ…そのようなものでしょうか……」

紫蓮としては「器楽担当者と付き合うために、必ずしも音楽について詳しい必要は無く、ましてや賈良は文武両道の猛者として活躍してきたのだから、自らの業績に誇りをもって堂々と紅梅どのに告白すれば良いのに」と思ったが、賈良があまりに真剣な面持ちで悩んでいるので、そうした意見を言うのは何となくはばかられる気がしてしまった。そこで賈良はさらに踏み込んだ話をした。

「そこで、是非とも紫蓮どのに器楽を教えていただきたいのです!」

「えッ?!」

「いや、何も無料でとは申しません。それなりの報酬は払わせていただきます!ただ、紅梅どのとお付き合いするにふさわしい男になるには、多少なりとも楽器の演奏が出来なければならないと存じますので!何卒よろしくお願いいたします!」

「い…いえ、特に報酬は要求しませんが……あまりに唐突なお願いなので少々驚きました……」

紫蓮は戸惑った。そして

(賈良どのは文武両道の猛将として南魏の役に立ってきました。ならば別に器楽を無理に身につけなくても、自らの業績のみで紅梅どのと釣り合う立派な人士だと胸を張っても良いでしょうに……)

とも思った。とは言え、そんなことを言っても説得に応じそうにない賈良の思いつめた表情を見ると、無償であれ何であれ、楽器の演奏を教えてあげなくちゃ、と思ってしまうのだった。

かくして、賈良は時々、紫蓮のもとに通って、紅梅にふさわしいと賈良が納得できるような男を目指すべく、不慣れな楽器の演奏に打ち込むのだった。これは平時で、しばらくは戦が無いであろうという予想が成り立つ時代になったことも幸いしている、おだやかな時代の恩恵でもあった。

ただ、賈良がしばしば紫蓮の住む官舎に行って楽器を習っていることは、同じ官舎の中でも近くに住んでいる藍蓮にも知られた。

「姉上、なぜ賈良どのが時々姉上と会っているのですか?」

そう尋ねられた紫蓮は正直に事情を説明した。藍蓮は疑うことなくその説明を受けいれた。そしてそのおかげで後日起きたひと悶着は、早めに収束することになるのだった。

誤解の発端は許秀だった。許秀は紫蓮に想いを寄せており、藍蓮はそのことを知っていた。そして藍蓮が許秀と話をした際に自らの恋心がバレていることを知った許秀は、藍蓮には自身の想いを包み隠さず話し、紫蓮との仲を取り持ってもらおうと考えるようになった。

そこで許秀は、紫蓮の官舎の近くにいる藍蓮に相談をしに行ったのだ、許秀が紫蓮の官舎の前を通った際に、賈良が紫蓮の官舎に入るのを見た。それは紫蓮が賈良に器楽を教えるために来てもらったのであり、紫蓮の官舎には藍蓮も来ていて、二人で楽器の演奏を賈良に教えてあげようとしていたのだが、許秀はてっきり賈良と紫蓮が付き合っているのだと思ってしまった。

しかも運が悪いことに、許秀が後日紅梅に会った際に、紅梅から「とある相談」を受けてしまったのだ。

その相談とは、紅梅が賈良に恋心をいだいており、最近賈良と話をすることが多い許秀に、その仲介役をして欲しい、というものだった。

許秀はその言葉を聞いて、実に当惑した表情を浮かべた。そこで紅梅は

「あ、いえ決して無理にと言うわけではありませんよ。また、無料でとも申しません。ご協力くださったら、お茶かお菓子でもおごりましょうか?」

紅梅の申し出に、許秀は沈痛な面持ちのまま首を横に振った。

「いいえ、そういう問題ではありません。しかし、紅梅どののお願いはお断りいたします。私自身も失恋のため傷心中で他人の恋を応援する気力がございません、それに何より……」

「何より……?」

許秀の発言の意図が分からず尋ねた紅梅に、許秀はゆっくりと説明を加えた。

「何より、賈良どのは別の女性と付き合っております」

「ええッ!?」

激しく驚く紅梅。だが、そう簡単には諦められないのか、

「許秀どの、その話が本当でしたら実に残念です。ですが貴殿は何故そんなことをおっしゃるんですか?何を証拠にそうおっしゃったのですか?」

そこで許秀は、自身の想いを包み隠さず紅梅に話した。

「紅梅どの、実は私は紫蓮どのに恋をしております。そしてそのことは紫蓮どのの妹君の藍蓮どのに知られました。そこでいっそ藍蓮どのに私の恋の相談をしようと思って藍蓮どのの官舎を訪ねようとしました。そうしたら藍蓮の官舎の近くにある紫蓮どのの官舎に賈良どのが入るのを見たのです」

「……」

紅梅は驚きのあまり黙り込んでしまった。許秀は話を続けた。

「紅梅どのを落胆させてしまって申し訳ないが、賈良どののことは諦めた方が良い。私が言えるのはそれだけだ……」

紅梅はどうにか納得しようとしたが、どうしても納得できずに食い下がった。

「左様ですか。賈良さまが紫蓮どのの官舎に入るのを、許秀どのはご覧になったのですね?ですが……」

「ですが?」

許秀が尋ねると紅梅は疑問を述べた。

「ですが、許秀どのも藍蓮どのの官舎に、ご自身の恋の相談のために行こうとしたのですよね?ならば賈良さまも、何かの相談のために紫蓮どのの官舎に行ったのではないでしょうか?」

「―――!?」

紅梅のこの発言に、許秀は思わず膝を打った。そして

(もしかしたら賈良どのは仕事に関する相談のために紫蓮どのの官舎に行ったのかもしれない!)

と考えるようになった。そこで紅梅は紫蓮から、許秀は賈良から、各々事情を尋ねる事をお互いに約束した。二人が別々に訊(き)いて話が一致すれば、どちらもウソをついておらず、そしてその話の内容が「賈良が紫蓮の官舎に行ったのは逢瀬のためではない」と思えるものであれば、紅梅も許秀も、自らの恋にまだ希望を持てると思ったのだ。

だが、あいにく二人とも訊き方が悪かった。「あなたはどなたかとお付き合いしていますか?」と尋ねれば良かったのだが、紅梅は「賈良さまが紫蓮どのの官舎にいらしたのは何故ですか?」と尋ね、許秀も賈良に「賈良どの、貴殿が紫蓮どのの官舎に行ったのは何故ですか?」と尋ねたのだ。たしかに冒頭に「立ち入った話で申し訳ない。もし差し支えなければ教えていただきたいのだが」と断りを入れていたが、それでも紫蓮は紫蓮で

(そんなことを明かしたら、賈良どのの恋心が紅梅どのに知られてしまう)

と感じ、賈良は賈良で

(紅梅どのと付き合うにふさわしい男性になるために紫蓮どのに器楽を習っていると知られるのは恥ずかしい)

と感じて、二人とも言い淀んでしまった。

そこで紅梅も許秀も落胆し、

(やはりこの二人は付き合っているのだろう)

と思い込んでしまった。ただ、幸運なことに、紅梅の落ち込んだ表情を見て心配した藍蓮が、紅梅が落ち込んでいる理由を尋ねたおかげで紅梅が勘違いしていることを知り、むしろ紅梅と付き合うために紫蓮から器楽を習っているのが最近の賈良だと知るに至って紅梅の落ち込みは雲散霧消し、さらに藍蓮の話を紅梅が許秀に伝えてくれたおかげで、許秀の誤解もようやく解けた。

その後、賈良は交際相手になった紅梅自身から器楽を習うことになった。紅梅としては文武両道な賈良の能力だけでも付き合いたい男性であるのだが、何故か賈良自身が自らの芸術的素養の無さに劣等感をいだいており、それゆえ紅梅が時間を割いて演奏を教えてあげる事にした。そんなことができるのも、賈良たち南魏の英傑の面々が粉骨砕身して築いてくれた平和な世の中のおかげだ、と感謝しながら。

そして紅梅の官舎の近所では、時々無骨な音が聞かれるようになった。だが、紅梅は周囲の迷惑については謝罪して回りながらも、音楽に疎い賈良が頑張って彼なりに演奏をうまくなろうとしている姿はもとより、彼の奏でる音にも好感をいだいていた。

しかし賈良は、おだやかな表情で彼の演奏を聴いている紅梅が気を使っているのではないかと感じて、尋ねてみたことがある。

「紅梅どの、せっかく紅梅どのに教えていただきながら練習したのに、私の奏でる音楽は無骨な音でしかないのではないか?貴殿にとっては不快な音ではないのか?」

そこで紅梅は答えた。

「賈良どの、たしかに貴方の演奏は、さながら『論語』や『孔子家語』に記された子路の演奏の如く剛勇にして殺伐とした音かもしれません。しかし練習によって音程はだんだん外さなくなってきています。それに、貴方の奏でる音は、どこか勇壮ですが、それはそれで貴方らしい音ではありませんか?」

そこで賈良はハッとした。なるべく紅梅に気に入られたい、紅梅が普段奏でている柔和な音が出せるようになりたい、と思って演奏を訓練してきたが、必ずしもそこまで自らを型にはめる事はないのではないか、と思い至ったからだ。それ以来賈良は、単に紅梅の好みに合わせるのではなく「相手に何を伝えたいのか」を考えながら演奏するようになっていった。そしてそのことが、かえって紅梅を喜ばせる、賈良らしい演奏を実践することにつながっていくのだった。


第二十一章

こうして紅梅自身による指導のもと、賈良が徐々にではあるが器楽の技術を身につけていった一方、許秀は器楽については特に身につけなければならないとまでは思っていなかった。だが、彼にも劣等感はあった。そこで許秀は、「ある人物」に相談を持ち掛けた。

「魯雲どの、少し頼みがある。少々お話させてもらっても良いだろうか?」

「え?…お話?…僕にですか?」

許秀が相談を持ち掛けた「ある人物」とは魯雲だった。魯雲は少し戸惑った。許秀から相談を持ち掛けられるとは意外だったからだ。しかし、何はともあれ話を聞いてみようと魯雲は思った。

「許秀どの、一体いかがなされた?何か深刻なお悩みですか?」

許秀の表情があまりに深刻そうなので、魯雲自身も沈痛な面持ちになりながら、ひとまず相談を聞くことにした。

魯雲が話を真剣に聞いてくれそうだと感じた許秀は、ゆっくりと話し始めた。

「実はな、私はとある女性とお付き合い始めたのだ」

「はあ…左様ですか。おめでとうございます……」

「はい、それはたしかに嬉しいことです。しかし、私には『とある懸念』があります」

「はあ…そうなのですか…で、その『とある懸念』とは何ですか?」

「実はな。ひょっとしたらその女性が別の男性に目移りするのではないかと心配で心配で、それで貴殿に相談したいと思ったのだ」

「――!?」

魯雲は許秀の言葉にギクッとした。許秀が魯雲を相談相手に選んだ理由を、魯雲は「雪蘭という妻に、一度だけとはいえ不貞された当事者だから相談相手に選んだ」という風に解釈したからだ。もちろん、たとえそうでも許秀の真意を尋ねれば問題なかったのだろうが、つい焦った魯雲は余計な事を言ってしまった。

「許秀どの!しばしお待ちくだされ!なぜ貴殿は僕たち夫婦の不貞の事をご存知なのですか?!」

雪蘭が一度だけとはいえ彭蒙と不貞したことは、雪蘭と魯雲と彭蒙、そして春華という四人しか知らない話のはずだ。なぜ許秀がそのことを知っているのかが理解できない魯雲は、慌てふためいた。魯雲は自らが不貞されたことが不名誉とは思っていない。魯雲にとって大事なのは雪蘭だ。彭蒙と一度だけ過ちを犯したとはいえ、魯雲にとって雪蘭の名誉は何としても守りたいものだった。だが、許秀はキョトンとした表情で尋ねた。

