第59話 帰還
エルバン村への道のりは、行きよりも心なしか短く感じられた。馬車の車輪が土を踏む音を聞きながら、レオは車窓から流れる景色を眺めていた。
「見えてきました!」
御者台近くに座っていたノアが、身を乗り出して叫んだ。遠くに、見慣れた村の輪郭が見え始める。
「エルバンだ……」
エマが、懐かしさに目を潤ませながら呟いた。ひと月あまりの滞在だったが、レオたちにとってソルヴィンでの日々は、それ以上に長く感じられるほど濃密なものだった。
村の入り口に馬車が近づくと、既に人だかりができていた。
「レオ様たちが帰ってきたぞ!」
トビーの声が響き渡ると、村人たちが次々と駆け寄ってきた。先頭を切っていたのは、杖をつきながらも足取りの軽いガレットだった。
「無事に戻ったか」
「ガレットさん、ただいま戻りました」
レオが馬車を降りると、ガレットは目を細めて頷いた。
「ソルヴィンの話は、バルトの野郎から少しばかり聞いておるぞ。なかなかの大立ち回りだったそうじゃないか」
「大立ち回りだなんて……でも、色々ありました」
「詳しい話は落ち着いてから聞かせてもらおう。まずは、腹ごしらえだ。ベサニーが張り切って、村中の料理を用意させておる」
その言葉通り、村の広場には既に長い机が並べられ、ドノヴァンやベサニー、カイルら村人たちが忙しく料理を運んでいた。
「ミア!」
ドノヴァンが、娘の姿を見つけて駆け寄る。
「お父さん、ただいま」
「無事でよかった……本当によかった」
ドノヴァンは娘を強く抱きしめた。村長という立場ゆえに、送り出す際には毅然としていたが、その裏でどれほど心配していたかが、その抱擁からも伝わってきた。
その夜、村の広場では、ソルヴィンでの出来事を報告する即席の集まりが開かれた。レオ、ミア、ノア、エマが代わる代わる、この一月あまりの出来事を語った。
レイナとの出会い、証文の不正発覚、バートラムの改心、そしてダレンとモーガンとの対決──村人たちは息を呑みながら耳を傾けた。
「……というわけで、ソルヴィン村は正式にヴォルフ子爵領への編入が決まりそうです」
レオが話を締めくくると、広場から歓声と拍手が沸き起こった。
「さすがはレオ様じゃ! いや、さすがはミアやノア、エマも立派になったものよ」
ガレットが満足げに頷く。だがその表情には、どこか思うところがある様子も見て取れた。
「ガレットさん、何か気がかりでも?」
レオが尋ねると、ガレットは少し声を落とした。
「儂が言うまでもないと思うが……ダレンの野郎、この程度で大人しく引き下がるとは思えん。エルバンでもそうだった。奴は必ず、次の手を打ってくる」
その言葉に、広場の空気がわずかに引き締まった。
「ガレットさんの言う通りです」
レオは頷いた。
「王都への報告がどう処理されるか、まだ分かりません。それに、ダレンとグリンウォード交易組合の力が、この一件だけで完全に失われるとも思えない」
「では、これからどうするおつもりですか」
ドノヴァンが尋ねる。レオはしばし考え込んだ後、静かに口を開いた。
「まずは、エルバンとソルヴィン、二つの村がしっかりと足場を固めることが大事だと思います。それから──」
レオは、村人たちの顔を一人ひとり見渡した。
「この動きを、もっと多くの場所に広げていくことも、考えるべき時期かもしれません」
「広げる、というと?」
「エルバンとソルヴィンだけじゃなく、この地方──グレンモア地方全体、いえ、もっと先まで。文字を学び、自分の頭で考える力を持つ村が増えれば、組合のようなやり方は、いずれ通用しなくなるはずです」
その言葉に、村人たちは静かにどよめいた。壮大な話でありながら、この一月でエルバンとソルヴィンが成し遂げたことを思えば、決して夢物語には聞こえなかった。
ガレットが、深く頷いた。
「レオ様。儂はもう歳じゃが、その話、悪くないと思うぞ」
「儂も同じ気持ちです」
ドノヴァンも力強く頷いた。
宴もたけなわとなった頃、レオは一人、広場の隅で夜空を見上げていた。
「レオ様」
振り返ると、ミアが立っていた。
「お疲れ様でした。ソルヴィンでも、エルバンに戻ってからも」
「ミアこそ、お疲れ様。ソルヴィンでの一件、ミアがいなかったら、僕一人じゃとても成し遂げられなかった」
ミアは少し照れたように微笑んだ。
「レオ様、これからのこと、本当に考えていらっしゃるんですか。グレンモア地方全体に広げるって話」
「うん。まだ漠然とした考えだけどね。でも、レイナやジョセフさんの姿を見て、確信したことがある」
レオは星空を見上げながら続けた。
「文字を学ぶことで、人は自分の運命を、自分の手で選び取れるようになる。それは、この村やソルヴィンだけの特権であるべきじゃない」
ミアは、レオの横顔をじっと見つめた。
「レオ様は、本当に……前世の教師だった頃から、ずっとそう思っていたんですか」
「うん。前世では、それを一人の教室の中でしか実現できなかった。でもこの世界では、もっと大きな形で、それを実現できるかもしれない」
レオの言葉に、ミアは静かに頷いた。
「わたしも、お手伝いします。どこまでも」
「ありがとう、ミア」
夜空には、エルバンとソルヴィン、二つの村を見守るように、変わらぬ星々が輝いていた。
だが、王都からの沙汰、そしてダレンたちの次なる一手──物語の新たな章は、静かにその幕を開けようとしていた。
第四部・序章。
エルバン村とソルヴィン村、二つの光が灯った小さな村々の物語は、やがてグレンモア地方全体、そして王国そのものを揺るがす、大きなうねりへと繋がっていく。




