第85話 煤の少年
木立の奥、朽ちかけた古い井戸小屋の陰まで案内されると、少年はようやく足を止めた。周囲を何度も確認してから、警戒を解かずに口を開く。
「名前は言えない。ここで働かされてるから」
「働かされてる……?」
「灰の館の下働きだ。薪運びとか、掃除とか。逃げようとした奴は、ひどい目に遭う」
少年の言葉に、一同の間に緊張が走った。ミアが努めて優しく尋ねる。
「ダニエルとフィン、あなたは彼らを知っているのね?」
少年は小さく頷いた。
「二人とも、俺がここに来た時にはもういた。読み書きができるからって、館の奥で書類の整理をさせられてた。俺たちみたいな下働きとは、扱いが違ってた」
「今も、ここに?」
「……いや」
少年は視線を落とした。
「半年くらい前、二人とも突然いなくなった。逃げたのか、どこかに移されたのか……俺たちには分からない。ただ、その後しばらく、館の主人がやけに苛立ってたのは覚えてる」
「館の主人というのは」
ガイウスが静かに尋ねると、少年は一瞬躊躇ってから、声をさらに落とした。
「顔は見たことない。いつも覆面をしてるから。でも、下働きの間じゃ、『若様』って呼ばれてる。グレイフィールド家の……次男とか、そんな話だ」
「グレイフィールド家の次男……」
エマが震える声で繰り返した。エドマンドという名──カーライルの正体との繋がりが、また一歩近づいた。
「一つ聞きたい」ノアが真剣な顔で口を挟んだ。「なんで読み書きができる奴を、わざわざ集めてたんだ?」
少年は肩をすくめた。
「知らないよ。ただ、噂じゃ……偽の証文とか、偽の契約書を作らせてたって話だ。字が上手い奴ほど、重宝されてたらしい」
その言葉に、一同は息を呑んだ。グリンウォード交易組合の不正──村々を苦しめてきた偽の契約の数々。その裏側に、こんな仕組みがあったとは。
「つまり」レオが低く呟いた。「文字を読めない村人を騙すための道具を、無理やり集められた若者たちに作らせていた、ということか」
皮肉な話だった。知は力になる──その言葉の裏で、同じ「文字を書く力」が、逆に人を苦しめる道具として使われていたのだ。
「あんたら、ここで何してるんだ」少年が改めて尋ねた。「まさか、あの人たちを助けに来たのか?」
「ああ」レオは迷わず頷いた。「必ず見つけ出す」
少年は少しの間、レオの顔をじっと見つめた後、初めて表情を緩めた。
「……あんた、本当に商人か? そんな顔で言われたら、なんか信じたくなるじゃねえか」
「商人じゃない。ただの教師だよ」
「教師?」
「文字を教えてる。それだけだ」
少年は驚いたように目を見開いた後、ふっと小さく笑った。
「教師、ね……。ダニエルの兄貴が、よく言ってたよ。『いつか誰かが、俺たちみたいなガキにも、ちゃんと字を教えてくれる世の中になればいいのにな』って」
その言葉が、レオの胸に静かに染み込んだ。
「名前、聞いてもいいか?」
少年は少し迷った後、小さく答えた。
「……キット」
「キット」レオは頷いた。「一つ、頼みがある。この館の中の様子、もう少し詳しく教えてくれないか」
キットは周囲をもう一度確認してから、地面に木の枝で簡単な見取り図を描き始めた。
「地下に、古い書庫がある。多分、あんたらが探してる証拠も、そこにあるはずだ。ただし──」
キットの手が止まった。
「今夜、館に『若様』が戻ってくるって話だ。いつもより警備が厳しくなる」
一同の間に、緊張が走った。
「今夜、か……」
ガイウスが低く唸った。時間との勝負が、思いがけない形で迫っていた。