「不貞?そんな話はしていないが、貴殿は不貞をしたのか?あるいは不貞をされたのか?」

「……」

魯雲が唐突な事を言い出したせいで許秀が思わず立ち入った話を口走った。そしてその結果魯雲は返答に困った。

とは言え、かつて雪蘭をかばうために「僕も春華さんと不貞したことにして欲しい」とウソの口裏合わせを春華に頼んで笑われた上に、雪蘭にもそのウソがばれてしまったという経験が無かったら、魯雲は「僕が不貞をしたのです。妻はそれを許してくれました」というウソをついて雪蘭をかばっただろう。だが、かつてウソをついて雪蘭をかばってもウソがばれた上にウソでは問題が解決しなかったという経験があるので、魯雲は正直に言うしかないと思った。

「僕が不貞されたのです。でも、妻は昔の恋人と意図度だけ過ちを犯しただけですし、その後は僕を必死に支えてくれています。あと、何はともあれ、この話はくれぐれもご内密にお願いいたします!」

魯雲が、まるで親に捨てられようとしている幼子が必死にすがりつくような、せっぱ詰まった表情で懇願したことに若干戸惑った許秀だったが、

「ご…ご安心めされよ魯雲どの。私は他人の秘密を言いふらしたりなどしない」

と、これまた魯雲と同じく必死の表情で釈明した。それだけ許秀は、魯雲のせっぱ詰まった面持ちに圧倒されてしまったのだ。

何はともあれ、ようやく落ち着いて話が出来た許秀は、賈良が器楽を習うために紫蓮と会っていた事、およびその紫蓮と交際を始めたことを話した。

許秀は紫蓮との交際に際して、

「南魏軍が匈奴と延漢の国境付近に多数駐屯しても兵站が困らなかったように、紫蓮どのの生活も私は決して困らせません。むしろうるおうようにして差し上げます」

と、兵站担当として着実に業績を積んでいる自らの優位を印象づける告白をした。そして紫蓮は許秀の告白を受け入れ、二人は交際を始めたのだ。しかし、理由が器楽を教えるためであれ何であれ、文武両道の猛将である賈良と紫蓮が時々会っていたのなら、いくら兵站担当で業績を上げて、智謀では賈良はおろか麗玉にもわずかに勝る許秀とはいえ、武芸が欠けていることで、紫蓮が許秀を物足りなく思うのではないか、という不安があった。

それは賈良のような文武両道の猛者と自らを比べたから生じる問題であり、かつて甘成も契丹との戦いにおいて賈良に対抗意識を燃やして功を焦り、結局は危険な目に遭ってしまった、というのと同じ結果をもたらしそうな、危険な考えであった。

だが、魯雲は許秀に共感した。そもそも魯雲が兄の魯真のような文官ではなく文武官を目指したのは、当時雪蘭と交際していた彭蒙に対する対抗意識からとった行動だった。それと同じように武芸に劣等感がある許秀が賈良に対抗意識を燃やしても無理はない、と魯雲は思った。そこで魯雲は許秀の願いを聞き入れた。その際、許秀は

「もちろん無料でとは言いません。金銭であれ食事をおごるという形であれ、報酬はお支払いいたします」

と言ったが、魯雲は

「お気になさらず。僕も似たような劣等感をいだいてきましたので、お気持ちお察しいたします。また、報酬としては僕の妻の一度だけの不貞を誰にも明かさない事です。それが僕にとっての最大の報酬です」

と答えた。

その後、魯雲は許秀に対して弓術の指導や棍を使った組手をおこなった。その際、魯雲の胸中には複雑な心境が渦巻いた。

「交際を始めたからと言って何事も滞りなく進むわけではないんだな。僕と雪蘭さんは円満な夫婦関係を保てているけど、朱さんと公徳も何かいさかいがあったようだし」

雪蘭がかつて一度だけ過ちを犯した際に傷ついたとはいえ、魯雲は雪蘭が自らを責める姿に心を痛めて雪蘭を赦したのだし、雪蘭もその後は魯雲に対して前より一層献身的に尽くしてくれている。それゆえ魯雲は雪蘭との関係に不安をいだいていない。だが、麗玉と彭蒙の間には、多少のわだかまりがあることを魯雲は彭蒙から相談されて知っている。結婚を申し込んだ彭蒙に対して、麗玉は「今は気になる事がある。結婚はその問題が解決するまで待ってほしい」といった趣旨の、煮え切らない返答をしたからだ。その際に魯雲は彭蒙から、

「なあ、仲明。麗玉はこんなことを言ったんだが、何か思い当たる節は無いか?麗玉が何を気にしてオレとの結婚をためらっているのかが分からないんだよ」

と彭蒙に相談され、そして魯雲は

「申し訳ない公徳。僕には朱さんの意図が分からないよ」

と答えたのだ。実際に麗玉の意図が分からなかったので、魯雲は幾分不安になった。そして

(何が原因であれ朱さんと公徳は良い夫婦になると思う。僕たちも夫婦円満だけど、朱さんと公徳にも円満な夫婦になって欲しいな)

と思った。

ともあれ、そんな奇妙な相談を受けたこともあって、魯雲は許秀に対して真面目に武芸を指導した。戦における許秀の駆け引きは、魯雲にはわずかに劣るとはいえ麗玉にはわずかに勝る。とは言え、やはり武芸は別物で、棍を使った組手も弓術も、一朝一夕には上達しなかった。それだけならまだしも、魯雲が手加減したとはいえ、棍術の組手では許秀の体にあざがついてしまう事があり、それが一度だけよりによって顔についてしまったことある。そしてそのせいで、紫蓮から何事かと心配されてしまったのだ。許秀は魯雲に武芸の指導をしてもらっているとは言えず、

「いやあ面目ない。ウッカリ転んでけがをしてしまいました」

と誤魔化したが、その説明がウソだと直感した紫蓮は、悪いとは思いながらも許秀の後をつけていくことにした。そして武芸を訓練する道場で、魯雲が許秀を棍で負かせている場面を見てしまった、魯雲としては手加減をしており、許秀をなるべくケガさせないように配慮しているのだが、それでも単なる文官である許秀と文武官として幾人かの将兵を討ってきた魯雲の武芸は実力差があり過ぎて、もともと許秀を心配していた紫蓮は「魯雲が許秀を虐待している」と勘違いしてしまった。

それでもそのまま道場に乗り込めば紫蓮の誤解は解けたのだろうが、魯雲と許秀という二人の緊迫した雰囲気ゆえにその場に踏み込むことは何となくはばかられると感じた紫蓮は、後日魯雲の官舎に直談判に行くことにした。ただ、あいにくその日の魯雲は遅くまで仕事をしており、魯雲の官舎には雪蘭しかいなかった。

そこで紫蓮は「あなたの夫である魯雲どのが許秀どのを虐待している」と雪蘭に言ったのだが、当然雪蘭はそんな話を信じられず。「あの優しい仲明さんが人を虐待するなんてありえません!」と言い張り、両者は一歩も譲らないまま言い争いを続けた。そしてようやく魯雲が帰宅した際には激しく口論している雪蘭と紫蓮に出くわしてしまい、魯雲自身が「僕は許秀どのを虐待していた訳ではありません。あくまでも訓練していただけです」と説明したが、許秀のみを案じている紫蓮は「文官である許秀さまが武芸の訓練をする必要はないでしょう。何故そんなウソをつくのですか?」と詰め寄ったが、まさか「紫蓮どのが賈良という文武両道の英傑に会ったから、紫蓮どのが許秀どののような文官では物足りなくなると感じるかもしれない、と許秀どのが懸念したから訓練して差し上げているのです」とも言えず、言い淀んでしまった。そして「疑問があるなら許秀どのに直接お尋ねください。何はともあれ今日はお引き取りください」と言って紫蓮を帰し、雪蘭に対しては正直に事情を説明した。

翌日、仕事を終えた魯雲が許秀に稽古をつけるために道場に行くと、そこには鬼気迫る表情の許秀が待ち構えていた。許秀は開口一番魯雲を糾弾した。

「魯雲どの、昨夜は大変な修羅場だったご様子!要するに貴殿は今まで私を騙していたのだな!」

「――!?」

あっけにとられた魯雲がようやく口を開いた。

「許秀どの、一体何をおっしゃっているのか?昨夜は紫蓮どのが我が官舎にきて困っていたのだ!」

「ほう、そのこと自体は認めながら、なおもしらを切るおつもりか?貴殿と貴殿の奥方、そして紫蓮どのが修羅場を迎えたということは、貴殿と紫蓮どのの不貞が貴殿の奥方にバレたという意味でしょう?」

「……!?」

魯雲はようやく理解した。昨夜の官舎での騒ぎを、近所の誰かが見聞きして、紫蓮と不貞していた魯雲を雪蘭が糾弾したと勘違いして、しかもその勘違いを許秀に吹き込んだのだろう。ようやく許秀の勘違いを理解した魯雲が説明をしようとした。

「許秀どの、落ち着いてくだされ!たしかに昨夜紫蓮どのが僕の官舎に来たのは事実だが、それは紫蓮どのが貴殿を心配したからだ!」

「……?」

魯雲の説明に、許秀は一瞬戸惑った。「ひょっとして私はとんでもない勘違いをしたのではないか?」と思ったからだ。だが次の瞬間には「あること」を思い出して「魯雲はウソをついているのではないか?」という疑問が湧いてきた。

「納得できない。貴殿は以前、貴殿の家庭に不貞の問題があったと話したではないか。ひょっとして不貞をしたのは貴殿の奥方ではなく貴殿自身だったのではないか?」

「――!?」

魯雲は一瞬ひるんだ。そのように言われても不貞をしたのは雪蘭の方であるという事実に変わりはない。しかも、魯雲は以前「僕も不貞したということにしてほしい」というウソの口裏合わせを春華に頼んで笑われ、しかもそのウソが雪蘭にもバレたから無に帰してしまった。そこで「今後はこの点についてウソをつくまい」と思っていた。ただ、雪蘭の不貞がたった一度の、しかも昔の恋人との間のものであり、さらに何といっても雪蘭が自らの過ちについて自身を非常に強く責めていたことを魯雲は知っている。

だからそんな雪蘭の不貞をことさらに「事実である」と強調するのも何か薄情な態度のように思えてしまった。かといって「今後はこの点についてウソをつくまい」という決意を曲げるのも何か問題が生じそうな気がして、魯雲は返答に窮したのだ。

その様子を見た許秀は、「魯雲が図星をさされて返答に窮した」と考えた。そこで

「返事ができないということは、疑惑を認めたということではないか?」

許秀の発言に、どう答えるべきか迷った魯雲だったが、再度ウソをついてでも雪蘭をかばうべきか、それとも雪蘭の一度だけの過ちを力説してでもウソをつくべきではないのかについて判断できかねたので

「許秀どの。不貞したのが僕の妻か僕自身かは、貴殿のご想像にお任せする!しかし、たとえ僕が不貞したとしても、その相手は紫蓮どのではない!紫蓮どのは貴殿を心配して僕の官舎に来たのだ!そのことは貴殿が紫蓮どのと会えばわかるはずだ!」

と言った。魯雲の堂々とした態度、そして何より以前許秀自身が勘違いで賈良と紫蓮が交際していると思い込んだことを思い出し、

(やはり私が聞いた噂が間違っているのか?昨夜の魯雲どのの官舎での騒ぎを伝えてくれた同僚は、何かとんでもない勘違いをしているのか?)

と思い直した。それで結局許秀は

「魯雲どの。もし私が聞いた噂が間違いであったら、それを鵜呑みにした私にも落ち度がある。その場合はまったくもって申し訳ないと言わざるを得ない。ただ、まだ私はその点について確信できない。こんな心境では今日の稽古はできないし、それは貴殿も同じだろう。何はともあれ紫蓮どのに会って事情を聞いてくる」

と言ってその場を去り、紫蓮の官舎に向かった。

帰宅した魯雲がこのことを雪蘭に話すと、雪蘭は

「仲明さん!それは一大事です!私からも証言しますから!是非とも私と仲明さんで紫蓮さんの官舎に行きましょう!」

と叫んだ。魯雲は

「いや、何もそこまでしなくても大丈夫じゃないかな。だって紫蓮さんが事実を言ってくれるでしょう?」

と言ったが、雪蘭は納得しなかった。

「仲明さん、もし仮に紫蓮さんが仲明さんと過ちを犯していた場合、紫蓮さんには『過ちを犯していた』と認めるよりも『許秀さんを心配して仲明さんの官舎に行った』と説明するほうが利益になります。ならば、もし許秀さんが『紫蓮さんは自らの利益になるウソをついている』と疑ったら、紫蓮さんが事実を述べても信用してもらえないでしょう。逆に私が不貞された立場なら、仲明さんや紫蓮さんをかばう動機が私にはありません。ですからこの場合、私が説明するのが最善です!」

魯雲は

(いや、さすがにそこまで人を疑わなくてもいいんじゃないかな?)

