【外交の試練】
第九章
後日、延漢は劉一族の帰還に湧きかえるとともに、匈奴のみならず靺鞨にも使者を送り、外交上の一大行事の準備に取り掛かった。
劉備の血筋を重んじる匈奴は、延漢で庇護している劉明が劉備の子孫であると知ると、驚くとともに「是非とも延漢と和睦して、劉明と親密な関係になりたい」と思い、朱那郁単于は延漢との和睦に対して即座に乗り気になった。それはまさに延漢王李荘が望んでいたことであった。
他方、靺鞨もまた今回の会合を重視しており、靺鞨の長である可汗の大安石自らが赴いたのみならず、外交の最高責任者である舒玲瓏も同席した。いわば国家元首と外交の総責任者がともに出席した形である。今回の会合に対する靺鞨の思い入れの強さがうかがえる対応だった。
儀式の当日、延漢からは劉明本人以外には延漢王李荘や丞相司馬徴、そして荀慶や蔡単といった軍師が列席し、匈奴からは朱那郁単于はもとより、左賢王と右賢王およびその世子たち、そして骨都侯すなわち匈奴の軍事の最高責任者である須卜達のみならずその須卜達の娘である阿瑠奈、さらには阿瑠奈の補佐のために伽羅も参加していた。
儀式は、蜀漢の式服のみならず、蜀漢の劉玄徳にも比肩する風格までも身につけた劉明が、伝統的な器楽の調べに後押しされるように翠安城の広間、すなわち延漢と匈奴と靺鞨の要人たちが集まっている集会の場に現れるところから始まった。
劉明は延漢王李荘と朱那郁単于、そして大安石の各々に深々と頭を下げ、李荘が用意した金杯を受け取りに李荘のもとに歩み寄った。だが、あくまでも劉明は朱那郁単于の弟分という役割を担う人物である。李荘ではなく丞相の司馬徴の手から、極上の酒を注がれた金杯を渡され、これから劉明の兄という立場になる朱那郁単于のもとに近づき、再度頭を下げた。
そして北面と南面の礼に従い、兄となる朱那郁単于が南を向き、弟となる劉明が北を向いた状態で、劉明が金杯を差し出すと、朱那郁単于は持っていた小刀で自らの小指を少し傷つけてその小指から滴る血を一滴、金杯の中の美酒に垂らした。そして自らは金杯を受け取り、小刀を劉明に渡すと、劉明もその小刀を使って自らの小指を少し傷つけて、流れ出た血を一滴、朱那郁単于が持つ金杯の酒の中に垂らした。
そして朱那郁単于が金杯を軽く数回揺らして美酒と血を混ぜ、その混じった液体を一口飲み、残りを劉明に差し出した。
劉明は小刀を朱那郁単于に返すと、朱那郁単于に倣って血の混じった美酒を一口飲んだ。そして残りの酒が入った金杯を司馬徴に恭しく返上した。
これは漢王室の義兄弟の契りの儀式、つまり歃血の盟と呼ばれる儀式である。こうしてお互いの血が少し混じった極上の酒を飲みあうことで、血がつながっていない者たちが義兄弟になる、というのが漢王室のしきたりであった。
劉明が
「天に誓う。我が一族の血が、延漢と匈奴の永久の盾たらんことを」
と言い、次に朱那郁単于が
「天公に誓う。これより我が匈奴は、義弟劉明の暮らす延漢の地を侵さず、固き盟約を結ばん」
と応じた。そこで李荘が口を開いた。
「朱那郁単于どの、そして劉明どの、貴公らは今こうして我が延漢および匈奴そして靺鞨の要人たちの眼前で、昭烈帝劉備が建国した蜀漢のみならず漢代の儀礼にも適った歃血の盟を結んだ。この盟約により貴公らは正式に義兄弟の契りを結び、我が延漢と匈奴の結束は延漢建国以来最も強くなった。これはかの元帝の御代における陳湯や王昭君の事績に匹敵すると余は思う。さらに劉明どのには余から提案がある。時には兄の朱那郁単于のもとに行き、匈奴と我が延漢の架け橋であり続けるとともに、是非とも我が延漢の光禄大夫となって、余の良き相談相手になってもらいたい」
李荘の言葉に劉明は膝をついて頭を下げた。そして澄み切った声で
「李荘陛下、身に余る光栄でございます。是非とも延漢と匈奴の架け橋として、そして延漢の光禄大夫として、最善を尽くさせていただきます」
と述べた。
その様子を見た李荘や朱那郁単于、そして他の列席者たちのほとんどはその意味を理解して感激しながらうなずいた。しかし阿瑠奈は意味が分からなかったのか少し困惑した様な表情をしていた。そして阿瑠奈は体の不具合を訴え、儀式が終わるまでは持ちこたえたが、儀式が終わった直後いち早く退場し、伽羅に付き添われながら典医に会うことになった。幸い深刻な症状は無く、多くの要人たちが列席する場に居合わせたことによる緊張感からの精神的疲労であろうと典医は判断した。
他方、この儀式の際に、蔡単と荀慶そして舒玲瓏は各々独自の見解をいだいていた。
蔡単は思った。
(よし、これで李荘陛下の大御心により劉明どのと朱那郁単于どのが義兄弟の契りを交し、しかも実権の無い光禄大夫という名誉職を李荘陛下の提案によって劉明どのに与えたことになる。これが南魏の発案だとしても誰もその事に気づくまい。この儀式によって間違いなく延漢の国際的な評価は上がるな)
満足そうな表情の蔡単とは対照的に、荀慶は不満そうだった。それは義兄弟という申し出を述べた際と、光禄大夫という提案を述べた際に、礼瓏の口元がわずかに笑みを浮かべたからである。荀慶は思った。
(玲瓏の今の微笑が気になる。玲瓏め、間違いなく気づいたな、この光禄大夫という案が南魏の提案であることに。……いや、それどころか劉明と朱那郁単于が義兄弟の契りを結ぶことが李荘陛下の発案では無いことまでも気づいたのであろう。だからこそ二度も不敵に微笑んだのだ)
