第81話 知られざる印
ガイウスは地図の隅に描かれた紋章の写しをじっと見つめたまま、しばらく黙り込んでいた。応接間に流れる沈黙に、ミアたちも思わず息を潜める。
「……兄さん?」
「少し待て」
ガイウスは立ち上がり、書斎から古い紋章帳を持ってくるよう使用人に命じた。分厚い革表紙の本が運ばれてくると、彼は苛立たしげにページをめくり始めた。
「王国の主だった貴族家の紋章は、大体頭に入っている。だが『W.G.』という頭文字だけの略式紋章は……妙だな」
「妙、というのは?」
「普通、貴族家の紋章はもっと複雑で、一目で家名が分かるように作られている。だが、これはまるで──」
ガイウスは紋章帳のページをめくる手を止め、眉を寄せた。
「隠すために、あえて簡略化された印だ」
その言葉に、部屋の空気が一段と張り詰めた。ノアが小声でエマに耳打ちする。
「つまり、正体を隠したい奴が使う印ってことか」
「多分ね……」
「レオ、これはどこで手に入れた」
ガイウスの声に、これまでにない鋭さが混じっていた。レオは静かに、ブライアーウッド村での出来事──四年前の失踪、重ね書きされた帳簿、そしてサリーから託された地図とメモの全てを語った。
話を聞き終えたガイウスは、しばらく腕を組んだまま黙り込んだ。
「……厄介だな。もし本当に、身分を隠した貴族が絡んでいるなら、迂闊に嗅ぎ回れば、こちらが消される側に回りかねん」
「兄さんでも、その紋章に見覚えがないなら──」
「いや」ガイウスが遮った。「一つだけ、心当たりがなくもない」
一同の視線が一斉にガイウスに集まる。
「数年前、社交界で妙な噂を聞いたことがある。ある由緒ある家が、代々『裏の商い』に手を染めているという話だ。表向きは清廉な名門を装いながら、裏で人身の斡旋まがいのことをしている、と。ただの噂話だと思って聞き流していたが……」
「人身の斡旋……」
ミアの顔が青ざめた。ダニエルとフィンの行方と、あまりにも重なる話だった。
「その家の名前は?」
ガイウスは少し躊躇うように口を閉ざしてから、静かに答えた。
「はっきりとは分からん。だが、噂の中で一度だけ耳にした名がある。グレイフィールド家だ」
「グレイフィールド……頭文字は『G』だけど、『W』は?」
ノアが首を傾げると、ガイウスは苦い顔で付け加えた。
「先代当主の名が、確か──ウィリアムだ」
「ウィリアム・グレイフィールド……W.G.」
エマが震える声で呟いた。点と点が、ようやく一本の線に繋がろうとしていた。
「ただし」ガイウスが釘を刺すように言った。「これはあくまで社交界の噂話の域を出ない。証拠もなしにこの家名を口にすれば、こちらが名誉毀損で訴えられかねん。慎重に動け」
「分かってる」
レオが頷くと、ガイウスはふと表情を緩め、テーブルに広げられた地図をとんとんと指で叩いた。
「それと、この『灰の館』とやらだが……お前一人で乗り込むつもりなら、今すぐその考えは捨てろ。無鉄砲すぎる」
「兄さんが一緒に来てくれるの?」
「当たり前だろう。お前だけを行かせて、また変な武勇伝を作られてはたまらん」
ガイウスの言葉に、ノアがにやりと笑った。
「意外と過保護だよな、ガイウスさん」
「過保護で結構。この愚弟は放っておくと、すぐ厄介事に首を突っ込む」
「兄さんに言われたくないよ」
軽口の応酬に、応接間の空気がわずかに和んだ。だが、テーブルの上に広げられたままの地図と紋章帳が、この先に待つ影の重さを、静かに物語っていた。
「明日、まずは王城の記録保管所を当たろう」ガイウスが立ち上がりながら言った。「グレイフィールド家の詳細な家系図が残っているはずだ」
窓の外、王都の空に夕暮れが迫っていた。灯りを広げる旅は今、思いがけない貴族の影と交錯しようとしていた。