とは思ったが、雪蘭の言うことにも道理があるという気がしたので、結局は二人で紫蓮の感謝を訪ね、雪蘭の説明のおかげで許秀の誤解は解けた。

その後、何はともあれ魯雲を疑ってしまったことは申し訳ないと謝る許秀と、同じく紫蓮も魯雲に謝罪した。「魯雲が許秀を虐待していると勘違いしたこと」を紫蓮は申し訳なく思って何度も頭を下げたが、逆に魯雲は「誤解が解けたならそれで問題ない」と考えており、むしろ紫蓮どのは許秀を非常に心配していたのだから、とても良い奥方になるであろうと礼賛した。

それでも、紫蓮と魯雲の関係を疑ってしまった許秀はしばらく頭を繰り返し下げていたが、ほかの三人が「事実関係をよく確かめもしないで噂をした同僚にも問題がある」と言って許秀を慰めたので、許秀の面目はどうにか保たれた。

その後、紫蓮は許秀に「武芸に秀でていないからと言って劣等感をいだくことはございません。私など、器楽の他には特に何のとりえもない女性です」と言い、そして雪蘭も、「私など、料理と裁縫しか特技がありませんし、それにそもそも何かと行動が遅いから、そのせいで昔交際していたある男性と別れる羽目になってしまったのです」と打ち明けて、許秀を慰めた。

こうして、許秀は「無理に武芸に打ち込む必要はない」と感じるようになり、紫蓮との交際では自らの業績で得た俸給で紫蓮の生活を支え、さらに仕事にまい進した。他方、紫蓮は得意の器楽で許秀を時々慰めることが楽しみになった。

『南魏志』という竹簡にはその詳細が記されており、その記述によると、ある時二人はこんな会話を交わしたとのことである。

「許秀さま、多少なりともお心を癒すことが出来れば幸いです」

紫蓮はそう言うと、得意の楽曲を奏(かな)で始めた。許秀はその曲を聞いて穏やかな気持ちになり、ゆったりとくつろぎながら言った。

「ありがとう。こうして君の素敵な演奏を聴くとき、これこそが僕の至上の時間だよ」

契丹や匈奴との戦いが終息し、延漢や南蛮との戦いが生じる可能性は低い。かつて南魏の一部の領土を奪った青燕とも本格的な戦闘行為が再開する兆候は今のところ見えていない。そのような状況下で兵站について特に急務はないだろう。しかし念のために国内の輜重を前線に送る場合にどうするかについての計画をまとめて韋脩や張豊に伝える任務はある。しかも最近は酈陽や銀月や魯真ほどではないが外交について多少は担うように張豊から言われている。魯雲に比べて若干劣るとはいえ、戦での駆け引きではかつては陸正に続く若手文官の第二位という評価を得ていた許秀だ。時間をかければそうした任務をこなせるが、時々はその任務の重圧に押しつぶされそうになるのも事実だった。

そんな時、恋人である紫蓮の奏でる音楽を聴き、ゆったりとした時間を過ごすこと。それが許秀にとっての最大の癒しとなった。


第二十二章

その後、ようやく青燕と南魏の間に和解がなされた。かつては南魏の東の一部を奪い、法純や呂平や恵泉さらにその他の将兵が共闘してようやく撃退したのが青燕軍だ。しかも青燕軍を途中から軍師として率いることになった龐植は青燕で軍功第一の軍師であり南魏で言うと韋脩に比肩する知略の持ち主だ。だから法純も何度か知恵比べでは負けていた。とは言え当時は韋脩も郭俊も契丹に対抗するために西の国境付近に赴任していたため、青燕に対抗する軍師としては法純のみに頼らざるを得なかったのだ。南魏が龐植率いる青燕軍を撃退できたのは法純が龐植やその配下の将兵に何とか勝てたのは、法純が龐植の策略に対してなるべく守りを固める選択をして青燕軍の中に油断が生まれた時に一気呵成に南魏軍の精鋭を動員して敵を討つ、いわば緩急をつけた奇襲作戦と、そして武将の精強さのおかげだった。

白鈴が久しぶりに再会した恵泉も、麗玉が文武官試験を受ける前には南魏最強の女性文武官であった。

そうした南魏の精鋭たちに助けられた法純であったが、しかしそれは龐植が青燕の軍功第一の軍師だから仕方のないことであった。むしろ龐植の智謀が韋脩に比肩することに気づいた法純が無理をせず敵が油断して勝てる機会を得た時に疾風迅雷の速さで敵を討つ行為によってである。そうした経緯を経て呂平や恵泉などの将兵からも信頼を得ていった法純は、常勝侯(こうしょうこう)郭俊や永安侯(えいあんこう)韋脩に次ぐ軍師として、法純は第三位の軍功を認められ他軍師として東護侯(とうごこう)という爵位を賜った。

その法純がようやく武漢に帰還した。法純が久しぶりに武漢に来たことを誰より喜んだのは妹の銀月だった。

「お兄さま、久しぶりですね」

ようやく再会できた実の兄に対して、嬉しさのあまり顔をほころばせる銀月。普段の冷静な表情とは違う、おだやかで朗らかな面持ちがそこにはあった。そしてそれは法純も同じだった。

「そうだな銀月。まったくもって久しぶりだよ」

銀月に劣らず端正な顔立ちをしている法純は、肩の荷が全ておりたような、安心した笑みを浮かべた表情で答えた。

その後しばらくは、お互いの任地での仕事の話をしていた法純と銀月だったが、ふと「あること」を思い出して法純に尋ねた。

「栄春(えいしゅん)さんはお元気?」

 銀月は、法純の妻である呂栄春(ろえいしゅん)を気遣った。

「ん?……ああ、元気だよ。ただ、身重(みおも)だからお前に会いに来るのはまた今度な」

法純のこの言葉に、銀月は納得したようにうなずきながら言った。

「そうだね。栄春さんは妊娠してるんだから無事出産することが最優先だよね」

銀月が合点した通り、法純の指摘はもっともだった。数年前に法純と結婚した栄春は、今ちょうど妊娠しているのである。それは栄春にとって初産であるし、銀月にとっては初めて甥あるいは姪が生まれることになるという、一族にとっては新たな事態である。銀月の配慮に感謝しながら法純は言った。

「そうだな。母子ともに元気でいて欲しいからな」

法純のこの言葉に銀月は大きくうなずき、感慨深げに言った。

「それにしても、これでようやく南魏を支える三人の軍師にそれぞれ子どもが生まれることになるのね。何だか感慨深いわ……」

「ん?そうなのか?……そうした他人の家庭の事情は知らないんだが……」

法純と同じかそれ以上の智謀で南魏を支えてきた郭俊と韋脩について、その家族までは兄が知らないと気づいた銀月は説明を加えた。

「そうよ。三人の中では最年長の韋脩さまには韋丹さまというご子息がいらっしゃり、郭俊さまには郭貴水(かくきすい)というご息女がいらっしゃるわ。これでお兄さまにも子どもが出来たら、我が国の三人賢者に各々子どもがいる状態になり、南魏の将来は安泰だわ」

「そうか…言われてみれば韋脩どのにはお子さまがいらっしゃるような話を聞いた気がする。郭俊どのについては知らなかったが……」


そこで銀月は、兄に会ったら尋ねたいと思っていたことを口にした。

「ところで、赤ちゃんの名前はもう決めたの?」

「まだ生まれていないから男か女か分からないが、男だったら『玄(げん)』と名付け、女だったら『初花(しょか)』と名付けようと思う。栄春も賛成してくれているし」

「そうなの?何だか意味深な名前というか……どこかで聞いた名前という感じがするわね」

銀月の疑問に、法純は明確に答えた。

「それはそうだろ。何しろ僕たちが生きている現代、つまり玄初(げんしょ)という元号に由来する名前だからな」

「玄初……そうか。そうなのね!道理で聞いたことがあるような名前だと思ったわ……でも、どうしてこれから生まれるお兄さまの子どもに、今の元号に由来する名前を付けたいの?」

銀月としては既に長年馴染んでいる元号をこれから生まれてくる子供の名前に付けようとしている法純の意図が分からなかった。だが法純の意図は明確だった。

「銀月。それはもちろん、今こそが玄初元年の精神に立ち返る時期だからだ。そもそも玄初という、今の三国共通の元号が出来た由来はお前も知ってるだろう?」

「もちろんよお兄さま。今の中原の三カ国、つまり南魏と青燕と延漢が不可侵条約を結んだことを記念して、三カ国共通の元号として制定したのが玄初という元号の由来でしょ?」

何年も前に制定された、三カ国共通の元号である玄初の由来など、銀月のような文官だけでなく、寺子屋に通っている子どもでも知っている。そんな当たり前のことを何故兄がわざわざ尋ねるのかと疑問に思ってそう言った銀月に法純は答えた。

「もちろんその通りだ。そして、南魏と青燕の終戦協定がようやく結ばれた今こそ、その玄初元年の精神に立ち返る時であり、だからこそ我が子には玄初の精神を宿した名前を付けたいのさ」

「ああ!そういうことだったのね?それはとても良い考えだわお兄さま!」

法純の言い分が非常に理にかなっていると感じた銀月は、微笑みながら感慨深そうに言った。たしかにようやく南魏と青燕の間の戦争が終結した今こそ、玄初元年の精神を明記した名前は子どもにとってふさわしい。法純の意図をようやく理解した銀月に向かって、法純も微笑みながらうなずいた。

かつては戦を経験した南魏と青燕は、今や終戦協定を締結し、そのため法純は東の国境付近から、銀月のいる武漢にまで帰還することが出来たのだ。

そうした恩恵をもたらした南魏と青燕の和平に対して、最も貢献したのは青燕の丞相公孫瑞だった。南魏と戦った者たちの中にも龐植や白鐘や白鈴など、南魏の戦いぶりから「こちらから南魏を攻撃すべきではない。南魏が我が国の領土を奪おうとした場合に迎撃することに徹するべきだ」という意見を持つ者たちもいた。しかし、戦の駆け引きにおいては白鐘と互角の蒋儒という軍師は法純に対する対抗意識から「法純は俺と互角と見なされているが、必ず法純を倒して我が名を南魏に知らしめてやる!」という強い対抗意識を燃やしており、青燕の人々の中に領土拡大を求める人が一定程度いることも相まって「延漢は劉一族によって匈奴と和睦して今や意気軒昂。南魏はかつて我が国と対峙したとはいえ我が国を僅差で負かせたに過ぎない。宋謙陛下のもとで青燕の臣民が一丸となって戦えば、延漢はともかく南魏ならば討てる」と考える者も少なくなかった。

そこで丞相の公孫瑞が宋謙に上奏して「我が国は他国に先制攻撃すべきではない」と主張した。公孫瑞は言った。

「陛下!延漢は匈奴と組んでおりますし、南魏も契丹を降(くだ)しました。しかも両国とも我が国を蹂躙(じゅうりんn)する意図は無く、我が国との争いを望んでいないであろう靺鞨も匈奴と不可侵条約を結んでおります。わが国だけが他国と敵対していたら、青燕は他国からの信頼を失います!主戦派にはいざ戦争になった時の被害を説きましょう!しかも南魏以上に異国との戦いに苦戦した延漢では国王が狩りを我慢し、王妃とともに毎年行っていた長安への視察も諦め、国王も王妃も丞相も将兵と同じ食事をして国家の疲弊をどうにか抑えたと聞いています。そんないつまで続くか分からない質素な生活を陛下はお望みですか?我が国は産業の振興と外交によって諸国にその威を示すべきです!」