そしてこの荀慶の読みは当たっていた。玲瓏は思った。
(間違いない。劉明を光禄大夫にするというは延漢ではなく南魏の策だ。劉明が実権のある役職に就けば延漢内部はもとより周囲の国々からも危険視されてしまうから、あえて単なる名誉職の光禄大夫に奉じ、劉明に政治権力を与えないことをこの外交の場で明言したのだ。しかも義兄弟の契りも延漢王李荘の発案ではあるまい。おそらく南魏…いや、そもそも劉明自身の意向であろう。延漢王李荘は南魏王周越に勝るとも劣らぬ仁君と聞くが、この案を李荘自身が思いついたはずはない。こうした裏があることはあくまでも私の推論と断ったうえで、後ほど大安石さまにお伝えしておこう)
こうした様々な思惑、そして阿瑠奈の体調不良という問題はあったが、儀式自体は滞りなく進み、延漢と匈奴そして靺鞨は各々の役割を果たした。更に李荘から別の提案もあった。義兄弟の契りの儀式が終わった後、李荘は玲瓏と大安石に向かって言った。
「靺鞨の名君大安石どのと、英明なる外交責任者の舒玲瓏どの。貴殿らにも提案がある。この場はせっかくの目出度い席だ。ここで朱那郁単于どのが治める匈奴と貴殿ら靺鞨の間で相互不可侵条約を結んでいただきたい。もちろん正式な文章の署名と交換はこの場でなくても構わない。ただ、互いの言葉で相互不可侵の約束を明言していただけないだろうか」
李荘のこの言葉に、朱那郁単于も大安石も、さらには常に冷静な玲瓏も若干戸惑ったが、劉明が口を開いた。
「さすがは名君。実に深い大御心でございます。私からもお願い申し上げます。是非とも相互不可侵をお約束くださいませ」
劉明はそう言った後、大安石に頭を下げ、そして義兄にあたる朱那郁単于にも頭を下げた。大安石にも朱那郁単于にも断る理由は無く、後日正式な文書を交わすことを含め、相互不可侵の約束をした。
その儀式の後、大安石は玲瓏を誘って朱那郁単于のもとに行こうとしたが、玲瓏は
「単于たち匈奴の方から歩み寄って来るだろう。しばし待たれよ」
と耳打ちした。そして玲瓏の読み通り朱那郁単于と左賢王と右賢王そして須卜達が大安石と玲瓏のもとにやって来たので、匈奴と靺鞨の要人たちは不可侵条約の調印の日取りの相談をした。単于の義弟にあたる劉明からの頼みであり、しかもその義弟は蜀漢の劉備の末裔であるからこそ義兄弟の契りを交したのだ。故に朱那郁単于にとっては劉明の頼みは断りたくない。そこで単于すなわち匈奴の側から靺鞨に不可侵条約の締結を呼びかけるだろうと玲瓏は読んでいた。事態は玲瓏の読み通りになったので大安石は玲瓏の慧眼に感服したが、内心では少し不安だった。
何しろ延漢の要人である劉明と匈奴の単于が義兄弟になった以上、両国の結託は強固であり、その両国が協力して靺鞨を攻めれば靺鞨の命運は尽きるかもしれないからだ。もっとも、仮に青燕が魯真のかつての期待通り延漢を攻めれば、靺鞨は青燕と連携しつつ匈奴とだけ戦えば良いので、必ずしも靺鞨が匈奴に滅ぼされるとは限らない。しかし現時点では劉明が延漢に渡された以上、青燕が延漢と結んで靺鞨を討つ可能性があるので、匈奴と靺鞨の不可侵条約締結は匈奴よりも靺鞨にとってこそ僥倖だったのだ。その不可侵条約の正式な書面の調印の日程を、靺鞨ではなく匈奴から提案しに来るという玲瓏の読みは結果的に正しく、それゆえあたかも靺鞨以上に匈奴こそ不可侵条約の締結を望んでいるかのような体裁になったが、玲瓏の読みが間違っていたら靺鞨は遅ればせながら調印の日程を匈奴に提案することになり、気まずい状態になるところであった。
匈奴と靺鞨がこうした細かい腹の探り合いをしている頃、儀式を終えた後の荀慶と蔡単は、儀式が執り行われた広間を離れたところで、羽扇で自らを扇ぎながら語り合った。
蔡単は言った。
「荀慶どの、いろいろ紆余曲折はありましたが、最終的には我が延漢の威光を世に示しましたな。これで劉明どのが光禄大夫になったのも単于の義弟になったのも、李荘陛下の思し召しということになった。匈奴や靺鞨のみならず、やがてこの事は青燕や南魏さらには契丹にも知られるであろう」
だが、同じく羽扇をもって自らを扇ぎながらも、荀慶は蔡単の意見に同意しなかった。
「蔡単どの、貴殿は確かに内政では私より有能だ。それゆえ貴殿をこの翠安城に配し、朝議の際の相談役となさった陛下のご判断は至極もっともだ。しかし外交に関しては貴殿よりも私の方が上だと言わざるを得ない。貴殿の今の言葉がそのことを証明している」
蔡単には荀慶の言う意味が分からなかった。
「荀慶どの、それは一体どういう意味でしょうか?」
素朴な疑問を投げかけた蔡単に、荀慶は優雅な、しかし悔しさを隠し切れない表情で答えた。
「あの女ですよ、靺鞨の舒玲瓏。奴は義兄弟という申し出を述べた際と、光禄大夫という提案を述べた際に、口元にわずかな笑みを浮かべた。あの女は間違いなく義兄弟という申し出を述べたことも光禄大夫という提案も南魏の策であると気づいたに違いない」
平静を装いながらも苦々しさを隠し切れない荀慶の表情と口ぶりに、蔡単も玲瓏の読みの深さに気づいた。そして荀慶と同じく、いやそれ以上に悔しそうな表情をして言った。
「荀慶どの、それでは玲瓏は彼女の見解を大安石どのにも伝えるのではないでしょうか?」
