第55話 揺らぐ心
ダレンの来訪から二日後の夜、集会所に村人たちが集まっていた。バートラムが招集をかけたのは、視察を前に村としての意思をまとめるためだった。
「皆も分かっての通り、五日後にはヴォルフ子爵殿が視察にいらっしゃる。ソルヴィン開発組合──いや、グリンウォード交易組合が、この村をどう扱ってきたか。それを、儂ら自身の言葉で伝えねばならぬ」
バートラムの言葉に、集まった村人たちの間に緊張が走った。だがその中で、一人の男が声を上げた。
「村長、本当にそれでいいのか」
声の主は、村の古株の農夫・デニスだった。
「儂らは五年前、飢饉で死にかけた。あのとき助けてくれたのは組合だ。今さらヴォルフ子爵領に鞍替えして、もし上手くいかなかったら──また飢饉が来たら、誰が儂らを助けてくれる」
デニスの言葉に、何人かの村人が同意するように頷いた。ジョセフの一時帰還以来、村には見えない恐れが染み込んでいた。
「デニスの言う通りだ。子爵様が本当に儂らを守ってくれる保証なんて、どこにもない」
「証拠を出したら、また誰かが人質に取られるかもしれん」
不安の声が次々と上がる。バートラムは唇を噛みしめた。かつての自分自身の迷いを、村人たちの声の中に見ているのかもしれなかった。
その時、静かに立ち上がったのはレイナだった。
「あの……わたし、話してもいいですか」
小さな声だったが、集会所の喧騒がすっと静まった。
「わたしのお父さんは、証文の不正のせいで街に連れて行かれました。わたしは字が読めなかったから、何が起きているのかも分からなかった。ただ、お父さんがいなくなったことが悲しいだけでした」
レイナは震える声で続けた。
「でも、字を学んで、証文を自分で読めるようになって分かったんです。お父さんは、悪いことをしたから連れて行かれたんじゃない。騙されただけだったって」
村人たちの視線がレイナに集まる。
「組合は、五年前に村を助けてくれたのかもしれません。でも、その恩を盾にして、ずっと村の人たちを縛り続けてる。それって、本当に『助け』なんでしょうか」
デニスが気まずそうに目を逸らした。
「わたし……もう、何も知らないまま騙されるのは嫌です。字を読めるようになったから分かったことを、他の人にも知ってほしい。それだけです」
沈黙が場を包んだ。やがて、ジョセフが立ち上がった。
「デニスさん。わしも、街での労役の中で色々な話を聞いた。組合に逆らって、行方が分からなくなった者の話も……。正直、わしも怖い」
ジョセフは一度言葉を切り、娘の方を見た。
「だが、レイナが証文を読んで、わしを助けようとしてくれたとき、わしは初めて娘に誇りを持てた。この子が学んだことを、無駄にはしたくない」
会場に、静かなどよめきが広がった。
ガレットの教えが、遠く離れたこの村にも、確かに根付き始めていた。
その夜遅く、レオは一人、集会所の外で夜空を見上げていた。
「レオ殿」
振り返ると、バートラムが立っていた。
「今日の集まり、揺れましたね」
「ああ。デニスの言い分も、間違ってはいない。組合が村を助けた事実は、確かにある。人はそう簡単に、恩義と現実を切り離せるものではない」
バートラムは深いため息をついた。
「儂もそうだった。飢饉の記憶が、儂を組合から離れられなくしていた。……レオ殿、正直に聞きたい。儂らは本当に、正しい道を選んでいるのだろうか」
レオはしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「正しいかどうかは、僕にも分かりません。ただ──」
彼は夜空の星を見上げた。
「大事なのは、選んだ道が正しいかどうかより、その選択を自分の頭で考えて選んだかどうかだと思うんです。組合の言いなりになるのも、子爵領への編入を選ぶのも、村人たち自身が納得して選べば、それでいい」
「……それでは、答えにならぬではないか」
「答えは、僕が与えるものじゃありません。今日、レイナが立ち上がって話したように、村人たち自身が見つけるものです」
バートラムはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく笑った。
「ガレット殿の言葉と、同じことを言うのだな」
「はい。彼から教わったことです」
二人はしばし、無言で夜空を見上げていた。
翌朝、集会所には昨夜とは違う空気が流れていた。
「レオ様、見てください」
エマが興奮気味に駆け寄ってきた。
「デニスさんが、証言をしてくれるって!」
「本当か?」
「はい。昨夜のレイナちゃんとジョセフさんの話を聞いて、考えが変わったみたいです。それに、他にも三人、名乗り出てくれました」
証拠の数は、着実に増えていた。だがそれ以上に、レオの心を打ったのは、村人たちが恐れを抱えながらも、自分自身の意志で「考える」ことを選び始めていたことだった。
視察まで、あと三日。
均衡は、少しずつ村人たちの側へと傾き始めていた。
だがそれは同時に、組合にとっても、もはや後がないことを意味していた。