今までになく力強い口調で意見を述べる公孫瑞の覇気に気圧された宋謙は、南魏と正式に終戦協定を締結することを下命した。そして法純との終戦協定の締結の場には龐植のみならず公孫瑞も参加して、終戦協定は滞りなく締結された。その後、丞相である公孫瑞まで締結の場に参加したことに対して法純から感謝の言葉を述べられた公孫瑞は、恐縮しながら言った。

「法純どの。感謝していただけるとはかえって恐縮でござる。何しろ私は南魏の仲介によってようやく一族の恨みを解消できた公孫一族の者でございます。むしろ私の方こそ南魏に感謝しております。司馬徴どのもご自身が悪いわけではなく、司馬仲達の子孫として先祖に代わって謝罪なさった。その真摯な態度は非常にありがたく、そしてそのありがたい対応を引き出してくださったのは南魏の方々でございます。今こそ我が青燕は玄初元年の精神に立ち返り、貴国とも延漢とも、そして靺鞨や匈奴などの諸国とも共存する道を目指します!陛下も私から説得いたしますし。我が国の軍師の中でも龐植どのや白鐘どのは防衛のためにのみ軍隊を使うべきと考えております。たしかに我が青燕の中に好戦的な者たちがいるのは事実ですが、そうした者たちには何としても、版図を拡大しないで国を栄えさせるための道を私自身が率先垂範いたします。残念ながら我が国の人材は南魏には劣るかもしれませんが、我が国にも知恵者は居ます。その者たちと協力して、青燕を栄えさせてまいります」

そこまで述べた公孫瑞は法純に向かって深々と頭を下げ、その謙虚な姿を見た法純も、公孫瑞に向かって頭を深く下げた。

こうして、魯雲や酈陽や陸正の協力によって始まった司馬徴と公孫瑞の和解のための働きかけは、公孫瑞の尽力による南魏と青燕の終戦協定締結という大きな成果を産んだ。

その後、青燕では白鈴が銀月から聞いた、南魏の文官試験が男女を問わない出題内容だという事実が青燕の重臣たちにも知られ、最終的には南魏の文官試験と同じような文官試験が青燕国内の男女のために開催されることになるのだった。


第二十三章

その年の冬、魯雲と麗玉そして賈良には良い知らせがやって来た。同期三人組の彼らは特に有能ということで侯(こう)に叙せられることになったのだ。魯雲の兄の魯真も既に侯に叙せられているが、王都武漢の官僚として周越や張豊をよく補佐してきたから侯に叙せられたのは驚かれなかったが、軍功があるとはいえ割と若い年代で魯雲たち文武官が侯に叙せられるのは若干めずらしいことだった。

張豊からの使者が渡した三通の手紙は、おのおの魯雲と麗玉と賈良に宛てられていた。三人は「果たしてどんな美称が与えられるのか?」と、期待に胸を膨らませていた。

かつては爵位と言えば、たとえば「淮陰侯韓信(わいいんこうかんしん)」など、治める領土の地名を含む名称が採用されていたが、魯雲たちの時代の中国では治める領土の地名ではなく、その人に応じた独自の美称が爵位として採用されていた。そこで三人は各々がもらい受けた美称がどのようなものなのかについて気になっていたのだ。

最初に手紙を開いた賈良はニヤリと笑い、そして次に手紙を開いた魯雲は釈然としない表情をし、最後に手紙を開いた麗玉は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。賈良の表情が気になった魯雲は尋ねた。

「賈君は一体どんな美称の爵位を賜ったの?」

「オレか?オレの爵位は覧景侯(らんけいこう)だ。カッコいいだろう!」

胸を張りながら言った賈良に、魯雲は反論しなかったが、少し寂しそうな表情をしながら賈良の言葉を認めた。

「うん。カッコいいね。いいなあ、カッコいい美称で……」

魯雲の発言が気になった麗玉が尋ねた。

「ちょっと魯雲。アンタの爵位は気に入らないの?どんな名前なのさ?見せてみて!」

魯雲が受け取った手紙を、身を乗り出して見ようとする麗玉。そこで魯雲は自らが受け取った手紙を麗玉に見せながら言った。

「ほら。これだよ。修善侯(しゅうぜんこう)だってさ。善を修める、という良い意味だけど、カッコよさはイマイチだよね」

そこで麗玉は慰めるような、からかうような、微妙な言い方をした。

「まあ、確かにカッコよさはイマイチだよね。でも善を修めるって魯雲にピッタリの美称だわ。魯雲のおかげで敵を生け捕りに出来たから匈奴と延漢が穏便に和睦できたけど、その一方で魯雲は痺れ薬の効果を魯雲自身で試してぶっ倒れたじゃない?馬か野良犬にでも試せば良かったのよ。別に殺すわけじゃないんだから」

「う…まあ、たしかに馬や野良犬に試しても死にはしなかっただろうけど、でも何の罪もない動物に試すのは申し訳ない気がしたんだよ……逆に心配をかけた部下には申し訳ない結果になったけどね」

そこまでだったら魯雲は単に親しみを込められながらもやや軽くあつかわれた程度だったが、そこで賈良が

「ハハハ!あらためて聞いてみると実にお前らしい発想だな魯雲!」

と笑いながら言ったので、魯雲は話をはぐらかすために麗玉に話しかけた。

「ところで朱さん。朱さんの爵位はどんな名前なの?さっき嬉しそうな表情をしていたから、素晴らしい美称だと思うんだけど、具体的に教えてよ」

そこで麗玉は「待ってました!」とばかりに胸を張って答えた。

「アタシ?アタシの爵位は蓮紗侯(れんさこう)よ!どう?素敵な名前でしょ?」

だが、手紙を実際には見ておらず爵位名を音で聞いただけの魯雲はとんでもない勘違いをした。

「え?連鎖侯(れんさこう)?それって良いことの連鎖ならいいけど、失敗の連鎖という意味にも解釈できるよね?王朝から皮肉を込めて付けて名前じゃないの?抗議すべきじゃないかな?」

心底心配そうにする魯雲に、麗玉は脱力しながら答えた。

「あのねえ魯雲。ちゃんと文字を読みなさい。まあ、そうは言ってもアタシが手紙を見せてあげなかったから読めないのは仕方ないか……ほら、見てみなよ」

麗玉が魯雲に見せた手紙、そこには「連鎖侯」ではなく「蓮紗侯」という爵位が書いてあった。魯雲は自らの勘違いを恥じて申し訳なさそうにして、その様子をまた賈良が笑った。

その場で三者は各々の爵位名について各人各様の意見を持ったが、他方で同僚の将来も気づかっていた。

賈良は思った。

(オレがこんなカッコいい爵位を受け取ったのは嬉しいが、彭蒙のことが気になる。アイツは俺の後輩にあたるが俺と同い年だし。何と言ってもアイツの武芸は南魏随一だ。契丹との戦いで張蓋と引き分け、匈奴との戦いでも活躍したアイツには、是非とも爵位を早くたまわって欲しいな)

他方魯雲は、

(僕の爵位の名前はカッコよさがイマイチだけど。なるべく気にしないようにしよう。それより陸正どのが早く爵位を賜るといいな。先の匈奴との戦いでは陸正どのの智謀に助けられたから、陸正どのより僕が爵位を賜ったのは何となく申し訳ない)

とも思った。そして麗玉は

(アタシの爵位は素敵な名前だけど、銀月さまにはアタシの爵位よりもっと素敵な名前の爵位を賜って欲しいな。アタシが守旧派との舌戦に勝てたのは銀月さまのおかげだし、先の外交の場でもアタシの勘違いを銀月さまが擁護してくださったんだから……)

後に彭蒙も陸正も銀月も、各々爵位を賜り侯に列せられたのだが、先に魯雲たち同期三人組が爵位を賜ったため、各々が尊敬している同僚に対して気後れしてしまったのも事実であった。

爵位と言えば、爵位を得て現在も南魏に貢献している高齢者は酈陽と黄援である。黄援はいまだに現役の武将であり、酈陽は説客として今でも外交の第一線に立つことがあるが、銀月や魯真のみならず青雅や夏侯勝に外交を任せることもあった。だが、酈陽が書いた手紙のおかげで南魏に貢献することにもなった。それはかつて甘成の部隊とともに匈奴と延漢の国境付近に行った際に黒水党という盗賊集団に兵糧の一割を渡した時の顛末を丞相の張豊に報告した結果だった。周越と李荘は友好的な関係を築いているから周越を経由してこの件を延漢に伝えたくないと判断した張豊は独断で延漢に黒水党の中には職にあぶれてやむを得ず盗賊になった者もいると伝え、さらに南魏の兵糧の一部を黒水党に与えたことも書かれていた。延漢の司馬徴たち重臣は慌てて再度延漢東方に部下を派遣し、黒水党を捕縛するとともに刑務として働かせることにより、黒水党の者たちに仕事を与えつつ東部に平穏をもたらした。


第二十四章

この時代の中原にあっては異例の事態である収賄事件をめぐって荀慶や蔡単たちが多忙になっている間、南魏においては延漢国内の動揺ぶりを冷静に見ている者たちがいた。軍功第一位の軍師たる郭俊と、そして兵站担当の許秀である。郭俊は言った。

「ふっ……、作戦通り、延漢の荀慶らは完全に我を失っているな。私が送った『延漢東部の役人の賄賂の証拠』を見て今頃は賄賂の有無を確認するための早馬を国中に飛ばしていることだろう」

許秀はそれに応じた。

「郭俊さま、情報戦の手際、感服いたしました。延漢の役人たちが賄賂の調査のために国境の持ち場を一時的に離脱する今こそ、私の出番です」

郭俊は優雅にほほ笑みながら、魯雲に次ぐ知力を誇る許秀の奮闘を促した。

「うむ。許秀どのの事務能力、今こそ見せてもらおうか。延漢に不条理な損害を与えず、されど我が国の実利となる算段はついたか?」

許秀は書類を広げながら答えた。

「はい。国境の倉庫には延漢と南魏が共同で管理していた今年度の余剰穀物と新種の種芋が保管されています。延漢の役人が調査で不在の間、これらが放置されて傷んでしまっては、両国にとって大損害です」

許秀の意図を察した郭俊は言った。

「なるほど。『放置による腐敗を防ぐための緊急措置』として、南魏が一時的に全量を引き取る、という名目か」

「その通りです。条約の『維持管理の代行条項』を適用し、南魏が責任を持ってこれらの穀物を回収し、我が国の農地で栽培や増殖という有効活用をする、という書類に書き換えました。彼らは今取り乱しているから判を押すでしょう。そうすれば手続きはすべて合法です」

許秀の読みの深さに、郭俊は笑みを浮かべながら言った。

「ふふふ……領土を奪えば恨みを残すが、放置された穀物や種芋であれば、延漢側も本国で内政をしっかり整え、来年また農業に励めばいくらでも取り返せる。南魏は当面の大きな実利をつかみ、延漢も国の根幹を失わずに済むな……」

「はい。戦もせず、領土も奪わない。これこそが魯雲どののおっしゃった王道に沿った、私の兵站管理のあり方です。……さて、彼らが戻ってくる前に、搬出用の貨車の配備を済ませておきましょう」

こうして郭俊にも認められ許秀の案は採用され、南魏は延漢国内の資源を手に入れることが出来た。その事は許秀の戦略的手腕を南魏の重臣たちに知らしめるのみならず、許秀の恋人すなわち孫紫蓮にも知られることになった。