「おそらくそうであろう。まあ、確証はない状態で言うのだから厳密には『憶測に過ぎない』と言わざるを得ないのだが、外交に関する玲瓏の見識の高さは大安石も認めているだろう。だからたとえ確証が無くても『おそらく南魏の差し金だろう』と大安石も思うだろうな。しかもその憶測を大安石が口外すれば、匈奴や青燕にも南魏のおかげで延漢と匈奴が友好な関係になれたと気づく者が出てくるであろう」
そこまで聞いた蔡単は、今までの人生で最も悔しそうな表情としか言いようがない、悔しさの塊のような表情になった。
「荀慶どの、それではいくら確証が無くても延漢に対する南魏の優位は勘が鋭い者たちにとっては明らかではありませんか!そんな汚名は何としても返上したいです!たとえ南魏と戦をしてでも!」
あまりの悔しさで思わず飛び出した、普段は冷静な蔡単らしくない極論に、荀慶は微笑みながら答えた。
「蔡単どの、貴殿の気持ちは分かります。しかし実際に南魏に助けられ、感謝状までお書きになった李荘陛下が南魏との戦を支持なさるはずなどありません。それよりも外交です。外交の場で南魏に恥をかかせれば良いのです」
「はあ…外交……でございますか?」
荀慶の策略がどのようなものなのか予想だに出来ない蔡単だったが、荀慶が羽扇で口元を隠しながらも目だけでわかるほどに明らかな笑みを浮かべながら
「そうです。外交です。まあ、この私にお任せくだされ。外交官たちに私の言うとおりの言動をさせれば、必ずや南魏を外交の場でおとしめることでしょう」
と言ったことに安心して、荀慶に続けて言った。
「左様ですか。外交に関して何か具体的な話し方の案が荀慶どのにはおありなのですな?私は内政はともかく外交については荀慶どのに遠く及びませんので、具体的な策を思いついたのでしたら荀慶どのにお任せいたします。南魏の郭俊や韋脩や法純といった名だたる軍師たちも、外交に関しては荀慶どのには及ばないでしょうからな」
蔡単はそう言いながら、荀慶と同じく羽扇で口元を隠しても目を見れば明らかなほどに明確な笑みを浮かべていた。そしてこの蔡単と荀慶の考えが、当時の中原の三カ国すなわち南魏と延漢と青燕の関係に影響することとなるのだった――
第十章
匈奴の単于と劉明が義兄弟の契りを結ぶのみならず、延漢王李荘がその契りの場で匈奴と靺鞨の間の不可侵条約まで結ばせたことに青燕の重臣たちは焦った。青燕としては先ず南魏との対立は控えて孤立を防ぐととともに、靺鞨や匈奴や延漢からの攻撃を牽制すべきとの意見が重臣の多数派になった。青燕王の宋謙の御前で行われる廷議の中で、かつて南魏の法純が率いる猛将たちとの戦に敗れたとは言え、かつて法純およびその麾下の猛者たちを相手に善戦した軍師の龐植から届いた手紙を丞相の公孫瑞が読み上げた。そこには、延漢と匈奴は劉明と朱那郁単于との義兄弟の契りがあって打ち砕きがたい結束がある。また延漢は一時的にとは言え我ら青燕が先制攻撃をしようとした国である。それに対して靺鞨は匈奴や延漢と不可侵条約を結んだとは言え劉氏と単于の義兄弟の契りにより補強された匈奴と延漢の結びつきに比べれば結束が弱いと思われる。それゆえ靺鞨の外交の責任者を青燕内で歓待する宴を開いて、靺鞨との結びつきを強めるべきだと思う。私としては軍を預かる軍師という立場上、南魏と和睦すべきとは明言しづらいが、必要とあらば陛下の書状を持って南魏と和睦を結び、今回強く結託した匈奴と延漢という二つの勢力に対して南魏と靺鞨の双方から支持を得て対抗すべきと考える」との考えが述べられていた。
この意見に宋謙は納得した。丞相の公孫瑞も納得し、多くの重臣も納得した。だが、納得はしていても、それだけでは駄目だと考える者がいた。外交の最高責任者である袁定という男である。袁定は述べた。南魏と争わない様にすることは良い。匈奴より靺鞨を重視するのも良い。だが、靺鞨を匈奴より重視するという事を明確にするには、あえて匈奴も靺鞨とともに宴席に呼び、その両者に同じ料理を出しながら靺鞨の方を重視するという意志を明確に示すべきだ、と。
袁定によるこの意見は宋謙にも公孫瑞にも称賛され、匈奴と靺鞨の外交の代表を交えた会食の詳細は袁定の采配に一任され、袁定も会食に出席することになった。そして会食の当日がやって来た。
靺鞨は外交の最高責任者であり、匈奴と延漢と靺鞨という三カ国の不可侵条約の締結の場に参加した舒玲瓏を会食に参加させた。匈奴からは将来単于になる左賢王の世子ではなく右賢王の世子である攣鞮呼那という男性が出席した。会食は最初に青燕つまり中原の東部で栽培されている柑橘類などの果物が出された。その段階では匈奴側の呼那も靺鞨側の玲瓏も対等なあつかいであり、違和感をいだく者はいなかった。
だが、次に出された鴨料理では、呼那も玲瓏も驚きを隠せなかった。越州窯の古越磁という磁器の食器に焼かれて一口大に切られた鴨が乗せられているのに対して、呼那には非常に質素な器で料理が提供されたのだ。まるで翡翠の様な淡い緑で透明感のある古越磁の食器と飾りが一切無くて素焼きの様に地味な食器では、明らかに見栄えが違う。靺鞨と匈奴で明らかに態度を変えているのは誰の目にも明らかだった。
一気に緊迫する会食の場。そこで袁定は言った。
「質実剛健な匈奴の世子さまにおかれましては、華美な装飾はお気に召さないと思い、飾りっ気のない器を選ばせていただきました。お気に召さないでしょうか?」
この発言を聞いた玲瓏は瞬時に
(これは明らかに、我が靺鞨より匈奴を下に見ているという意志の表明だ。さて右賢王の世子よ、この場をどう切り抜ける?)
