第6話 亡き母の手紙
ノアが休憩の合間に文字を覚えるようになってから、しばらく経った頃。納屋の寺子屋に、また新しい顔が増えていた。
「あの、レオ様……わたしも、混ぜてもらえますか」
おずおずと顔を出したのは、村でも一番年嵩の少女──たしか、名をエマといった。歳は十七、八ほどだろうか。ノアやミアより年上で、既に村の共同作業では大人扱いされている娘だった。
「もちろん。でも、どうして急に」
「その……」
エマは少し言い淀んでから、懐から一枚の古びた紙を取り出した。折り目のところどころが擦り切れ、随分と長い間、大切に扱われてきたことが窺える。
「母が、亡くなる前に遺した手紙なんです。でも、わたし、字が読めなくて……ずっと、何が書いてあるのか分からないまま」
差し出された手紙を見て、俺は思わず言葉に詰まった。
「三年前に、流行り病で。最後に、何か伝えたいことがあったみたいで、震える手でこれを書き遺してくれたんですけど……」
エマの声が、微かに震えていた。
「これまで、誰かに読んでもらおうとも思ったんです。でも、他人に読まれるのは、なんだか違う気がして。母がわたしに遺した言葉だから、わたし自身の目で、読みたくて」
その言葉に、俺は深く頷いた。
「わかった。一緒に、読めるようになろう」
その日から、エマも寺子屋に加わることになった。他の子供たちよりも覚えが遅いことに、最初は本人が一番苛立っている様子だった。それでも、手紙を読みたいという一心で、彼女は誰よりも熱心に文字と向き合った。
ミアやノアも、いつしかエマの手伝いをするようになっていた。
「エマ姉ちゃん、この字はね、こう書くんだよ」
ノアが得意げに手本を示す様子は、数週間前の彼からは想像もつかない光景だった。教わる立場だった子供が、今度は誰かに教える立場になる。その循環が、少しずつこの小さな納屋の中に生まれ始めていた。
一月ほどが経った、ある日の午後。
「──読めた」
エマの声が、震えていた。彼女の手には、あの古びた手紙。そこに書かれた文字を、一文字一文字、たどたどしくではあるが、自分の力で読み解いていた。
「なんて、書いてあったんだ?」
俺が尋ねると、エマはしばらく涙をこらえるように黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「──"エマ、どんな時も、自分の頭で考えられる人になりなさい。母より"」
その一文を読み上げた瞬間、エマの目から、堪えきれなかった涙がこぼれ落ちた。
「ずっと、気になってたんです。母が最後に、何を伝えたかったのか。……こんな言葉だったなんて」
しゃくりあげながら、エマは手紙を胸に抱きしめた。
「自分の頭で、考えられる人に……母は、わたしにそう望んでいたんですね」
「立派な、お母さんだったんだな」
「はい。……はい」
何度も頷きながら、エマは涙を拭った。その傍らで、ミアもノアも、もらい泣きしそうな顔で、じっとその様子を見守っていた。
「わたし……これからは、他の人にも教えてあげたいです。文字が読めることが、こんなに大きな意味を持つなら、もっと多くの人に、この気持ちを知ってほしい」
エマの言葉に、俺は静かに頷いた。
──こうやって、輪は広がっていくのかもしれない。
自分の名前を書けた喜び。契約書を騙されずに読めるようになる実利。そして今度は、亡き人の言葉を、自分の力で受け取れる喜び。学ぶ理由は、人の数だけある。それを一つひとつ、丁寧に拾い上げていくことが、自分にできる唯一のことなのだと、俺は改めて感じていた。
その夜、屋敷への帰り道、ミアが隣を歩きながら、ぽつりと言った。
「レオ様。わたしも、いつかは、教える側になりたいです」
「もう、なりかけてるじゃないか」
「まだまだです。でも……いつか、レオ様みたいに、誰かの人生を変えられる先生に、なりたい」
その言葉に、俺は少し照れくさくなりながらも、素直に嬉しく思った。
「なれるよ、きっと」
夜空の下、村の灯りが、少しずつその数を増やしているように、俺には見えた。