許秀は紫蓮の前で、くつろいだ表情を見せながら言った。

「多くの物資が我ら南魏のものになりました。延漢の荀慶や蔡単は今頃、賄賂の調査でそれどころではないですからね」

紫蓮は得意の楽器を手にしながら優雅にほほ笑んだ。

「ふふ、許秀さまの筆先一つで戦わずに勝ってしまわれたのですね。本当にお疲れ様でした。……お耳汚しかもしれませんが、お疲れを癒す曲を一つ、聴いていただけますか?」

「……ありがとうございます。君の奏でる音を聴いている時だけが、私の頭の中から数字が消える、唯一の時間ですよ」

愛しい紫蓮の奏でる妙なる楽曲。その響きに身を浴する時こそが、許秀の至福の時間だった。


こうして他国から直接資源を手に入れる案を検索した許秀が成果を上げているころ、韋脩とともに働くことが多い魯真は、南魏の国内産業を振興しようとしていた。韋脩は魯真が意外な提案をしたのに驚いた。

「伯寧どの。貴殿の案は素晴らしい!産業振興や地域貢献に実に役立つ!」

魯真に敬意を込めて字(あざな)の伯寧で呼んでいる韋脩は、魯真の政治手腕を高く評価している。その魯真は言った。

「軍議においても内政においても南魏に貢献なさっている韋脩どのに高く評価していただけるとは、身に余る光栄に存じます。ただ、実はあの案は私一人ではなく青雅どのとの話し合いで生まれた案でございます」

「ほほ。お二人で考えた案ですか。貴殿らのような若くて有能な文官がいれば、我が南魏は安泰であろう」

「重ね重ねありがたきお言葉、恐縮いたします」

魯真は韋脩に深々と頭を下げた。

魯真と青雅が考えた案。それは飲食業に基づく地域振興策であった。まずは王命で各太守にお触れを出し、その領地の中でさらに地域を複数に分け、その中で特定の条件に従った料理や飲み物の人気を競う、という大会を魯真は提案した。部門は複数あるが、主に南魏にふさわしい食材を使うのが条件だ。主にエビなどの魚介類を使う料理という条件と、米を使った料理という条件の二つの部門は全地域で共通の部門である。さらに武漢やその近郊など蓮の実が入手できる地域では、蓮の実を使ったお菓子に合うお酒やお茶の部門もある。各地域の料理人はもとより漁師も農家もこぞって大会に参加した。上位入賞者には賞金が与えられるし、太守の名義で表彰もされる。それは飲食業の振興であると同時に、各地域の農民や漁民に対しても良質な産物を獲得している場合は名を成すことが出来る好機であるから、賞金と名誉を求めて多くの人が熱意を持って大会に臨むことになった。

ここまでは魯真が考えたことであったが、青雅は更に画期的な提案もした。青雅の発案で、延漢に近い地域や青燕に近い地域では羊肉を使った料理や鶏肉を使った料理の部門も設けたのである。延漢では羊肉を食べる文化が主流で、青燕では鶏肉を食べる文化が主流である。エビなどの魚介類を食べることが多い南魏の人々の口に合うかは好みが分かれるところだが、延漢に近い地域では羊肉を食べることも時々あるし、鶏肉に至っては青燕の近くの地域はもとより、青燕から離れた地域でも食べる人はいる。魯真だけではあくまでも南魏でよく食べられる魚介類や米を使った料理、さらには蓮の実が手に入る地域では蓮の実のお菓子に合うお茶やお酒といった部門の案しか思いつかなかったが、青雅は「南魏の食文化だけでなく延漢や青燕の食文化を受け入れている人だっているはず」と考えて、一部の地域限定とはいえ羊肉の料理や鶏肉の料理という部門まで提案した、という訳だ。

その後、地域によっては必ずしも参加者が多くない羊肉部門や鶏肉部門だったが一部の地域では好評でえあった。南魏によるこの飲食物の大会は、後日延漢や青燕にも知られることになり、単に「我らの食文化が南魏に受け入れられた」と考える者ばかりではなく、むしろ「我らの食文化を南魏がさらに洗練させて産業を盛り立てている。我らも負けてはいられない」と焦る者たちも現れた。実際、この飲食物の大会の第一回目では延漢や青燕から多数の羊や鶏が商人経由で南魏の人々に買われたとはいえ、料理したのが南魏の料理人であるから、経済的には付加価値を付けたのが南魏の人々であるし、南魏の人々の一部であっても羊肉や鶏肉を美味しく料理して食べることに慣れたら、やがては羊も鶏も南魏で多数飼育されるようになるだろう。そうなれば南魏は食文化において延漢や青燕に勝る国として他国から認められるだろう。延漢にも青燕にも、南魏のそうした長期的優位に対して危機感をいだく人は一定数いるから、そうした危機感を持った人々により、延漢や青燕でも、数年後には料理に関する大会が開かれるようになった。

しかし南魏の飲食産業の振興策を生み出した魯真と青雅は、自らの手柄をことさら誇るでもなく、単に「美味しい料理やお茶やお酒を競うことで料理人や酒造職人や農民や漁民が誇りをもって仕事をし、さらには入賞者は表彰のみならず賞金によっても報われる」という制度の定着を、我が子の成長のように喜びながら見守るのだった。


第二十五章

契丹のみならず匈奴とも和睦が成立し、靺鞨は匈奴との不可侵条約を守りながら匈奴と結託して青燕に攻め入るという訳でもなく、中原では平和なまま春が訪れた。

匈奴はかつて靺鞨を優先した青燕に良い印象は持っていないが、しかし匈奴は南魏と延漢のみならず青燕にも外交の使節を送ることにした。延漢には左賢王の世子を、青燕には右賢王の世子を各々責任者として送り、南魏への使節としては、かつては魯雲たちと激しく敵対していた匈奴の阿瑠奈がその責任者となった。

阿瑠奈は朱那郁単于に対して「敵情視察ではなく『南魏の国力と制度を学ぶべき』と進言し、正式な全権大使として同行する」という決断を下した。その理由は、

「南魏の強さは武力や兵の多さではない。敵を殺さず味方に引き入れる包容力にある。それを学ばねば我々匈奴はいずれ時代に取り残される」

 および

「それに何と言っても、魯雲という男の変わった性格……いわば不殺の信念が気になる。その根底に何があるのかを、この目で見極めたい」

 と、阿瑠奈が考えたからだ。

 阿瑠奈やその側近である伽羅たちは、南魏に対する匈奴の全権大使として、まずは南魏の王都である武漢に行き、南魏王周越への謁見の機会を得た。側近に囲まれ、王座に座った周越に対して、阿瑠奈は深々と頭を下げ、匈奴の全権大使として南魏王の周越陛下にお会いできてまことに光栄であること、そして南魏と匈奴の平和的共存を朱那郁単于も望んでいる事を伝えた。周越は厳かな表情で阿瑠奈の発言を聞いた後、玉座からゆっくりと立ち上がって言った。

「阿瑠奈どの、朱那郁単于のご意向、しかと承知した。朱那郁単于の希望する南魏と匈奴の平和的共存は余も望むところである。それゆえ、阿瑠奈どのおよびその随行者たちには余が可能な限りで歓待させていただき、旅の疲れを癒していただくとともに、南魏国内で阿瑠奈どのがお望みの地域を訪問なさるための道先案内人も用意しよう」

「周越陛下、ご高配に感謝いたします」

 阿瑠奈はそこまでは一種の社交辞令であり外交上必要な範囲の配慮だと(それがいかに厚遇であるとはいえ、極端な厚遇とまでは言えないと)思っていたが、周越はさらに言った。

「阿瑠奈どの、そもそも阿瑠奈どの個人に対して余は感謝の意を述べたい。御身は匈奴と延漢が交戦状態にあった時点で、朱那郁単于に対して休戦協定を結ぶようにとの手紙を書いて部下に送らせたとの事。その後最終的に延漢が匈奴のみならず靺鞨とも不可侵条約を結んだことは劉明どのと李荘どの、そして匈奴や靺鞨の人々の仁徳によるとは言え、その前に休戦協定が結ばれていたからこそ不可侵条約が滞りなく締結されたことは明らかである。不可侵条約に先立つ休戦協定のために、御身が配慮してくださったことに、平和と共存を求める南魏の王として御身に感謝を申し上げる」

 周越は玉座の前に立ったまま、阿瑠奈に向けて軽く頭を下げた。阿瑠奈は恐縮しながら

「もったいないお言葉にございます。そもそも私(わたくし)めが休戦協定を結ぶようにとの手紙を単于に書いたのは、延漢王の李荘陛下および魯雲公などの南魏の将兵に恩義を受けたからでございます。周越陛下がその様な私に対して頭をお下げになるなど、恐縮のあまり言葉もございません」

 と、膝をついて深々と頭を下げた。

 その後、丞相の張豊の采配で宴席が設けられ、毛紅梅や孫紫蓮、そして紫蓮の妹の孫藍蓮(そんらんれん)などによる素晴らしい器楽を楽しみながら、阿瑠奈とその随行者たちは宴会で南魏の美食を楽しみ歓待を満喫した。

 阿瑠奈は周越の言動に親しみやすさや尊敬の念、そして懐の深さを感じながらも、その胸中には「ある疑問」が湧いてきた。そして後ほど魯雲にその疑問について尋ねる事にした。

「魯雲どの、南魏の王宮に関する立ち入った質問をいたしたい。よろしいだろうか?」

「どうぞ」

「周越陛下に拝謁し、その周越陛下の側近たちともお会いしたが、一つだけ気になることがあるのだ。周越陛下のそばには、なぜ宦官(かんがん)がいないのだ?中原の王宮では昔から宦官が王の側近として仕えていると『史記』や『三国志』には書いてあったのだが……南魏の宦官は政治には参加できないのか?」

「ああ、何だ。そんな事か。実はね、南魏にも延漢にも青燕にも宦官は存在しないんだよ」

「何!?それは一体なぜだ?」

 魯雲の発言に驚いた阿瑠奈は尋ねた。だが魯雲の答えは極めて簡潔だった。

「それはね、南魏も延漢も青燕も、王室も含めて基本的には一夫一婦制の国だからなのさ。基本的に一夫一婦制だからお妃さまはお一人で、それゆえ怪しい男を近づけないための厳重な後宮を作る必要も無い。だから宦官という役職が存在する必要自体が無いんだよ」

 魯雲に限らず南魏や延漢や青燕の人々にとって、それは当たり前のことなのだ。ただ、魯雲の様な知識人は「そんな当たり前の事が『史記』や『三国志』の時代には当たり前ではなかった」ということも当然知っている。だから阿瑠奈の様な匈奴からの来客が『史記』や『三国志』で得た知識が現代にも当てはまると思っていれば「中原の王宮には必ず宦官がいるはず」という見当違いな思い込みをするのも理解できる。

とは言え、魯雲の説明を聞いた阿瑠奈には別の疑問が湧いてきた。

「魯雲どの、それは確かに一見するとこれまでの中原には無かった素晴らしい制度の様な気がする。だが、その制度はあまりにあやうくないか?もしその唯一のお妃さまに子どもが生まれなかったら王室は断絶してしまう。国王がそんな博打を打つなど、私には愚策に思えるのだが……」

 しかし魯雲はその点についてもアッサリと答えた。

「そうだね。だからあくまでも基本的には一夫一婦制であるに過ぎないのさ。もし仮にお妃さまにお世継ぎが生まれなかった場合は例外的に第二夫人を作っても良いという法律になってるんだよ。王室が途絶えてしまっては困るからね」

 魯雲によるこの説明に、阿瑠奈は深々とうなずきながら言った。

「なるほどな。ただの綺麗事ではなく、現実的な妥協点を見つけた合理的な仕組みという訳か。なればこそ、後宮を維持するための金もかからず、宦官という制度も必要ない。実に見事な統治だ」

 南魏と延漢と青燕、時に対立し時に協力する複雑な関係の三国であるが、そこには通底する価値観があるのだということを、阿瑠奈は感慨深く納得した。

その後、『史記』や『三国志』と今の時代との対比をしながら、南魏にも延漢にも青燕にも賄賂が無いという話になった時、阿瑠奈の胸中には先ほどとは別の疑問が湧いてきた。

「魯雲どの。賄賂と言えば以前延漢の東部で役人の一部が賄賂を要求したことが明らかになって大騒ぎになったよな。あれは現代の中原では相当に珍しい事件なのか?」

「そうだね。あれには僕も驚いたよ。この時代に賄賂を要求する役人がいるなんて、まるで周の文王を補佐した太公望の子孫が見つかったというような珍事件だからね。だから僕も最初は信じられなかったよ」