と興味深く感じながらほくそ笑んだ。
それに対して呼那は、袁定の意向に気づいたのか否か、ニンマリと笑いながら
「いやあ、かたじけない。何しろせっかくの美味い料理も、華美な器に乗せられてはウッカリその器を落として割ってしまわないかと心配で、落ち着いて味わうことが出来ないのだ!だがこんな頑丈そうな器なら心配ない!遠慮なく馳走になる!」
と言いながら、一口大に切られている鴨肉を、添えられた竹串で刺して食べ始めた。袁定やその同調者は、ここで呼那が怒って文句を言うのではないかと思っていたが当てが外れた。玲瓏は呼那の対応に
(この男は天衣無縫なのか?まさか本当に青燕が匈奴に配慮して別の器を用意したと思ったのか?…いや、ひょっとしたら青燕が匈奴を靺鞨より下に見ている事を見抜いて、あえて皮肉で切り返したのかもしれない……)
と思いながら、与えられた一口大の鴨料理を竹串で優雅に食べた。
鴨料理を食べ終えると食器が片付けられ、次には鱸の膾が運ばれてきた。呼那用の食器も玲瓏用の食器も何ら違いは無く、もちろん料理にも違いは無い。だが、いざ食べ始めようとした時、呼那も玲瓏も青燕の――と言うより袁定とその同調者の策略に気づいた。出された料理は鱸を切ったものであり、しかも美しい箸が添えられていたのだ。おそらく象牙もしくは犀角であろう高級感のあるその箸は、中原の人々はもとより中原の人々と同じく箸の扱いになれている玲瓏にとっては悠々と食事できる便利な存在だが、箸の扱いが苦手な呼那には不便極まりない代物だ。ただでさえ箸を上手に使えないうえに象牙あるいは犀角で出来た滑りやすい箸で、生の鱸という柔らかくて滑らかな食べ物をどうつまんで食べるのかと誰もが固唾をのんで呼那の対応を待った。
すると呼那は、醤と呼ばれるタレと薬味を乗せた小皿を膾の上で反転した。膾の上に醤と薬味が浴びせられ、ビシャッという音がした。そして腰に挿していた小刀を抜くと、その刃の側面で膾の上を撫でる様にしてしょうゆや薬味を膾に馴染ませ、それからその小刀をしゃもじのようにして膾を掬い上げ、豪快にむしゃむしゃと食べ始めた。
「いやあ、美味い美味い!せっかくこんなにうまい料理なんだから、やはり食いやすい道具で食わないと味が分からなくなってしまう。我ら匈奴にはこのような食べ方の方がせっかくの美味い料理を味わいやすい!我々にとっての刃は中原の人々にとっての箸と同じぐらい身近な存在だからなあ」
青燕の出席者の中には食事の席で腰の小刀を抜くとは無礼な奴だ、と内心では思った者もいたが、料理の味は褒めているので批判は出来なかった。それゆえ袁定は
「さ…左様ですか……さすがは匈奴の右賢王さまの世子ですな。大変豪胆でいらっしゃる……」
と言いながら、ひきつった笑いを浮かべるしかなかった。
他方、玲瓏は笑みを浮かべながら呼那の意図を正確に読み取った。
(フッ、面白い。私にとっては使いやすい道具であるがこの呼那という男にとっては使いづらい箸を出して食べづらくしたのに、それをものともしないで言い返したか。それに「匈奴にとっての刃は中原にとっての箸と同じぐらい身近な存在」というのは「我々匈奴はいつでも刃を持って中原を脅かせる存在だ」という意味にも解釈できる。だが、身が柔らかくて滑らかな鱸に滑りやすい材質の箸を添えて提供した手前、そうした深読みを口にするのははばかられるだろう。やはりこの呼那は無邪気なのではない。知恵の回る男だ。匈奴の右賢王の世子がこのような油断ならない人物であるなら、我ら靺鞨は用心せねばなるまい)
そうした緊迫感のある会食だったが、次に出された鼈と鶏肉を入れた、羹と呼ばれる薬膳スープは特に軋轢を生むことは無かった。
そして会食の最後、卓上に運ばれてきたのは中原の甘い菓子、粽であった。
運ばれてきた粽を見た玲瓏は、瞬時に
(やはりね……)
と、心の中でつぶやいた。
玲瓏の前に置かれた粽は、い草の紐が穏やかに結ばれ、解きやすいように配慮されている。
対して呼那の前に出された粽は、これでもかと言わんばかりに無数のい草の紐が巻き付けられ、まるで複雑な結び目の塊のようになっていた。爪を立てて解こうとすれば、爪が割れるか、甘い餅の蜜で手がベタベタに汚れるかのどちらかであるのは目に見えている。
袁定は、ここぞとばかりに意地の悪い笑みを浮かべて語りかけた。
「おや、匈奴の不器用な世子さまには、中原の細結びは少々難しすぎましたかな?菓子を前にして手が汚れてしまっては不憫。なんなら我が配下の者に、その紐を解かせましょうか?」
中原の文化的な優越性を誇り、呼那を無力な子どものようにあつかおうとする袁定の挑発。
だが呼那は、野性味のある不敵な笑みをフッと浮かべると、腰に挿した小刀を再びスラリと引き抜いた。
「いやあ、手間にはおよばん!我ら大草原の男はな、縺れた結び目を目の前にして、ちまちまと爪を立てるような真似はせんのだ!」
言うが早いか、呼那は小刀を一閃させた。
閃光が走ると同時に、粽をがんじがらめに縛り付けていた強固ない草の紐が、一瞬で一刀両断に切り裂かれる。呼那はさらに小刀の刃先を器用に使い、笹の葉を綺麗に左右に引き裂いてみせた。
紐に締め付けられていた粽の、白く甘い餅が、一滴の蜜も手に触れさせることなく、皿の上にぽつんと姿を現す。
呼那は小刀の刃先でその粽を突き刺し、袁定を真っ向から睨みつけながら、不敵に言い放った。
「中原の連中は、国境にややこしい紐をいくつも結び付けたがる。だがなぁ袁定どの……どんなに複雑に縛り上げたつもりでも、我らの刃にかかれば、このように一瞬で切り裂かれ中身を美味しく喰われるだけだということを、忘れないでおいてほしいものだな!」
ドン、と呼那は小刀の柄を卓に置き、粽を豪快に口へ放り込んだ。
袁定は、そのセリフが「青燕がどれほど同盟や条約といった外交的な防壁を張り巡らせようとも、刃つまり匈奴の圧倒的な武力の前には一瞬で切り裂かれる」という強烈な軍事的一喝であることに気づき、顔面を蒼白にさせた。
玲瓏はそのあまりに見事な切り返しに、今度はほくそ笑むことすら忘れ、ただただ
(やはりこの男、恐ろしい知恵者だ……!)
