第99話 帰る場所
馬車の車輪が、乾いた土を踏みしめる音だけが続いていた。
窓の外には、見覚えのある麦畑が広がり始めている。ブライアーウッド村まで、もうそう遠くない。
「……近づいてきた、な」
向かいの座席で、ダニエルがぽつりと呟いた。四年ぶりに見る故郷の景色に、その声はどこか震えていた。隣に座るフィンは、膝の上で握った両手を、さっきからずっと離さない。
「怖いのか?」
ノアが遠慮なく聞いた。子供らしい率直さだったが、フィンは首を横に振らなかった。代わりに、小さく頷いた。
「怖い……というか。母さんの顔を、思い出せないんだ」
「え?」
「四年もあると、な。毎日思い出そうとしてたのに、気づいたら輪郭がぼやけてくる。声も、笑い方も……ちゃんと覚えてるつもりだったのに、いざ会うってなったら、急に不安になった」
ダニエルが黙って、フィンの背を軽く叩いた。彼もまた、同じ不安を抱えているのだろう。
レオは何も言わず、二人の様子を見守っていた。こういう時、下手な励ましの言葉は要らない。ただ、隣にいることだけが意味を持つ場面もある。
ミアがそっと口を開いた。
「サリーさん、毎日祈ってたって聞きました。……忘れるはずないですよ、あなたたちのこと」
「そう、だといいけど」
フィンは弱々しく笑った。
半日の道のりは、思ったより早く過ぎた。
村の入り口が見えてきた頃には、既に噂が先回りしていたのだろう。畑仕事をしていた村人たちが手を止め、道の両側に集まり始めていた。
その中央に、一人の女性が立っていた。
痩せた肩、白髪の混じり始めた髪、そして──四年間、毎朝同じ場所に立って街道を見つめ続けてきたであろう、深く刻まれた目元の皺。
サリーだった。
馬車が止まる前から、彼女は駆け出していた。転びそうになりながら、それでも足を止めない。
「フィン……! フィン、なの……?」
御者が扉を開けるより早く、フィンが自分で扉を押し開けて飛び降りた。足がもつれ、地面に膝をつきかけたが、それでも構わず走った。
「母さん……!」
二人がぶつかるようにして抱き合った瞬間、フィンの中にあった「思い出せない」という不安は、跡形もなく消え去ったようだった。腕の中の温もりも、耳元で聞こえる嗚咽混じりの声も、四年前のあの日と、寸分違わなかったから。
「大きく、なって……こんなに、大きく……」
サリーはフィンの顔を両手で挟み、何度も何度も確かめるように撫でた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、母さん。ずっと、心配かけて」
「謝らないで。謝るのは、あなたじゃない……!」
そこでサリーの視線が、ゆっくりと馬車の方へ動いた。ダニエルが、少し離れた場所に立ち尽くしていた。
「ダニエル……」
サリーの声が変わった。実の息子ではない。それでも、四年前から――いや、フィンが生まれるずっと前から、サリーにとってダニエルは、もう一人の息子のような存在だった。二人は幼馴染で、いつも一緒だったから。
「よく……よく、帰ってきたね」
サリーが手を伸ばすと、ダニエルの表情が崩れた。この四年間、彼がずっと張り詰めさせていた何かが、その瞬間にほどけたのが、傍で見ていたレオにもわかった。
「サリーさん、俺、俺は……」
「いいのよ。何も言わなくていい」
「でも……俺のせいで、フィンまで……」
「違う」
サリーはダニエルの両肩を、強い力で掴んだ。
「違うわ、ダニエル。あなたたちは何も悪くない。悪いのは、あなたたちを騙して連れて行った、あの人たちよ。あなたたちじゃない」
それでもダニエルの目からは涙が止まらなかった。四年間、誰にも言えずに抱え続けてきた罪悪感は、言葉ひとつで消えるものではない。けれど、サリーの腕がダニエルの背中に回された時、その重さが、ほんの少しだけ軽くなったように見えた。
村人たちも、遠巻きに見ていた輪を少しずつ縮めていく。誰かが「おかえり」と声をかけると、それに続くように、あちこちから同じ言葉が重なった。
「おかえり」
「おかえりなさい」
「よかった、無事で……」
その声の輪の中心で、フィンとダニエルは、四年間分の孤独を洗い流すように、ただ泣いていた。
少し離れた場所から、レオはその光景を見つめていた。
「……よかった」
ミアが隣で、静かに涙を拭っていた。ノアも、いつになく神妙な顔をしている。エマだけは、少し複雑な表情をしていた。母の墓に文字を刻めた自分と、今こうして母親と再会できた二人を、無意識に重ねているのかもしれない。
レオの脳裏には、灰の館で聞いた話が蘇っていた。
──逆らえないまま、偽の証文を書かされたこと。
──四年前の書庫放火に、関与させられていたこと。
──それでも、生きて帰ることを諦めなかったこと。
文字を奪われ、声を奪われ、それでも人は折れずにいられるのか。その答えを、レオは今、目の前で見ている気がした。
「先生」
不意に、フィンがこちらを振り返った。母に抱きかかえられたまま、涙で濡れた顔で。
「連れて帰ってくれて、ありがとう」
レオは首を横に振った。
「連れて帰ったのは、俺じゃない。お前たち自身の力だ。……それに、ガイウス様や衛兵の皆さんの力でもある」
「ううん」
フィンは小さく、けれどはっきりと言った。
「先生が、灰の館の書庫を見つけてくれたから。文字が読めたから、あの証文の意味も、あそこにあった記録の意味も、わかった。……もし俺たちが最初から文字を知らなかったら、きっと、もっと違う結末になってたと思う」
その言葉に、レオは静かに目を伏せた。
自分が始めたのは、小さな寺子屋だった。文字かるたひとつで、村人たちに読み書きを教えることから始まった、ささやかな試み。それが今、こうして人の命を救う力にまでなっている。
──文字は、剣にも盾にもなる。
かつて自分が生徒たちに語った言葉が、今さらながら胸に重く響いた。
「フィン、ダニエル」
サリーが、涙を拭いながら二人に向き直った。
「今夜は……いいえ、しばらくは、二人ともゆっくり休んで。何も心配しなくていいから」
「うん」
「うん……ありがとう、母さん」
村の入り口に集まった人々の輪は、いつしか小さな祝いの空気に変わっていた。誰かが「今夜は宴だ」と言い出し、それに賛同する声が続く。四年間の空白を埋めるには短すぎる夜かもしれないが、それでも今は、この再会を喜ぶ時間だった。
夕暮れの空の下、レオはふと、隣に立つガイウスに目をやった。
「ガイウス様」
「なんだ」
「まだ、終わっていませんね。西方三村のことも、灰の館で見つかった被害者たちのことも」
ガイウスは頷いた。その横顔には、公聴会の頃には見られなかった、静かな覚悟のようなものが宿っていた。
「ああ。だが、今夜くらいは……この光景を、ちゃんと目に焼き付けておきたい」
救われた者たちが、帰るべき場所に帰る。
その一つ一つの積み重ねの先に、まだ見ぬ「西方三村」の人々の姿があるのだと、レオは改めて思った。
灯りは、まだ広がり始めたばかりだった。