 魯雲の説明を聞いた阿瑠奈はさらに疑問を述べた。

「しかし、たとえそんなに珍しい事件であっても、誰かが見つけたから大騒ぎになったのだろう?一体誰が見つけたんだ?」

「それは僕たち南魏で軍功第一の軍師である郭俊さまだよ。僕だけでなく郭俊さまと同じ軍師の韋脩さまとか法純さまも、賄賂なんていう、現代ではあるはずの無い犯罪の存在を郭俊さまが予想できたことに驚いたし、『郭俊さまは神か妖魔か?はたまた天帝の加護があるのだろうか?』だなんてはやし立てる人も結構いたんだ」

「そうか。教えてくれて感謝する」

 阿瑠奈は魯雲に頭を下げた。その胸中は複雑だった。この時代の中原の政治の清廉さも素晴らしいが、そんな清廉な世界の中でもわずかな濁りがあることを予期した郭俊の智謀にも敬服した。そしてそれ以上に、そんな知略あふれる郭俊という南魏の重要人物の業績を、匈奴から来た阿瑠奈に対して何ら包み隠さず教えてくれる魯雲の度量の大きさにも敬服した。

ただ、それでも阿瑠奈にはまだ疑問が残る。賄賂に関する疑問の核心を、阿瑠奈は魯雲に尋ねずにはいられなかった。

「魯雲どの。賄賂に関してまだどうしても気になる事が一つあるのだ。尋ねても良いか?」

「どうぞ」

阿瑠奈の深刻そうな表情に対して魯雲は穏やかな表情で答え、その魯雲の雰囲気に安心をした阿瑠奈は尋ねた。

「私が読んだ『三国志』には賄賂に関する記述がしばしば出てくる。そんな歴史的背景を持つ中原が、今は何故賄賂が稀有な国ばかりになったのだ?」

真剣な表情で尋ねる阿瑠奈が少し滑稽に思えたが、しかし「『史記』や『三国志』だけを読んで現代の中原の人々とは戦場で相まみえただけの匈奴の一員である阿瑠奈なら、そんな疑問をいだくのも無理はない」とも魯雲は思った。そこで魯雲は南魏や延漢や青燕の成立前、つまり八王の乱や永嘉の乱に少しだけ言及した。とは言え、詳細な歴史の叙述ではない。要するに『三国志』の時代を経て司馬炎の天下統一を経た後さらに戦乱の世になり中原の人々つまり魯雲たちの先祖が非常な苦労をしたという話を要約して伝えた。そして魯雲は問題の核心に触れた。

「つまりさ、僕たちの時代の中原の人間たちは、寺子屋でもそうした『三国志』の動乱や八王の乱や永嘉の乱と言った、僕らの先祖が苦労した時代の事から、教訓を得た先生たちに教わっているんだよ。後漢末期の十常侍(じゅうじょうじ)の専横、昭烈帝劉備が建国した蜀漢で暗躍した黄皓、そうした危険な人物達が国を傾ける役割の一部を担っていたし、現代の中原で賄賂が特に危険な犯罪として禁忌あつかいなのは、他の犯罪と違って国を歪めるからなのさ」

「他の犯罪との違い…とは?」

魯雲の説明が今ひとつ理解できなかった阿瑠奈は尋ねた。魯雲は説明を加えた。

「違い?よく考えてよ阿瑠奈さん。たしかに殺人や泥棒も悪いけど、それらは役人がしっかり取り締まれば再発を防止できる犯罪でしょ?犯人を捕まえて牢屋に入れればそれらの犯罪は再発しない。だけど賄賂は役人自体が不正をすることだから、犯罪を取り締まるべき立場の人間が犯罪を犯していることになる。だから賄賂が蔓延すると殺人や泥棒と違って国家自体が危機に陥ると僕らは寺子屋で常識として教わっているのさ。まあ、公徳…彭蒙のように寺子屋での勉強をあまりしなかった人物に至っては、そもそも『賄賂』と言う言葉の意味さえ知らなかったんだけどね」

「……」

魯雲の説明に一瞬納得したような阿瑠奈だったが、それでも少し釈然としないのでさらに踏み込んだ質問をした。

「魯雲どの…たしかにそれは道理という気がする。国を傾けた大きな要因の一つが賄賂で、国が傾いたことで『三国志』やそれ以降の血で血を洗う戦乱の世を生き抜かねばならなかったのが今の中原の人々の先祖なら、確かに賄賂を他の犯罪以上に危険視する理由はある。だが、それだけで賄賂をほぼ根絶できるとは思えない。他にも理由があるのではないか?」

阿瑠奈のこの問いに魯雲は大きくうなずいて答えた。

「うん。そうだよ阿瑠奈さん。たしかに僕らの時代の中原の人々は『賄賂だけはこりごりだ』という先祖の記憶を引き継いでいる。だけどその感覚だけで賄賂がほとんどない……延漢の東部の一部の役人があまりに稀有な事例だった、という社会になったわけじゃない。その『賄賂だけはこりごりだ』という気持ちが特に強い官吏の人々や王族が協力して、賄賂を相互に監視する体制を作ったんだよ。『自分だけは賄賂をもらいたい』と思う人がいてもお互いが『他人の賄賂は危険と感じている』と言う状態で相互監視する体制が官僚組織の中に出来たから、お互いに『かつて中原の国を傾けた悪習だけはお互いに禁忌と見なしている』という状態が当たり前になり、そのおかげで『自分だけは賄賂を受け取りたい』と思う役人もお互いがお互いを監視するように給料の明細などの文書が相互に閲覧できるようになり、不当な所得があると思われたら問い詰められる状態になったのさ。だから官吏はお互いに牽制しあって、賄賂がほとんどない状態になったのさ」

魯雲の説明をそこまで聞いて、阿瑠奈はようやく納得した。

「なるほどな。殺人や泥棒と言った単なる犯罪ではなく国家の判断基準自体をむしばむ犯罪が賄賂であり、その賄賂のせいでかつての後漢や蜀漢が滅びたという側面が強く、八王の乱や永嘉の乱での苦労の記憶も先祖から引きついでいる者同士が、互いに相手の所得を見張ることが出来る情報網を官僚制度の中に構築した。だから賄賂が非常に稀有になったのか……魯雲どの、かたじけない。私は今ようやく理解できた」

魯雲の説明に深々と頭を下げる阿瑠奈。その阿瑠奈の様子に魯雲は恐縮してしまった。

「阿瑠奈どの、どうか頭を上げてください。僕が今言ったことは南魏や青燕や延漢なら子どもでも知っています。そんなに恐縮なさるほどの知識ではありません」

魯雲にそう言われて頭を上げた阿瑠奈の顔には、少し照れくさそうな笑みが浮かんでおり、その表情を見た魯雲も、はにかんだように微笑んだ。

その後は魯雲と阿瑠奈は特に立ち入った話をすることもなく、互いの住む外交使節用の建物と官吏用の官舎に帰った。

そして後日、魯雲は彭蒙とともに、既に成申に帰っている雪蘭や春華に会うために帰郷することになったが、その際に驚くことになった。

「ええッ?!朱さんや陸正どのも、さらには阿瑠奈どのたちも僕と彭蒙の帰郷に同行するんですか!?」

 丞相の司馬徴から言われたことだから断れないが、あまりにも突飛な話だし、阿瑠奈や伽羅を成申に連れて行けば、彼女たちを雪蘭や春華にも会わせることになるかもしれない。何となく気恥ずかしい気がして、魯雲は気が動転した。


第二十六章

阿瑠奈や伽羅が成申に行く前に武漢で過ごしている間、賈良や許秀は各々武漢での逢瀬を楽しんでいた。

武芸自慢の賈良は腕っぷしを試すために複数人との組手をしたり、あえて不安定な足場の上で槍術の練習をするなど、周囲から見れば危険と思えるような行為をすることがあった。紅梅はそんな賈良を気遣ってたしなめた。

「もう、賈良さん!あなたは危ないことばかりして!いつか本当に大怪我をしたらどうするの!」

心配する紅梅に対して賈良は照れくさそうにしながら、しかし少しうれしそうに言った。

「心配してくれるのか?ありがとう紅梅どの!」

紅梅は、賈良のにこやかな表情に戸惑いながら幾分あきれたように言った。

「ありがとう、じゃないでしょ!お体を大切になさってください!」

「ははは!分かった分かった!」

紅梅の手を嬉しそうに握る賈良。その様子を見た許秀は、深刻そうな面持ちで考え込んだ。

「……なるほど。賈良どのは戦場での危険を軽視している。これは兵站管理上、看過できない問題ですね」

そんな許秀を見た紫蓮は驚きながら言った。

「え?許秀さま、何をお考えなのですか?」

許秀は紫蓮に向き直って沈痛な表情で言った。

「賈良どのの出陣回数、不承率、武器の消耗率を調べましょう。危険な任務を減らして護衛を増やせば、戦力の損失を防げます」

この言葉に、許秀が勘違いしているのではないかと心配した紫蓮は

「……許秀さま、紅梅どのは賈良どのの戦力を心配しているのではなく、賈良どのご自身を心配なさっているのではありませんか?」

と述べたが、許秀には紫蓮の意図が今ひとつ良く分からない。

「しかし賈良どのが負傷すれば、南魏にとって重要な武力が削られることになります」

「それはそうですけど……」

許秀の言うことも間違いではないと感じた紫蓮が躊躇しながら認めると、許秀は我が意を得たとばかりに話を続けた。

「ならば私の考えも間違ってはいないでしょう?」

紫蓮は微笑みながら、許秀の手をそっと握った。

「ええ。でも、私が許秀さまに無理して欲しくないと思うのも、南魏の兵站を心配しているからだけではありませんよ。紅梅さんも私と同じ心境ではないでしょうか?」

「……!」

紫蓮が紫蓮自身の気持を引き合いに出したおかげでようやく紅梅の意図を察することが出来た許秀はしばし沈黙した。紫蓮は微笑んだ。

「ふふ。数字だけでは計算できないことも、世の中にはあるのですよ」

「……どうやら私は、まだ人間というものを学ぶ必要があるようですね」

ようやく「恋人ならではの細やかな気遣い」を理解した許秀に向けて、紫蓮は穏やかな口調で述べた。

「では、今夜は数字の事を忘れて、私の演奏を聴いてくださいませ」

「それは……何よりのご褒美です」

許秀は嬉しそうに、しかしどこか照れくさそうに微笑んだ。

そんな四人を、偶然通りかかった阿瑠奈と伽羅は見かけた。伽羅は言った。

「まあ、賈良さまとあの器楽の方、あんなに堂々と手を握り合って……。南魏の宮廷では恋人同士が人目を気にせずに想いを伝え合うのが普通なのですね……」

加羅の言葉を聞いて賈良たち四人を見た阿瑠奈は腕を組み、非常に真剣な表情で賈良たちを凝視した。

「……む、伽羅よ。あの二人の顔を見るがいい。妙に赤くなったり緩んだりしている。あれは……私がこの前、劉明さまを見た時に患(わずら)った、胸が苦しくなって呼吸が浅くなる奇病と同じ症状ではないか?するとつまり中原には恐ろしい風土病が蔓延して……」

伽羅は深くため息をつき、呆れたように頭を振った。

「阿瑠奈お姉さま、何度申し上げたら分かるのですか?あれは病気ではなく、中原でいう自由な恋愛というものです。あのようにどなたでも自身の心で想い人を選び、仲睦まじく過ごす文化が、今の中原では当たり前らしいですよ」

阿瑠奈は当惑しながら言った。

「む、れんあい……だと?……それは以前お前が言っていた、あの『恋』とかいう謎の現象か?家同士のつながりでもなく政治の都合でもない。ただ『好きだから一緒にいる』というだけで、あんなに顔が真っ赤になるものなのか?不可解極まる……」