と、匈奴の若き世子の底知れなさに戦慄するばかりであった。
その後、袁定はしばらく呼那の言動におびえていたが、玲瓏からはありがたい言葉をもらった。玲瓏は言った。
「袁定どの、今回の宴席で青燕が匈奴より我が靺鞨を重んじられた意図……しかと見届けました。我が靺鞨は匈奴とも不可侵の誓いを結んでおり、今すぐ青燕のために具体的に何が出来るかは未定と言わざるを得ませぬ。しかし、青燕が匈奴ではなく、我が靺鞨との縁を望んでおられるというその『まこと』は、必ずや我が可汗にお伝えいたしましょう。私が特使として約束できるのは、そこまででございます」
この言葉に袁定はホッと胸をなで下ろした。たしかにまだ油断は出来ない。靺鞨が匈奴と不可侵条約を結んでいる以上、靺鞨が青燕とともに匈奴と戦う連合軍を結成することは無いだろう。だが少なくとも青燕が匈奴より靺鞨を重視している事が靺鞨の国王に該当する可汗の大安石に伝われば、靺鞨が青燕に敵意をむき出しにすることだけはあるまい。そう考えれば、いくら匈奴の右賢王の世子からの威圧があったとは言え、今回の会食はまずまずの成果を挙げたと言えるだろう。
第十一章
こうして青燕は靺鞨との対立を回避できた。また、青燕で軍功第一の軍師である龐植は、なるべく南魏との戦いを避けるべきと青燕王宋謙に上奏した。龐植に次ぐ文白鐘という女性軍師は南魏との戦いを避けるべきと唱える慎重派の軍師であったので、龐植以上に南魏へ攻撃しないことを強く提案した。
だが、その白鐘と知略において互角と言われた軍師の蒋儒は、かつて南魏の法純と戦って互角であり、「いつかは法純を倒したい」と思っていた。蒋儒が法純と引き分けた後、龐植が南魏に対する具を統括し、法純をある程度追い詰めた。だが、南魏は複数の猛将を繰り出し、武力によって法純の窮地を救った。法純の知恵が特に劣るわけではなく、青燕で軍功一位の軍師たる龐植の知略が南魏の韋脩に匹敵する高度な水準だったことが、南魏が苦戦した原因だったと言えるだろう。ともあれ、そうした経緯があるので、法純だけでも百鐘や蒋儒と互角であり、もし韋脩や郭俊が加われば青燕の敗北の可能性は高くなる。ましてや今は、かつて青燕を南魏の領土から撤退させた武将のみならず、彭蒙や賈良や麗玉なども控えている。青燕にも猛将は居るが、南魏の人材の層の厚さにはかなわないのではないかと龐植や白鐘は懸念している。
(かつて南魏が青燕を撃退するのに時間を要したのは、ひとえに南魏の人材の多くを契丹との戦闘や延漢の対匈奴戦のための援軍派遣に割かねばならず、青燕対策に使える人材が限られていたからだろう。今や契丹も匈奴も南魏にとって脅威ではなくなった。かつてより人材を自由に使える南魏に青燕が攻め入るのは危険だ)
というのが龐植や白鐘の考えである。
とは言え、南魏に対抗したいと考える青燕の者たちが一定程度いるのも事実であり、たしかに青燕内部には南魏との戦闘を望まない人々もいるとはいえ、蒋儒など一部の者たちが南魏との国境に兵馬や兵糧を集めていくことになった。これは青燕王宋謙の意向ではなく、好戦的な一部の者たちが独断で進めた行為であった。
延漢の内情は陶玄や鄭基が探って拓跋一族や劉一族について正しい情報を得ることが出来たが、青燕については法純が間者を用いて情報を収集している。その間者が持ち寄った情報から、青燕が南魏との戦闘のための準備をしている事を察した法純は南魏の王都武漢に伝令を送って青燕の不穏な動きを伝えた。
南魏王周越は、一時は「ともに延漢を討とう」という、周越が望まない提案によってではあれ青燕との関係が良くなったのに、再度青燕との戦がせまっている事を悲しんだ。南魏王周越も延漢王李荘も領土拡大は望んでおらず、他国と共存しながら自国が繁栄することこそが望みである。青燕王宋謙も似たような気持ちかもしれないが、青燕の中に主戦論者が多いのか宋謙が周越や李荘ほどには主戦論者を抑えきれない人物なのか、残念ながら戦は避けられないのだろうかと残念に思っていた。
しかし、そこで酈陽が言った。
「陛下。ご安心くださいませ。青燕の一部に不穏な動きがあるとはいえ、法純さまの間者たちによりその動きは事前に我らが知ることになりました。そうである以上対策を打てます。陛下の許可さえあれば、さっそく私の弟子に命じて、戦を事前に避けるための手を討つ所存です」
酈陽のこの言葉に周越は喜びながらも少し驚いた。
「それは素晴らしい提案だ。しかし弟子だけで大丈夫なのか?今回の任務は重大だぞ」
周越の不安も分かるが、酈陽には自信があった。それゆえ酈陽は、にっこりと微笑みながら恭しく頭を下げ、周越を安心させるために落ち着いた口調で言った。
「大丈夫でございます。陛下はご安心なさって、吉報をお待ちくださいませ」
酈陽の言葉とその穏やかな口調に安心した周越は、今回の件を酈陽に一任した。そして酈陽は法純の間者が把握した青燕の状況を彼の愛弟子に伝えた。その弟子は恵泉が率いる護衛たちとともに、青燕との国境付近に向かって出立した。
交渉の場に着いた酈陽の弟子、すなわち法銀月に対して、青燕は袁定の部下である楊昭という外交担当者を派遣した。楊昭のそばには護衛として、文白鐘の妹である文白鈴という女性武芸者が付き添っていた。楊昭は袁定から、事前に
(南魏は戦の駆け引きでも法純さえも越える者が二人もいるという。外交においても酈陽という傑物がいる。だから酈陽が来たら無理にその場で判断せず、返事を後回しにするべきだ。酈陽と外交交渉したら、私といえども勝てるとは思えない)
と述べていた。その袁定自身は延漢や靺鞨や匈奴といった、南魏以外の国に対する外交方針を練らねばならないなど多忙である。南魏も手強い交渉相手だとは思うが、外交上は複数の懸案事項があり、しかも今回は特に大きな交渉事項は無いだろうと推測していたので楊昭に外交を一任した。そして楊昭は事前に今回の交渉相手が酈陽ではなく銀月という女性だという情報をつかんでいた。そのため、いくら「酈陽は手強い交渉相手だ」と知らされていても「酈陽でなければ交渉に勝てるだろう」と、タカをくくっていたのである。
第十二章
交渉の場に護衛の者たちを各々一名ずつ連れて入った銀月と楊昭だったが、その両者ではなく護衛の従者たち、つまり恵泉と白鈴がお互いの顔を見て「あッ!」と声を上げてしまった。それは彼女たちが、かつて会ったことがある者同士だったからだ。
とは言え、あくまでも外交交渉が今回任務だ。恵泉と白鈴はお互いを意識ながらも交渉の最中話しかけることが出来ず、気になる様子を相互に対して見せながらも、なるべく平静を装って交渉に臨んだ。
そんな両者の因縁を知らない銀月と楊昭は、お互いの主張を述べるべく、交渉の席に着いた。先に口を開いたのは銀月だった。
「このたびは我が南魏からの申し出に応じて外交の場にいらしてくださったことに、まずは深い感謝を述べます。遠路はるばるお疲れさまでした」
軽い社交辞令からはじまった銀月の発言に、楊昭は余裕の笑みを浮かべながら、
「いえいえ、銀月どの。貴公こそ普段は武漢で政務に携わっていらっしゃるとのこと。わざわざこの国境付近までいらっしゃるなど、大変なご足労だったでしょう」
と述べた。楊昭の胸中には、
(南魏の外交の第一人者たる酈陽ではなく銀月についてまでその普段の任地を我ら青燕は把握しているのだぞ!)
