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識字率0%の辺境で、元教師の無能転生者が学校を作ることになった件  作者: 菊池まりな


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第89話 若様の帰還

第89話「若様の帰還」


 鍵の回る音は、書庫の扉──先ほどレオたちが開けようとして開かなかった、あの正面の扉から響いていた。隠し部屋の入り口ではない。


レオは詰めていた息を、ほんの少しだけ吐き出した。


「隠し扉の方じゃない……」


「でも、すぐそこよ」


 ミアの言葉通り、正面の扉が開く音、続いて複数の足音が書庫内に踏み込んでくる。レオは素早く隠し扉の取っ手に手をかけたが、閉めれば金具の音がする。今この瞬間に音を立てるわけにはいかない。


「灯りを消して」


 ミアが小さなランプの火を指先で覆い、闇に近い暗がりを作る。隠し扉はわずかに開いたまま、その隙間から書庫の様子が見えた。

入ってきたのは三人。先頭に立つ長身の男──外套を纏い、顔には見覚えがある。カーライルと名乗っていた男。だが、纏う空気がまるで違った。村で見せていた穏やかな「調査官」の顔ではない、冷たく、値踏みするような目つき。


「今月分の帳簿を出せ。ブライアーウッドの件は片付いたか」


「はっ。村長の目は逸らせたかと。ただ……」


 供の男が言い淀む。


「ただ、何だ」


「王都から来た調査団が、思いのほか熱心でして。伯爵家の子息まで同行していると」


 エドマンド──若様と呼ばれた男の眉が、ぴくりと動いた。


「伯爵家、だと」


「アルダート家の四男とか。文字も読めぬ田舎者どもに寺子屋を開いているという、あの」


「……ああ、噂の『無能』か」


 エドマンドは鼻で笑った。レオは奥歯を噛んだ。悪意ある言葉にいちいち反応している場合ではないと分かっていても、腹の底が冷たくなる。


「所詮、道楽息子の暇つぶしだ。捨て置け。それより、ブライアーウッドの帳簿の重ね書きに気づいた者がいるという話は本当か」


「村長が、少々……」


「消せ。証拠になる前に」


 供の男が頷き、書庫の棚──レオたちが写しを取ったばかりの棚に手を伸ばす。心臓が跳ねた。もし帳簿の順番が崩れていることに気づかれれば。


 だが幸い、男が手に取ったのは別の冊子だった。エドマンドは苛立たしげに扉の方へ向き直る。


「他の村はどうなっている。九つの件は片付いたはずだろう」


「王家の裁定が下りましたので、その九つは……ですが、旦那様、新規の分は予定通り進めております。西方の三村、順調に」


「急げ。バロウズ様が失脚された以上、こちらの動きも慎重にせねばならん。だが、止めるつもりもない」


 エドマンドの声には、焦りと同時に、確信めいた冷たさがあった。九つの村の被害が明るみに出て、国王の裁定まで下ったというのに、この男たちはまだ「新規の分」を進めていると言う。


 ──王都の公聴会で暴かれたのは、氷山の一角に過ぎなかったのだ。


 レオはミアと目を合わせた。彼女の表情にも、同じ戦慄が浮かんでいる。


「今夜はここまでにする。帳簿を戻せ」


 エドマンドが踵を返しかけたその時、供の男の一人が、ふと隠し部屋の方──正確には、その扉の隙間から漏れる、ごくわずかな空気の動きに眉をひそめた。


「……風?」


 男が一歩、こちらに近づいてくる。レオは息を止め、ミアの手を強く握った。


「どうした」


「いえ……この扉、少し開いているような」


 エドマンドが振り返る。その視線が、隠し扉の方へと向けられた瞬間──


 書庫の外、廊下の方角から、けたたましい物音と誰かの叫び声が響いた。


「火事だ! 東棟から火が!」


 一瞬、書庫内の全員の動きが止まる。


「なんだと!?」


 エドマンドが弾かれたように駆け出す。供の男たちも慌てて後を追い、書庫の扉が乱暴に閉められる足音が遠ざかっていった。


 静寂が戻る。レオとミアはしばらく動けず、暗がりの中で互いの荒い呼吸だけが響いていた。


「……今の、火事って」


「わからない。でも──」


 レオの脳裏に浮かんだのは、外で見張っているはずのガイウスとノア、エマの顔だった。まさか、彼らが。


「今のうちに」


 二人は隠し部屋から抜け出し、慎重に元の壁を戻す。書庫を後にし、キットに教えられた裏口への道を急ぐ。館の中は騒然としていた。使用人たちが水桶を手に走り回り、怒鳴り声が飛び交っている。その混乱に紛れて、レオとミアは館の外へと滑り出た。


 裏手の茂みで、ノアが手招きしていた。


「こっちだ、早く!」


「ノア、今の火事って──」


「エマの魔法だよ、小規模な火種を煙突の近くに。ガイウスが『陽動なら任せろ』って。証拠は?」


「取れた。写しだけだけど……とんでもないものが」


 ガイウスが茂みの奥から姿を現し、短く頷く。


「詳しい話は後だ。まずここを離れる」


 一行は夜の闇に紛れ、灰の館を後にした。振り返れば、東棟からわずかに煙が上がっているのが見える。小さな、けれど確かな陽動の証だった。




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