伽羅はニヤニヤと笑みを浮かべ、阿瑠奈の顔を覗き込んだ。

「不可解ではありません!阿瑠奈さまが劉明さまのお姿を見て『私は病気か!?』と大騒ぎなさったあの感情こそが、まさにあの二人がお互いに対していだいている感情なのです!今の中原は恋愛が自由なのですから、阿瑠奈お姉さまが劉明さまを見て『いつか必ず再度お会いしたい』と熱烈に想うことだって、誰にも咎められない自由なんですよ」

阿瑠奈は動揺しながら叫んだ。

「なっ、ななな何を言うか伽羅!私はただ、劉明さまを見たら、胸が不規則な脈を打っただけで……」

と言った阿瑠奈は顔を真っ赤にしながら頭を抱えてしまった。

「うう、やはり劉明さまは毒か何かを持っているに違いない!劉明さまのことを考えるだけで、また胸の病が再発しそうだっ!……」

あわてふためく阿瑠奈を見た伽羅は見てニヤニヤと悪戯っぽく笑いながら言った。

「ふふ、重症ですね。でも、劉明さまに今、奥さまがいらっしゃるかどうか、アタシには分かりませんよね。……よし!明日、馬車の中で中原の自由な恋愛について魯雲さまに尋ねるフリをして、劉明さまの現在の家庭の事情をこっそり探ってみることにしましょう!」

だが伽羅の目論見を聞かされた阿瑠奈はあたふたしながらも強い口調で言った。

「な、なにを企んでいるのだ?伽羅!魯雲どのに余計なことを言うなよ!絶対に言うなよッ!……」

後日、阿瑠奈と伽羅は魯雲と同じ馬車に乗り、魯雲たちの故郷である成申に向かうことになった。

その道中、阿瑠奈はどこか落ち着かない様子で尋ねた。

「ところで、魯雲どの。伽羅に聞いたのだが、今の中原つまり南魏や延漢や青燕では、身分にかかわらず、れ…恋愛とやらが自由であって、自分の意志で結婚相手を選ぶのが当たり前らしいな……本当か?政略結婚というのは過去の話なのか?」

 阿瑠奈からの問いかけに魯雲は、もうすぐ会えるであろう雪蘭を思い浮かべながら答えた。

「ええ、本当ですよ阿瑠奈どの。まあ、さすがに王族は例外ですし、あるいは太守の一部にも政略結婚をしている人がいるかもしれませんが、それ以外は朝廷の重臣であれ僕のような都尉であれ民衆であれ、お互いが心から好きになった人と結ばれます。それに男女の関係だけではありません。人によっては男性同士や女性同士で恋愛することもあります。本人の意志を無視して無理矢理結婚させられる時代は、永嘉の乱で晋が滅びた際に終わったんですよ」

 男性同士や女性同士の恋愛も存在するという魯雲の説明は阿瑠奈にとって意外だった。しかし、何はともあれ魯雲の発言を聞いた阿瑠奈はほっと胸をなで下ろし、小さくつぶやいた。

「……そうか、それは良かった……」

 阿瑠奈の様子を見た伽羅はニヤリと笑いながら身を乗り出し、魯雲に話しかけた。

「ねえ、魯雲さま!聞いてくださいよ!実は阿瑠奈お姉さまって、先日の和睦の儀式で劉明さまを見た瞬間に、胸が締め付けられるように苦しくなったとのことで、儀式が終わって退席した直後に『この感情は何だ!?私は病気なのか!?』って大慌てしながらアタシに尋ねたんですよ!それでアタシが『阿瑠奈お姉さま、それは恋というものです』と説明したら『恋とは何だ?』とお尋ねになって、アタシとしては子どもでも知っていることをどうやって説明すれば良いか分からず、どうにか納得してもらったんですよ。それで阿瑠奈お姉さまはようやく納得なさり『いつか必ず朱那郁単于さまに付き添って、劉明さまに再度会いたい』だなんて、もう熱烈に恋焦がれちゃってるんですよ!」

 そこで阿瑠奈は耳まで真っ赤になり

「か…伽羅!魯雲どのの前で余計なことを言うな、とあれほど言っただろう!!」

 と叫びながら伽羅の襟をつかんで伽羅の頭がガクガク揺れるほど揺すった。他方、魯雲は驚きながらも明るい口調で

「それってつまり阿瑠奈どのは劉明さまに恋心をいだいているっていうことだよね!…だったらそれは素晴らしいよ!実はね、劉明さまにはお子さまはいらっしゃるけど奥さまはいらっしゃらないんだよ。つまり劉明さまは独身なんだ。しかも劉明さまは実権の無い光禄大夫という名誉職に就いたから、恋愛も結婚も完全に自由だよ!」

 魯雲の言葉を聞いた阿瑠奈は伽羅の襟からパッと手を放し、驚いた表情で魯雲を見つめた。

「魯雲どの!それはつまり、劉明さまは独り身ということか!?」

「そうですよ。しかも劉明さまは以前僕に相談してくださいました。『やはり子どもたちのためには新しい母親がいて欲しい。しかし昭烈帝劉備の血筋という、私の難しい立場を理解して、私と一緒になってくれる強い女性などそうそういない。だから諦めるしかないのだろうか』ってね。だけど阿瑠奈どの、貴女ほど優しくて美しくて知勇兼備な女性なら、劉明さまにとってもお子さま方にとっても最高の救いですよ!」

 魯雲の言葉に伽羅は満面の笑みを浮かべてはしゃいだ。

「素敵!両想いの予感ですね!単于さまだってお姉さまが劉明さまの妻になるなら匈奴と延漢の絆が何倍も強くなるから絶対に大歓迎ですよ!」

 魯雲も伽羅の言葉に微笑みながら言った。

「うん、そうだね!しかも延漢王の李荘陛下なら、大喜びで二人の仲人(なこうど)をしてくださるんじゃないかな。しかも、延漢の人々もみんな賛成するはずです」

 二人の言葉を聞いた阿瑠奈は恥じらいながら何度も指先を弄んでいたが、やがて凛とした美しい目で二人に向き合った。

「ありがとう。私は戦の計略は分かっても、人の心を動かす恋というものについては何も知らなかった。…でも決めたわ!成申への旅が終わったら、単于さまを通して、劉明さまに堂々と会いに行くことにするわ!」

 恥じらいながらも、自らの恋の未来に向かって力強く微笑む阿瑠奈。

馬車はガタゴトと音を立て、温かい希望を乗せたまま、魯雲や彭蒙の故郷であり、雪蘭や春華の待つ成申へと、ゆっくり進んでいくのであった。


第二十七章

かくして、魯雲と麗玉と阿瑠奈そしてさらに陸正も交えて、成申にある厳家の屋敷で小さな集会を持つことになった。彭蒙はしばらく前から麗玉と付き合っており、麗玉に結婚を申し込んで麗玉が承諾したので、仲間達に婚約を発表するための集会だろうと彭蒙は思っていた。集まった人々は麗玉と彭蒙と魯雲と雪蘭と春華に加えて陸正もいるが、陸正は後輩の婚約発表のための集会に参加するという意図に加えて、実利的な意図も持って参加を決意したという事情もあった。春華個人のみならず豪商である厳家の協力のおかげもあって南魏の危機が取り除かれたので、豪商である厳家の情報網とはどんなものなのかを探り、そこから得られる知見を南魏のために役立てたいと思っていたのだ。

だが、麗玉の表情は婚約発表にしては浮かないものだった。全員が卓を囲んで座席に着いたところで、麗玉はいかにも悩んでいる顔つきで深刻に話し始めた。

「お集りの皆さま、本日は私からの発表のためにお集まりくださり、誠にありがとうございます。また、場所を提供してくださった厳春華どのには、特に感謝申し上げます」

 麗玉は春華に向かって頭を下げ、対する春華も麗玉に向かって頭を下げた。

「実は、私は本来この場で公徳さん…彭蒙どのとの婚約をお伝えする予定でございました。しかしこれからお伝えすることは、一部の人々の評判にかかわりますので、どうかご内密にお願いいたします。ご内密にしていただけない方には、申し訳ありませんがこの場をお立ち去り下さいます様、お願い申し上げます」

 全体に向かって深々と頭を下げる麗玉。一同が「何について話すのだろう?」と不安になったが、席を立つ者は一人もいなかった。そこで麗玉は

「では、皆さまここでの話はご内密にしていただけるものと理解いたします。そのうえで申し上げるのですが、私は先日彭蒙どのと結んだ婚約を解消しようと思っております」

「えッ!?」

 青ざめる彭蒙。しかも他の全員も顔を見合わせて、全員が「一体何事だ?」と言わんばかりの表情をしている。麗玉は説明を進めた。

「皆さまが驚かれるのも無理はありません。実はこれは私にとっても不本意な事なのです。しかし、彭蒙どのの過去の行いを知ったからには、結婚はしない方が良いと思う様になりました」

「過去の行い…って具体的には何なの?」

 魯雲が無邪気に尋ねたが、察しの良い春華は瞬時に麗玉の意図に気づいた。

 春華以外の全員が何事かと思いながら麗玉の次の発言を待っていると、麗玉は胸元にしまっておいた手紙を取り出した。

 その手紙を見た彭蒙と魯雲、そして雪蘭はようやく気付いた。事情を知らない陸正と阿瑠奈は怪訝そうな顔をしている。麗玉は説明を続けた。

「これは私が偶然見つけた手紙です。魯雲どの、あなたが彭蒙どのに宛てた手紙です。魯雲どのと彭蒙どのには身に覚えがありますよね?」

 魯雲はうなずき、そして彭蒙は神妙に…というか何かを恐れた様にうなずいた。

そして二人とも、しばらく前から麗玉が彭蒙との結婚をためらっていたことを思い出した。要するに麗玉は、彭蒙の過去の不貞を根拠に彼との結婚を躊躇していたのだ。麗玉の逡巡の理由を、彼らはようやく理解した。

だが事情を知らない阿瑠奈は尋ねた。

「麗玉どの、教えていただきたい。一体その手紙にはどんなことが書いているのだ?」

「阿瑠奈どの、この手紙には、彭蒙どのがそちらの雪蘭どのと不貞行為をしたことについて、当時から雪蘭どのと付き合っていた魯雲どのが不貞行為をされたにもかかわらず、雪蘭どのも彭蒙どのも許す、との発言がございます」

「……」

 あまりに意外な内容だったので阿瑠奈はしばし言葉を失った。だが、しばしの間の後に気を取り直して尋ねた。

「麗玉どの、それは本当に魯雲どのが書いた手紙なのか?偽書の可能性は無いのか?」

「その可能性も考えましたが、彭蒙どのが持っていた手紙ですし、思い出してみれば彭蒙どのは以前魯雲どのに謝らなければならないことがある、とおっしゃっていました。ですので、おそらく魯雲どのからの手紙でしょう。そうですよね?魯雲どの」

 麗玉は不貞の被害者である魯雲に対して責め立てるつもりはないが、事実関係をどうしても知りたい、と言わんばかりの真剣な表情で問い詰めた。

それに対して魯雲は

「うん。そうだよ。僕は確かにそういう内容の手紙を公徳に送ったよ」

 と素直に認めた。麗玉は残念そうな顔をしながら言った。

「やはりそうでしたか。偽書であって欲しいと思ったのですが、公徳さ…彭蒙どのが持っていたこと、およびそんなウソをついても誰も得をしないだろうとの判断から、おそらく実際に魯雲どのが書いた手紙だろうと思ったのですが、やはり魯雲どのからの手紙でしたか……」

 深刻な表情をする麗玉。しかしそこで陸正が疑問を投げかけた。

「麗玉どの、彭蒙どのはその時点で麗玉どのと交際していたのですか?」

「いいえ、彭蒙どのが魯雲どのに謝らねばならないと言っていた時点は、私と彭蒙殿が付き合うより前の時点です。だから私との交際の問題ではありません。しかし不義であることに違いはありません」