という、南魏に対する青燕の情報網の優位を示す意図があった。だが銀月は動じることなく、落ち着いた口調で述べた。
「お気遣いありがとうございます。しかしながら移動は馬車ですから、それほど大変ではありません。ところで馬車と言えば、馬は貴国ではどのような場合に使いますか?」
銀月の発言の意図を図りかねた楊昭は一瞬戸惑ったが、口歩を開くと、差しさわりの無い話をした。
「馬…でございすか?馬は何と言っても移動の手段ですな。どなたも長距離を移動する場合は馬に乗るか馬車に乗るかなさるでしょう」
そこで銀月は切り返した。
「左様です。馬は商人にとっても軍人にとっても移動の手段。しかしその馬が我が国の国境付近に多数集まっていたら、我が国の商人が国境付近に多数集まっている、と貴公はお考えになりますか?それとも我が国の将兵が国境付近に多数集まっている、と貴公はお考えになりますか?」
「それはもちろん……」
と言いかけた楊昭だったが、一瞬の沈黙の後
「一概には言えないでしょう」
と発言した。あえて断言をしないことで、銀月からの追及をかわそうとしたのだ。しかし銀月は言葉を続けた。
「左様ですか。私が貴公の立場なら、我が南魏の将兵が国境付近に多数集まっている、と考えるところです。さて、馬と言えば馬車も引きますが戦車も引きますね?戦車というのは商人のためにあると貴公は考えですか?それとも将兵のためにあると貴公はお考えですか?」
銀月によるこの問いには、さすがに「一概には言えないでしょう」と答えるわけにはいかず、楊昭は
「それはもちろん、将兵のためでしょう」
と言わざるを得なかった。
そこで銀月は言葉を続けた。
「はい。私もそうだと思います。そしてその戦車が、もしも我が南魏の東の国境付近に多数存在したら、それは我が国が貴国に対して友好な態度をとっていると貴公はお考えになりますか?それとも我が国は好戦的な態度をとっていると貴公はお考えになりますか?」
この問いには楊昭は躊躇なく答えた。
「それは一概には言えないでしょう。単なる訓練のためかも知れないのですから。貴国の国境付近に多数の戦車があるからと言って、必ずしも我が国に攻め込むとは限りません。単にいつかある戦のために兵馬を鍛えるつもりかもしれませんからね」
そこで銀月は別の物を挙げた。
「左様ですか。それはそうと、訓練には兵馬が必要ですから、当然兵馬のための食べ物が必要ですね。訓練に必要な食料の量と戦に必要な食料の量は同じでしょうか?特に敵地にて長く滞在するつもりなら、その兵馬のための食料は訓練のための食料より多く必要になるのではないでしょうか?」
銀月のこの言葉には楊昭も否定できず、
「左様でございますな。たしかに訓練よりも長期遠征する戦の場合こそ、大量の食料が必要になるでしょう」
と答えた。そこで銀月はようやく本題に入った。
「そうですね。私もそう思います。しかるに貴国の国境付近には、多数の戦車のみならず多量の食料が集まっております。これは最近特に強まっている傾向でございます。これをもって単なる訓練と呼ぶことは無理があるのではないでしょうか?」
楊昭はここに至ってようやく銀月の意図を察した。銀月は青燕が南魏に対する戦を仕掛けることを批判しているのだ。だが楊昭は切り返した。
「もちろん一般的には訓練よりも実際の戦の方が多くの食料を要するでしょうな。しかし長期の訓練があるなら、食料もかなりな量が必要になると思います」
だが、このような切り返しは銀月の予想の範囲内だった。
「左様ですか。ならば我が南魏も貴国との国境付近で、貴国と同じ量の食料を用意して、貴国の長期間攻め入ることも可能なほどの食料を消費する、長期間の訓練をしても貴国は気になさりませんよね?」
銀月は既に間者が得た情報から、多数の馬や戦車のみならず大量の食料も青燕の国境付近に集まっているという事実を把握していた。そこで青燕が戦の準備を訓練と言い張るなら、南魏も戦の準備を訓練と言い張る、という選択肢を示した。青燕内部の情報が南魏にバレていることに危機感をいだいた楊昭は、そこで話の前提を切り崩そうとした。
「たしかに、もしも我が国が貴公の懸念通り、多数の馬や戦車そして大量の食料を国境付近に集めているなら、貴国も我が国と同じことをして問題があるわけではない。しかしながら……」
「しかしながら……何でしょうか?」
楊昭の意図が分からず尋ねた銀月に、楊昭は余裕の笑みを持って答えた。
「しかしながら、そもそも我が国が国境付近に多数の馬や戦車および大量の食料を集めている、という懸念自体が本当に信じられる情報筋からのものでしょうか?貴国の中には我が国と貴国を仲たがいさせたい者、たとえば延漢からの回し者は紛れ込んでいないでしょうか?」
楊昭はこの発言に自信があった。銀月が得た情報が必ずしも正しいとは限らないではないか、と問い詰めれば、銀月は言葉を失うだろうと読んでいたのだ。しかし銀月は堂々と答えた。
「いえいえ、そのご心配には及びません。貴国が国境付近に多数の馬や戦車のみならず大量の食料も集めているという情報は、我が兄から得た情報です。我が兄の法純は貴国からの侵略に対して苦戦しながらもどうにか対処して、貴国の軍隊を追い返しました。まあ、なかなか容易ではなかったようですよ。戦闘の一部では、私のような女性文官…もとい私とは違って腕の立つ女性文武官の活躍もあったおかげですけどね」
