第88話 地下書庫の秘密
石段の陰、冷たい石壁に背をつけたまま、レオは呼吸さえも殺していた。
見回りの足音は思ったより近い。革靴が石畳を打つ規則的な音──一人ではない。二人分だ。
「……こっちは異常なし」
「上も同じだ。若様のお戻りまで、あと半刻ほどだな」
声が交差する場所は、ちょうどレオたちが隠れている石段の真上だった。ミアが息を詰め、レオの袖をそっと握る。前世であれば「静かにしなさい」と教壇から声をかけるところだが、今はレオ自身が声を出せない立場だ。
足音が遠ざかっていく。一つ、二つ、完全に聞こえなくなるまで、レオは数を数え続けた。
「……行った、と思う」
囁くようにミアが言う。レオは頷き、握ったままだった鍵──キットから借り受けた、書庫の鍵とおぼしきものを、もう一度差し込んでみる。
回らない。
「合わない、な……」
「キットは『これで合うはず』って言ってたのに」
「合鍵が複数あるのかもしれない。それか──」
レオは扉の縁を指でなぞった。木製の扉にしては妙に重い感触。叩いてみると、内側に鉄板が仕込まれているような、鈍い音が返ってくる。
「補強されてる。ただの書庫にしては、厳重すぎる」
その時、ミアが扉の脇の石壁に目を留めた。他の壁と違い、そこだけ僅かに色が違う。まるで、後から継ぎ足したかのように。
「レオ、ここ……」
指先でなぞると、石の継ぎ目に沿って、細い隙間があった。ミアが持っていた小さなランプの灯りを近づけると、隙間の奥に小さな金具が見える。
「取っ手、じゃない?」
レオは頷き、慎重にその金具を引いた。
──ごとり、という重い音とともに、壁の一部が奥へと沈み込み、横にスライドする。隠し扉だ。
中は、書庫というより「隠し部屋」と呼ぶべき狭い空間だった。棚には帳簿らしき冊子が並び、壁際には木箱がいくつか積まれている。ランプの灯りに照らされて、レオは息を呑んだ。
棚に並んだ冊子の背表紙には、几帳面な文字で日付と場所が記されている。
「エルバン村」「ソルヴィン村」「ブライアーウッド村」——そして、レオの知らない村の名前が、まだいくつも続いていた。
「……九つどころじゃない」
王都の公聴会で明らかになったのは、全国九つの村・街に被害が及んでいたという事実だった。だが、ここに並ぶ冊子の数は、明らかにそれを上回っている。
ミアが震える指で、一冊を手に取った。表紙には「ブライアーウッド村・労働契約控え」とある。開いてみると、そこには見覚えのある名前があった。
「ダニエル……フィン……」
契約書の控えだ。ただし、内容は「王都での仕事」などではない。日付は四年前。署名欄には拙い文字で二人の名が記され、その下に小さく「返済不能時は労役にて弁済」という一文が添えられていた。
「これ……借金の形に、労働力として……」
レオの脳裏に、サリーの憔悴した顔が浮かぶ。四年間、息子の帰りを待ち続けた母親の顔だ。
「レオ、この棚の奥……木箱にも何か」
ミアが示した木箱を開けると、中には金属の徽章が無数に詰め込まれていた。灰色に鈍く光る、W.G.の紋章。サリーから託されたものと、寸分違わぬ意匠だ。
「まさか、これ全部……」
数えるまでもない。少なく見積もっても、数十個はある。
その時、頭上から再び足音が響いた。今度は先ほどより速く、近い。
「──若様がお戻りだ! 予定より早い!」
レオとミアは顔を見合わせた。証拠を持ち出す時間はない。だが、ここで見つかれば、これまでの調査すべてが水泡に帰す。
「ミア、写しを」
レオは震える手で、持参していた小さな紙とペンを取り出す。前世の教師時代、板書を素早く写す訓練だけは、生徒よりも自分の方が積んでいたかもしれない。
「時間は?」
「……たぶん、数十秒」
二人は無言のまま、契約書の日付と名前、木箱の数を、可能な限り書き写していく。足音は階段の方から迫ってくる。
「レオ、もう」
「あと少し──」
最後の一行を書き終えた瞬間、隠し扉の向こうで、鍵の回る音がした。




