第90話 九つの向こう側
王都へ戻る馬車の中、誰も口を開かなかった。
蹄の音だけが規則正しく響く夜道を、レオは窓の外を見るともなしに眺めていた。膝の上には、書き写した紙片を握りしめたままだ。指先はまだ、あの隠し部屋の冷たさを覚えている。
「レオ」
ミアの声に、レオは我に返った。
「大丈夫? さっきから、ずっと黙ってる」
「……ああ、悪い。ちょっと、考え込んでた」
「『新規の分』、だったな」
向かいの座席から、ガイウスが低く言った。窓の月明かりに照らされたその横顔は、いつもの余裕とは違う硬さを帯びている。
「西方の三村、と言っていた。九つの村への被害は裁定で決着したはずなのに、あの男たちは今も新たな村を狙っている」
「王家の裁定は、あくまで『すでに発覚した九つ』についてのものだった」ガイウスは続けた。「グレイフィールド家そのものへの本格的な追及は、まだ行われていない」
ノアが膝を抱えるようにして呟く。
「じゃあ、あの徽章の数……九つどころじゃ済まないってことだよな」
誰も答えなかった。答えられなかった、というべきかもしれない。
エマが小さな声で口を挟む。
「ダニエルとフィンだけじゃない、ってことだよね。あの契約書、他にも何人分もあった」
レオは紙片に目を落とした。走り書きの文字は、自分の手にしては珍しく乱れている。それだけ、あの数十秒に追われていたということだ。
「明日、リリアンに相談しよう。彼女なら、記録保管所の権限で照会できるかもしれない」
「だが」ガイウスが眉を寄せる。「保管所の記録には、グレイフィールド家の分だけ閲覧制限がかかっていた。四年前の火災うんぬんという話もある。今回の証拠だけで、正式に動けるかどうか」
「動けなくても、まずは知ってもらう必要がある」レオは紙片を握り直した。「僕らが持ち帰ったのは、写しに過ぎない。証拠として弱いことはわかってる。でも──」
言葉を切り、レオは一同を見回した。
「あの部屋には、まだ何十もの記録が残ってる。今夜のことで、向こうも警戒を強めるはずだ。次に僕らが動くより早く、証拠を隠滅されるかもしれない」
「時間との勝負ってわけか」
ノアの言葉に、レオは頷いた。
馬車が伯爵邸に着く頃には、夜もすっかり更けていた。だが、迎えたエレノアの顔には、安堵と同時に、隠しきれない不安の色が浮かんでいた。
「おかえりなさい……無事で、良かった」
「母上、心配をおかけしました」
「詳しいことは、明日にでもゆっくり聞かせてもらうわ。今夜は、まず休みなさい。皆、顔色が悪いもの」
その気遣いに、レオは思わず苦笑した。前世では、生徒の顔色を見て「今日はもう帰りなさい」と促す立場だった。今は自分がそう言われる側だ。
翌朝、伯爵邸の一室に、レオ、ミア、ガイウス、ノア、エマ、そして呼び出されたリリアンが顔を揃えた。
「──九つを超える村の記録、それに数十の徽章、ですか」
リリアンは、レオが差し出した写しに目を通しながら、眉間の皺を深くしていった。
「王家の裁定は、あくまで発覚した九つの事案に対するものです。もしこの写しが事実なら……グレイフィールド家は、裁定後も変わらず同じ手口を続けていることになります」
「新規の分、西方の三村」ガイウスが繰り返す。「地名までは聞き取れなかったが」
「西方となると……候補はいくつかあります。ですが、正式な調査には、もっと確たる証拠が必要です。写しだけでは、グレイフィールド家ほどの家格を持つ相手に対して、王城は容易には動きません」
レオは唇を噛んだ。分かってはいたことだ。だが、悔しさは拭えない。
「証拠が要るなら、集めよう」
沈黙を破ったのは、意外にもエマだった。控えめな性格の彼女らしくない、はっきりとした声音。
「私たち、キットって子から話を聞けた。ダニエルとフィンのことも、証言してもらえるかもしれない。それに──もし本当に西方の村が狙われてるなら、そこに住む人たちにも、まだ間に合ううちに知らせるべきじゃない?」
「エマの言う通りだ」ミアが頷く。「エルバン村だって、最初は誰も助けてくれなかった。文字が読めるようになって、初めて自分たちで自分たちを守れた」
レオは、その言葉に胸を突かれる思いがした。自分が教えてきたことの意味を、生徒たち自身の口から聞かされている。
「リリアン」レオは顔を上げた。「西方の村の候補地、教えてもらえますか。証拠集めと並行して、僕らにできることがあるかもしれない」
リリアンは少し逡巡してから、静かに頷いた。
「……分かりました。ただし、今回のように無茶な潜入は困ります。あなた方はもう、王家に認められた『教育特区』の関係者です。もし何かあれば、政治的な問題にもなりかねません」
「肝に銘じます」
ガイウスが横から口を挟む。
「無茶をするなら、俺が先に立つ。伯爵家の名は、こういう時のためにある」
その言葉に、レオは思わず兄を見た。かつて「魔力なしは家の恥」と言い放っていた男の顔は、もうそこにはなかった。
「ありがとう、兄上」
「礼はいい。それより──キットのことだ。あの少年は、まだ館に残っている。次にグレイフィールド家が動けば、真っ先に危険が及ぶのは彼だろう」
その指摘に、部屋の空気が引き締まった。
証拠か、少年の安全か。両方を守る道はあるのか。
レオは紙片を見つめたまま、静かに考え込んだ。