銀月はそう言いながら、恵泉の方を向いた。かつて法純は恵泉の武芸に助けられたことがある。当時契丹との対立が激しかった南魏は軍功で一二を争う郭俊と韋脩といった軍師を青燕に対抗するために派遣することは出来ず、軍功第三位の法純で対抗したのに対し、青燕は延漢や靺鞨から攻められないだろうという読みがあったので最初は法純と互角の軍師つまり蒋儒を派遣したものの、その後は法純と引き分けて膠着状態になったので、南魏で言う韋脩に比肩する青燕の第一軍師たる龐植を派遣し、しばらくの間法純は劣勢を強いられたのだ。その際には恵泉をはじめとする、南魏の武芸者の層の厚さが法純を助けた。そのことを覚えている銀月は、思わず恵泉の方を向いたのだ。
ともあれ、銀月の言葉によって楊昭は追い詰められた。まさか「貴公の兄上が貴公を騙したのでしょう」とは言えない。銀月はさらに話を続けた。
「まさか兄が私にウソをついたとは思えません。兄が延漢の回し者であるとは思えませんからね。それでも貴公は貴国の国境付近の馬や馬車や食料があくまでも訓練用だとおっしゃいますか?ならば是非ともその訓練とやらを見せていただきたいのですが、それは認められませんでしょうか?」
そこで楊昭はどうにか言い返そうとした。
「まあ、私は軍事の専門家ではありませんから、何とも言えませんが、軍には軍の機密があるので、必ずしもすべての情報を開示できるとは限りませんよ」
そこで銀月は言った。
「左様ですか。実は私も契丹と南魏の戦では、実に前線の近くまで行かせていただきました。ですので、どのぐらいの食料が必要であるかは承知しているつもりです。私の知識を基にして、十分な馬と馬車と食料を用意して貴国との国境付近で訓練をするよう兄に提案しようと思いますが、軍としての機密がある以上、よもやその訓練について貴国から情報の開示を請求される事はございませんよね?」
要は、青燕がやっている事と同じことを南魏もやってみる、というのが銀月の考えだ。さすがに反論できなくなった楊昭は
「そ…それはもちろん貴国の軍の機密なれば、我が国から情報の提供を求める事はありません」
と言わざるを得なかった。こうして青燕の主戦派たちが望む、南魏に気づかれないうちに疾風迅雷の勢いで南魏を急襲する、という案は頓挫した。南魏が青燕と同じように多数の馬や戦車のみならず大量の食料も青燕との国境付近に用意したら、南魏との緊張関係が強まるだけで青燕には何の利益もないからだ。
こうして、南魏は青燕からの攻撃を事前に察し、見事な外交的読みの深さで未然に攻撃を防いだ。このことは青燕の多くの重臣を驚かせたが、青燕の中には南魏との戦いを避けるべきとの意見を持つ者も少なからずいたので、必ずしも青燕の人全般が南魏に対する攻撃中止を残念に感じたわけではなかった。
第十三章
こうした外交交渉の後、恵泉に白鈴から短い文章が渡された。そこには非公式に会いたい、とのことが記されており、恵泉は白鈴の意図を図りかねたが、銀月に許可をもらった結果、銀月とともに白鈴と会うことになった。
恵泉が待ち合わせの場所に行くと、すでに来ていた白鈴は軽くお辞儀をした。
「わざわざ来てもらって済まない。それにしてもまさかお前がこの高所の場に来るとは思わなかったぞ!」
白鈴の言葉に、恵泉は笑いながら答えた。
「それは私も同じだ。まさかお前がここに来るとは思わなかった」
この二人は必ずしも親しいという訳ではない。だが、かつてとある地域をめぐって法純率いる南魏軍と龐植率いる青燕軍が争った際に、なかなか勝負がつかず膠着状態に陥った際に、戦いに駆り出されたのが恵泉と白鈴だった。
軍略では法純と龐植では二勝三敗で龐植の方が優位だった。しかし南魏には呂平などの武芸者が多く、武力だけでは南魏の方が優位だった。そこで膠着状態に陥った両軍のにらみ合いの中で、龐植から提案があった。それは「お互いの女性武将で一騎打ちをさせて、勝った方がこの地域を支配する」という提案だった。青燕には女性文武官はもとより女性文官の採用制度も無く、延漢にもその制度は無かった。だが、元盗賊の副頭目である白鈴は、姉の白鐘が頭目を務める盗賊で随一の武芸者であり、青燕の中では「女子の武芸者としては当代随一だろう」と思うものも少なくなかった。そこで南魏軍にそうした提案をしたのだ。
だが、一騎打ちはかなり長時間にわたる接戦だったが、結局は恵泉が勝ち、白鈴は降参して命は助かったが、青燕に奪われていた件の地域は南魏が取り返した。その際に南魏には女性文武官という新しい制度があることが青燕にも知られるようになり、南魏と同じ制度採用すれば恵泉に善戦した白鈴だけではなく他の女子武芸者も青燕の文武官になってくれるのではないかと期待する声が高まった。白鈴はあくまでも青燕軍が盗賊の出身であり、姉の白鐘が軍功第二位の軍師に匹敵する知恵者だから姉妹とも知略と武芸を買われて青燕の軍属になったとはいえ、正式な試験を受けたわけではない。
そうした過去があった恵泉と白鈴は、今回こうして再会したが、白鈴はどうしても気になるという面持ちで恵泉に尋ねた。
「わざわざ呼び出して済まない。実は我が青燕も、ようやく女性文官を採用するための試験をするようになったのだ。そこで貴殿から、南魏の女性登用の試験について教えていただきたい、と思ってな」
