第91話 西方の風
「まず、優先順位を整理しよう」
レオは机の上に広げられた地図──リリアンが持ち出してくれた、王国西方の簡易地図──を指でなぞりながら言った。
「候補は三つ。だけど僕らの人数は限られてる。全部を同時には追えない」
「キットのことも」ミアが付け加える。「置き去りにはできない」
ガイウスが腕を組み、地図を睨む。
「優先すべきは人命だ。証拠は後からでも集められるが、命はそうはいかない」
「でも兄上」ノアが口を挟んだ。「証拠がなきゃ、王家だって本気で動いてくれないんじゃ……」
「両方同時にやればいい」
意外にも、そう言ったのはエマだった。皆の視線が集まると、少し気まずそうに続ける。
「私、思ったんだけど……キットを助けるのと、西方の村に知らせるのって、別々に動けることじゃない? 全員で一箇所に行く必要、ないと思う」
レオは目を見開いた。前世の教師時代、こういう場面で一番大事なのは、生徒自身が答えを見つけることだった。今、まさにそれが目の前で起きている。
「エマの言う通りだ」レオは頷いた。「僕とミアは、もう一度館周辺に近づいて、キットと接触する方法を考える。ガイウスと──」
「俺とノアで西方に向かおう」ガイウスが引き取った。「伯爵家の名で村を訪ねれば、少なくとも門前払いはされない。表向きは視察、ということにすればいい」
「僕も行きたい」ノアが即座に手を挙げる。「帳簿を読むのは得意だし、変な契約書があればすぐ気づける」
「エマは?」
「私は……リリアンさんと一緒に、記録保管所で照会を続ける。閲覧制限がかかってる記録、何か抜け道があるかもしれないから」
リリアンが小さく笑った。
「頼もしいですね。分かりました、協力しましょう」
役割が定まると、部屋の空気が変わった。不安と緊張の中にも、かつてエルバン村で寺子屋を始めた時のような、前を向く力が戻ってくる。
「一つ、言っておきたいことがある」
レオは一同を見回した。
「今回のことは、僕らだけでどうにかできる規模じゃなくなってる。九つの村どころか、もっと多くの人が同じ目に遭ってきたかもしれない。無理はしないでほしい。危ないと思ったら、すぐに引く。証拠より、キットより、みんなの命の方が大事だ」
沈黙が流れた後、ノアがにやりと笑った。
「レオ先生、説教くさいぞ」
「……悪い癖だ」
小さな笑いが起きる。張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
その日の午後、ガイウスとノアは、伯爵家の紋章入りの馬車で西方へと出発した。見送るレオに、ガイウスは馬上から一言だけ残した。
「お前が村で積み上げてきたものを、俺は伯爵家の名で守る。それでいいだろう」
「……ああ。頼んだよ、兄上」
馬車が街道の向こうへ消えていくのを見送りながら、レオは胸の内で、かつての自分を思い出していた。魔力もなく、剣才もなく、家族から見放されていたあの頃。まさか兄がこんな言葉をかけてくれる日が来るとは、想像もしていなかった。
一方、レオとミアは、灰の館へ再び近づく算段を練っていた。今度は正面から──ではなく、キットが街に買い出しに出る機会を狙う。キットの証言によれば、週に一度、館の使用人が市場へ食料を仕入れに行く日があるという。
「今日がその日、だったわよね」
ミアが市場の雑踏を見渡しながら言う。レオも頷き、人混みに紛れながら視線を巡らせた。
「キットが一人で来るとは限らない。他の使用人と一緒かもしれない」
「なら、機会を待つしかないわね」
二人は市場の一角、果物売りの露店の陰から、館の使用人らしき人影を見張り続けた。昼の喧騒の中、時間だけが過ぎていく。
やがて──
「……あれ」
ミアが小さく声を上げた。籠を抱えた小柄な少年が、市場の入り口に姿を現す。キットだ。今日は珍しく、一人だった。
レオとミアは目配せし合い、慎重に人混みを縫って近づいていく。
だが、その時。
キットの後ろ、少し離れた場所に、見覚えのある人影があった。灰の館で見た、エドマンドの供の男の一人。表向きは市場をぶらついているだけのようだが、その視線は明らかにキットの動きを追っている。
「……見張られてる」
レオは足を止めた。昨夜の一件で、館側も警戒を強めているということだ。迂闊に近づけば、キットに危険が及ぶ。
「レオ、どうする」
ミアの問いに、レオはしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「──遠回りしよう。直接声をかけるんじゃなく、別の方法で伝える」
「別の方法?」
レオの脳裏に浮かんだのは、前世の授業で使っていた、ある古典的な手法だった。