「う~ん、とは言え魯雲どのはその不義を知っても彭蒙殿や雪蘭殿を許したのですよね?ならばその不義を麗玉どのが深刻にとらえる必要はありませんよね?」

 陸正は再度疑問を投げかけた。だが麗玉は感情的に答えた。

「しかし陸正どの、私はなるべく品行方正に生きたいのです!その私が、魯雲の恋人であった雪蘭さんと不貞行為に及んだ彭蒙さんと夫婦になるのは筋が通らないではありませんか?」

「……」

 陸正は黙り込んでしまった。彼の考えでは、それはあくまでも魯雲と彭蒙と雪蘭の問題であって麗玉とは関係ないことではないという気がしたが、その解釈を伝えても麗玉が納得するとは思えない。陸正は「どうすれば良いのだろう」と考え込んでしまった。そこで彭蒙が口を開いた。

「麗玉、たしかにその不義についてはオレが悪かった。だからお前が義憤にかられるのは無理もない。しかしお前に被害を与えたわけじゃないんだから、オレとの婚約は解消しないでくれないか?」

 彭蒙の切実な願いに、麗玉は渋い表情をした。その直後に魯雲がふとあることを思いついて尋ねてしまった。

「朱さん、ひょっとして朱さんは公徳…彭蒙と別れて、他の誰かと付き合うつもりなの?」

 魯雲の無邪気な口ぶりに、麗玉は思わず

「そうね、魯雲。アタシは公徳さんと別れて、アンタと付き合ってあげるわ……あれ?」

と答えてしまった。この答えにはその場にいた全員にとって意外過ぎたので、全員そろってヨロッと体を傾けた。しかしその直後、雪蘭が必死に訴えた。

「待ってください麗玉さん!仲明さんは私の夫ですよ!」

だが麗玉も負けてない。

「雪蘭さん、あなたは不貞行為の当事者でしょ?そのあなたに魯雲をつなぎ留めておく権利があるの?」

 そこで陸正が割って入った。

「いや、待ってくれ麗玉どの。魯雲どのは雪蘭どのと彭蒙どのの不貞行為を知ったうえで雪蘭どのも彭蒙どのも許し、雪蘭どのとの夫婦関係を継続しているのだから、魯雲どのは雪蘭どのの不貞行為を知ったうえでも雪蘭どのと夫婦でありたい、と思っているのではないか?」

 そこで魯雲がさらに言葉を続けた。

「そう。陸正どののおっしゃる通り。朱さんはとても優秀で美人で素敵な女性だとは思うし、僕の命も助けてくれたから感謝はしてるけど、朱さんに対する恋心は僕には無いよ」

 さらに彭蒙が割って入った。

「なあ、麗玉。そもそもお前自身が魯雲をどう思っているんだ?お前自身も魯雲に対して恋心は無いんじゃないのか?」

 彭蒙にそう言われた麗玉は、しばし宙を眺めてから言った。

「そう言えばそうね……じゃあ何故アタシはさっき魯雲と付き合うだなんて言ったのかな?」

 自らが何故そんな突飛なことを言ったのかがまるで理解できない麗玉を見て、魯雲と彭蒙は

(恋心をいだいてもいない相手に対して、何故そんなことを言ったのだろう?)

 といぶかり、魯雲はさらに言葉をつなげた。

「朱さん、思い出してみてよ。朱さんの僕に対する態度は、何ら恋心の無い人の態度だったじゃない。朱さんが僕に恋心をいだいたことが無いのは、朱さんの言動を振り返れば明らかでしょ?」

 魯雲のこの発言に麗玉と彭蒙と阿瑠奈は疑問をいだかなかったが、陸正と雪蘭そして春華は

(いや、あなたに対する麗玉さんのからかいは無意識の恋心の現れなんだってば!)

 と内心では魯雲の鈍感さを責め立てた。だが、もし実際にそんな発言をすれば確実に事態が悪化するだろうから三人とも黙っていた。だが麗玉が

「う~ん。たしかにアタシは魯雲を政治家としても軍師としても尊敬しているし、その理想論や優しさは好きだけど、恋心をいだいたことは無いわね。…だったら何故アタシはさっき『付き合ってあげるわ』なんて言ったんだろう?」

 という言葉を発するに至って雪蘭は激しく焦った。

(それは不貞を知る前は大好きだった彭蒙さんに今は幻滅しているから、仲明さんに対する昔の恋心が思い出されたからでしょう…でも、そんな事を思い出して、「よく考えたらアタシは魯雲が好きだわ」とでも言い出したら大変だわ!)

 陸正の気持もそこまでは雪蘭と同じだった。しかし今まで郭俊の愛弟子として様々な難局を乗り越えてきた有能な文官としての誇りから

(まずい!麗玉どのは彭蒙どのに幻滅して昔の自らの魯雲どのに対する恋心に気づいてしまうかもしれない!何とかしてそれを止めねば!…しかしどうすれば良いのだ?)

 と懸念しながら策をめぐらせていたが、どうにも良い策が思いつかず焦りを募らせた。だが、そこで春華が口を開いた。

「それは麗玉どのが律儀で優しいお方だから、不貞行為をした雪蘭よりもアタシが仲明く…魯雲を支えてあげなきゃならない、と同情したのでしょう。しかしそれはあくまでも同情であって恋心ではありませんよ」

 春華のこの発言に対して麗玉が

「あ、そうか……」

 と呆けた様に言ったので、雪蘭と陸正はホッと胸をなでおろした。春華は続けた。

「つまり麗玉さんご自身が麗玉さんの魯雲さんに対するお気持ちに関してご理解いただけた、というわけですね?ならば仲明く…魯雲さんに対する麗玉さんの気持ちは麗玉さんご自身が勘違いにお気づきになったということですから、その点はもう論じる必要は無いでしょう。あとは公徳く…彭蒙さんについてですが、私からお見せしたいものがあるので、皆さま少しお待ちくださいませ」

そう言った春華は席を立って部屋を出た。そして次に何が起きるかと全員がかたずをのんでいたところ、戻ってきた春華が

「お待たせしました。こちらをご覧ください」

 と言いながら一通の手紙を持ってきた。春華の意図が分からない麗玉はキョトンとしながら尋ねた。

「この手紙が……どうかしたのですか?」

だが春華は落ち着きながら答えた。

「麗玉さん、この手紙はですね、彭蒙さんが魯雲さんに宛てた手紙なんですよ。今から朗読しますね」

春華が朗読した彭蒙の手紙。そこには「オレの事は許してくれなくて良いが雪蘭は許してあげて欲しい」という、彭蒙から魯雲に対するお願いが書いてあった。朗読を終えた春華は言った。

「麗玉さん。彭蒙さんは確かに不貞行為をしました。ですが、その事を魯雲さんに謝罪するのみならず、自身は許されなくても良いから雪蘭さんは許してあげて欲しい、という雪蘭さんに対する気遣いをしたのです。もちろん不貞行為は良くない事ですが、謝罪に加えてこの様に自身よりも雪蘭さんへの許しを求めたのが彭蒙さんです。そうした良い面もある彭蒙さんとの婚約を、彭蒙さんが不貞行為を一度したからというだけの理由で解消することが、義理を通したことになるとは私には思えません」

 春華によるこの言い分に、麗玉はしばらく黙ってしまったが、やがて口を開いた。

「たしかにそうですね春華さん。彭蒙さんの良い面を教えてくださり、ありがとうございます。やはり婚約は解消しない事にします。皆さま、お騒がせして申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる麗玉。その様子を見た彭蒙は嬉しそうに言った。

「麗玉、オレが悪かったのに、そんな風に認めてくれてうれしいよ。これでオレとオマエは夫婦になれるんだよな?」

 彭蒙の嬉しそうな表情をしながらの発言に麗玉は少し戸惑いながら言った。

「そうね。公徳さんがそんなに他人を心配する性格なら、アタシがキチンと公徳さんを監視しないと、公徳さんがとんでもない頼みごとをされて困ったことになるかもしれないから、アタシが生涯寄り添ってあげるよ」

「ありがとう!ありがとう麗玉!」

 彭蒙は感激のあまり泣きそうになっていた。

「ちょっと公徳さん!感謝してくれるのは嬉しいけど、何も泣くことないでしょ!」

麗玉は戸惑った様な表情を隠せないまま、それでも少しうれしそうに言った。魯雲と雪蘭とそんな二人を見て単にホッとしただけだったが、春華は

(まったく世話が焼ける二人だわ。でも、やっぱり私の読みが一番深いわね)

 と思いながら一人ほくそ笑んだ。

しかし陸正の心境はさらに複雑で

(まさか春華どのはあの手紙を、こんなこともあろうかと思って保存しておいたのか?……いや、さすがにそれはあるまい。しかし「この場合はあの手紙を利用すれば丸くおさめられる」と咄嗟(とっさ)に判断して、保存しておいた手紙を当意即妙に利用する判断力は素晴らしい。是非とも南魏のために今後も更に働いて欲しいものだ)

 と、最終的には南魏の要職に対する春華の推挙を考えるに至った。

阿瑠奈は

(なんだかよく分からない連中だな。……それにこの純朴そうな美女が不貞をしたとは意外な話だ。私は絶対に劉明さま一筋だぞ!……だが、何はともあれこの者たちの不思議なつながり方が南魏の度量の深さと関係しているのかもしれない。我々匈奴はこの者たちから学ぶべきことがあるような気がする)

 と、この場の不思議な会話の流れをなるべく自分なりに理解しようとした。

だが堅苦しい雰囲気はそこまでで、その後は厳家が提供したお茶とお菓子を全員が楽しみ、和やかな雰囲気が場を包んだ。そこで春華が一つ、あることを思い出した。

「あ、そうだわ麗玉さん。貴女にもう一つお見せしたいものがあるのよ。少し待ってて」

春華はそう言うと再度部屋を出て、小走りで何かを取りに行ったようだ。数分後に戻って来た春華が手に持っているものを見て麗玉は感動した。

「あら、春華さん。それってあの時の鳥ですよね!」

春華が持ってきたもの、それはかつて麗玉が風切羽を射抜いて落ちてきたところを魯雲が捕まえた鳥だった。その後は春華が邸宅で世話をしてくれていたのだろう。

「そうです麗玉さん。そして最近はもう飛べるようになったんですが、せっかく麗玉さんが我が家にいらっしゃると聞いて、せっかくだから麗玉さんにもこの鳥が飛べるようになったことを見せて差し上げようと思ったんです」

空を飛ぶ雁を射落とした『三国志』の関興の故事にちなんだ芸を見せて欲しいと延漢の若き策士に言われた麗玉が鳥の風切羽を射抜いて飛べなくして、その鳥を魯雲が連れてきたことはその場の全員が知っていた。そこでせっかくだから麗玉にその鳥を逃がさせてあげようという春華の提案に全員が同意し、晴れた昼下がりの空の下、全員が屋敷を出て厳家の中庭に集まった。

「ほら、お前はもう自由だよ。好きなところに飛んで行きなさい」

麗玉がそう言って鳥かごを開けると、その鳥は春華の方を向き、まるでお辞儀をするかのようにぺこりと頭を下げた。今まで世話をしてくれたお礼をしたかったかのようなその行動に、春華は思わず微笑んだ。そしてその直後、

パタパタパタッ――

鳥が翼を羽ばたかせ、鳥が空高く飛んで行った。

その姿を見た阿瑠奈は思った。

(そうか。無闇に命を奪わず、生かすことが、この者たちの根本的な理(ことわり)なのか。戦場で私や私の部下を生け捕りにし、廉淵どのの誤解によって殺されることがないように配慮してくれた魯雲どの。そして今、傷ついた鳥を再び空へと放つ麗玉どの。人を生かすことも鳥を自由にすることも、この者たちにとっては同じ慈しみから生まれる行ないなのだな……南魏の強さとは、敵を倒す力だけではない。命を奪わずに済む道を探す、その懐の深さにあるのだな……私にはようやくそのことが分かった気がするよ……)

大空へ羽ばたく鳥の姿を見上げながら、阿瑠奈は南魏の強さの神髄を静かに悟るのだった。

春の午後のおだやかな陽光の下、元気に飛んで行く鳥の姿に、魯雲たちは希望に満ちた未来を予感した。




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