南魏だけでなく、延漢も男性の文官と武官そして文武官は試験で採用する様になって久しい。延漢もようやく文官試験に関しては女性の受験を認めるようになりそうだ。そして青燕は男性官僚を試験で選ぶ事にする際に南魏はおろか延漢にも後れをとったので、女性文官試験だけは延漢に負けないようにしっかりした制度を早期に採用したいという事が重臣たちの間で話されていた。白鈴は武芸者として、その姉の白鐘は龐植に次ぐ軍師として、女性でありながら各々の役職を青燕の朝廷から与えられたが、それは紅山党という手強い盗賊集団を龐植率いる青燕の武将たちが苦戦の末に降した際、龐植の提案で頭目の白鐘の智謀と副党目の白鈴の武芸を高く評価し、青燕の要職に就けるよう青燕王宋謙に上奏したからに他ならない。樊順党が南魏の武官試験や文官試験を受けていないのに例外的に南魏の正規軍に組み込まれたのと同じく、白鐘と白鈴が率いる紅山党の男女は、例外的に青燕の正規軍に採用されたに過ぎない。
そうした青燕や延漢に比べて南魏の官僚制度は進んでいる。恵泉も銀月も、そうした南魏の官僚制度によって国家の要職に就くことが出来たのだ、他国の女性にも同じように要職に就く機会があって欲しいと感じた恵泉は南魏の文武官試験について説明した。要するに、男女の区別なく武芸と筆記と口頭試問という三種類の試験がある、ということだ。
ただ、青燕はまだ女性文武官の採用試験までは検討しておらず、あくまでも女性の文官試験について知りたいから尋ねたのだ、との白鈴の説明を聞いた恵泉は
「済まない。私は文武官なので、文官試験の詳細までは分からない」
と言った。そこでそばにいた銀月が説明した。
「ならば私が説明しましょう。南魏の文官試験は文武官試験と同じく男女ともに同じ条件です。女性だからと言って問題を簡単にしてもらえるわけではありません。そして文武官試験にある武芸が試験科目ではない反面、筆記試験と口頭試問の範囲は文武官試験より広いです。また、芸術の実技もございます」
「芸術?…つまり音楽や美術か?」
銀月はうなずきながら言った。
「左様です。しかし必須ではありません。必須なのは文武官試験と同じ『孫子』や『呉子』や『六韜』などの兵法書と南魏の現行の法律のほか、文官試験ならではの試験科目として四書五経があります。これらは必須で、選択科目として音楽を選ぶか美術を選ぶか古の法を選ぶかは自由でございます」
「古の法とは?」
怪訝な表情で尋ねる白鈴に対して、銀月は落ち着いた表情で答えた。
「漢代や周代の法律といった昔の王朝の法律でございます。配点は低いですが、四書五経や兵法書や口頭試問で高得点を取れる自信が無く、なおかつ美術も音楽も選択しない場合はそれら古代王朝の法律を覚えて、配点が低いとはいえなるべく正解し、四書五経や兵法書や口頭試問で幾分か失点しても挽回することは可能でございます」
「……」
銀月の言葉に白鈴はしばらく沈黙した。だが、その後に口を開くと
「考えてみると素晴らしい制度だな。私のような女の武芸者や我が姉のような女の軍師は青燕では例外的な存在だ。だが貴国では男女を問わず優れた人材を試験で登用しているということか。我が国が貴国に負けた理由が分かる気がする……」
青燕に対する白鈴の劣等感が強いと感じた恵泉は何とか白鈴を擁護しようとした。
「しかし貴殿と私の戦いは、かなりの接戦だった。しかも貴殿の姉も智謀で貴国に貢献したのではないか?」
この言葉に少し励まされた白鈴は言った。
「そ、そうか?……あの時私は貴殿に負けて、南魏の女性武将の強さを思い知った。しかも我が姉と私が青燕の正規軍に組み込まれたのは、龐植という軍師の率いる軍勢に負けたせいだ。その前に姉が戦った蒋儒どのという軍師とは互角の勝負だったが、龐植どのの智謀は我が姉や蒋儒どのをも凌ぐ。将兵の数でそれほど劣っていなかった我が紅山党が龐植どのの率いる軍隊に負けたのは屈辱だと思っていたが……」
そこで銀月が割って入った。
「白鈴どの。龐植どのの智謀は非常に深淵です。私の兄つまり南魏で軍功第三位の法純でも、龐植どのには何度も負けています。最終的には勝てましたが僅差に過ぎませんし、むしろ呂平どのやこちらの恵泉どのなど、武芸に秀でた者たちの助けによって勝てたようなものです。むしろ蒋儒どのと引き分けて、龐植どのの知略でようやく倒せたのが貴女や貴女の姉上なら、貴女たち姉妹はまるで交趾の徴姉妹のようですよ」
「徴姉妹?」
武芸には秀でているが歴史に明るくはない白鈴は、怪訝な表情で尋ねた。
「昔、かの光武帝劉秀の時代に越南で反乱を起こした徴側および徴弐という姉妹のことですよ。最終的には光武帝麾下の馬援という武将に倒されましたが、徴姉妹が一定の戦果を挙げたのは事実です。それに、龐植どのの智謀は馬援どのの智謀よりも優れているでしょう。ですから、貴女たち姉妹が龐植どのに負けたからといって、貴女たち姉妹の軍功が徴姉妹に劣るわけではありませんし、ましてやその後は青燕の正規軍として活躍なさっているなら貴女も貴女の姉も自信を持って良いと思います」
歴史に名を遺した女性指導者たちを引き合いに出して白鐘と白鈴を称揚する銀月に、白鈴は思わず照れ笑いしながら言った。
「博学な外交担当者さまにそこまで言っていただき光栄です。貴殿のお言葉は姉にも必ずお伝えします」
そう言って深々と頭を下げた白鈴の表情には、先ほどまでの劣等感はもはや微塵もなかった。




