第92話 文字の伝言
「別の方法って?」
ミアが小声で問いかける。レオは露店の陰に身を寄せたまま、市場の喧騒に目を走らせた。
「前世でさ、生徒に直接注意しにくい時──例えば、本人の前で叱ると意地になって余計こじれる時、使ってた手がある」
「何それ」
「手紙。それも、こっそり机の中に入れておくような、さりげないやつ」
ミアは合点がいったように頷いた。
「キットに直接近づかなくても、荷物に紛れ込ませればいいってこと?」
「ああ。監視の目があっても、荷物の中まではいちいち検めないだろう。市場で買い物してる最中なら、隙もできるはずだ」
二人は近くの雑貨屋で小さな紙片とペンを買い求め、露店の陰に隠れるようにして文字を書き始めた。長々とは書けない。見つかれば一巻の終わりだ。短く、それでいてキットに伝わる言葉を選ばなければならない。
レオは少し考えてから、ペンを走らせた。
「──『先夜はありがとう。無事に戻れた。あなたも危険なら、いつでも力になる。合図は、市場の井戸に赤い布』」
ミアがそれを覗き込み、小さく頷く。
「これなら、意味が分かる人にしか分からない」
「キットは読み書きを教わってないはずだ。でも、あの子は簡単な文字なら拾えるってキット自身が言ってた。ダニエルとフィンに教わったことがあるって」
紙片を小さく折りたたみ、レオはミアと共に、慎重にキットの動きを目で追った。キットは八百屋の前で足を止め、籠に野菜を詰めている。見張りの男は、少し離れた酒場の前で、退屈そうに壁にもたれていた。
「今しかない」
ミアが先に動いた。買い物客を装い、八百屋の隣の露店──果物を並べた台の前で、キットとすれ違うように距離を詰めていく。レオも別方向から回り込み、偶然を装って、キットのすぐ横を通り過ぎる瞬間、折りたたんだ紙片を、キットが提げていた籠の隅、布の下にそっと滑り込ませた。
一瞬の接触。キットは顔を上げかけたが、レオはすでに人混みの中に紛れていた。振り返らず、そのまま歩みを進める。
「……気づいた?」
物陰で落ち合ったミアが、緊張した声で囁く。
「わからない。でも、これ以上は無理だ。今日はここまでにしよう」
二人は市場を後にした。振り返ると、キットは籠を抱えたまま、まだ何も気づいていない様子で、館の方角へと歩いていくところだった。見張りの男もその後を追い、市場の喧騒に紛れて姿を消していく。
「……届くといいけど」
ミアの呟きに、レオは頷くしかなかった。
その頃、西方へ向かったガイウスとノアは、街道沿いの小さな村──地図に記された候補地の一つ、ミルバンクという名の村に到着していた。
「思ったより、普通の村だな」
ノアが馬車の窓から外を見て呟く。畑が広がり、村人たちが忙しなく行き交う、どこにでもありそうな農村の風景だった。
「表向きはな」ガイウスが手綱を引きながら答える。「グリンウォードの手口を思い出せ。エルバンだって、はたから見れば普通の村だった」
村の入り口で、ガイウスは伯爵家の紋章を示し、村長への面会を求めた。しばらくして現れた村長は、貴族の突然の訪問に明らかに戸惑いを見せている。
「アルダート伯爵家のご子息様が、このような辺鄙な村に、一体どのようなご用件で……」
「視察だ。近隣の商取引の状況を調べている。特に──」
ガイウスは一拍置いて、村長の表情を注意深く観察しながら続けた。
「『商業監査院』を名乗る者が、最近この辺りを訪れなかったか」
村長の顔が、わずかに強張った。
「……存じませんな」
明らかな動揺だった。ノアがガイウスに目配せする。ガイウスは小さく頷き返した。
「そうか。もし何か思い出したことがあれば、いつでも構わない。我々はしばらくこの近辺に滞在する」
村長は逃げるように会釈をして、足早に立ち去っていった。その後ろ姿を見送りながら、ノアが低く呟く。
「あれ、絶対何か知ってるよな」
「ああ」ガイウスの目が鋭くなった。「エルバンの時と同じ顔をしていた。何かを恐れている顔だ」
夕暮れの村を眺めながら、二人は互いに頷き合った。西方の風が、何かを運んできている。




