第87話 厨房の闇に紛れて
夜の帳が完全に下りた頃、レオとミアは下働きの粗末な服に着替え、木立の陰から灰の館の裏手へと近づいていた。裏口の見張りは一人。松明の灯りの下、退屈そうに欠伸を噛み殺している。
「あの隙に」
ミアが小声で囁くと、少し離れた茂みから、ノアが小さな石を投げた。石が館の反対側の茂みに当たり、乾いた音を立てる。見張りがびくりと反応し、音のした方へ数歩近づいた隙に、レオとミアは素早く裏口の脇の小窓から中へと滑り込んだ。
厨房は、幸いにも無人だった。煮炊きの匂いがまだ微かに残る中、キットの言った通り、梁に古びた鍵がぶら下がっているのが見えた。
「あった」
ミアが鍵を手に取り、二人は足音を殺しながら食堂へと向かう扉に近づいた。扉の隙間から中を覗くと、遠くの応接間から、くぐもった話し声が漏れ聞こえてくる。
「──だから言っただろう、あの村の連中が動き出したと」
「ご心配なく、若様。所詮は田舎者共です。証拠など何も掴んではおりません」
聞き覚えのある声に、レオは思わず息を呑んだ。カーライルの声だった。
「カーライルの旦那、口ぶりに自信ありすぎじゃないですか」応接間から、別の若い声が茶化すように言った。「王都まで来て探りを入れてる連中がいるって噂、旦那の耳にも届いてるでしょうに」
「黙れ。お前如きが口を挟むことではない」
「はいはい、失礼しました」
軽薄な口調のその声に、レオとミアは顔を見合わせた。少なくとも館の中には複数人がいる。慎重に進まなければならない。
食堂を突っ切る間、ミアが足を止めた。テーブルの上に、書きかけの書類が数枚放置されている。何気なく目を通したミアの表情が、みるみる強張った。
「レオ、これ……」
差し出された紙には、どこかの村の名前と、明らかに不自然な取引の数字が記されていた。しかも、筆跡はブライアーウッド村の帳簿で見たものと酷似している。
「新しい村を、また狙ってる……?」
「持って行くのは危険だ。後で確実な証拠を書庫から見つけよう」
レオは書類の内容を素早く頭に叩き込むと、そっと元の位置に戻した。二人は食堂を抜け、キットが示した通りの道筋を辿り、食料貯蔵庫へとたどり着いた。
奥の壁に、木製の重い扉があった。ミアが鍵を差し込み、慎重に回す。錆びついた音が響き、レオは思わず身をすくめた。
「音、大丈夫かしら」
「今のところ、誰も気づいた様子はない」
扉を開けると、地下へと続く石段が、闇の中に沈んでいた。ミアが懐から小さなランプを取り出し、灯りをともす。
「行きましょう」
二人は石段を一段ずつ、慎重に下りていった。冷たく湿った空気が、地下深くから吹き上げてくる。石段の先に、鉄格子のはまった重い扉が見えてきた。
「あれが、書庫……?」
扉に近づいたレオは、そこに掛けられた大きな錠前を見て、思わず眉をひそめた。
「鍵が、厨房のものとは違う」
「別の鍵が必要ってこと?」
その時、石段の上──厨房の方から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……誰か来る」
ミアがとっさにランプの灯りを絞る。石段の陰に身を潜めながら、レオは息を殺して耳を澄ませた。足音は二人分。厨房の扉が開く音がして、聞き覚えのない男の声が響いた。
「おい、貯蔵庫の鍵、誰か使ったか?」
「知らねえよ。俺は触ってない」
「妙だな……さっき、確かに掛けてあったはずだが」
石段の下、暗闇の中でミアがレオの腕をそっと掴んだ。緊張が、二人の間に静かに走った。




