第52話 帰還
三日後の昼、ソルヴィン村の入り口に一台の荷馬車が到着した。
御者台に座っていたのは組合の男の一人。荷台に乗っていたのは、痩せ細り、頬がこけた一人の男だった。
「父ちゃん……!」
レイナが真っ先に駆け出した。荷馬車から降ろされたその男――レイナの父・ジョセフは、娘の姿を見て一瞬顔を輝かせたが、すぐにその表情は複雑な陰りを帯びた。
「レイナ、大きくなったな……」
声はかすれ、体つきは労役の厳しさを物語っていた。サラが両手で口を覆いながら駆け寄り、夫の体にすがりつく。
「あなた……本当に、帰ってきてくれたのね」
「ああ。旦那様たちのご温情でな……」
ジョセフの口から出た「旦那様」という言葉に、その場にいたレオは違和感を覚えた。組合を「旦那様」と呼ぶその響きには、感謝というより、恐れに似た響きがあった。
御者台の男が地上に降り、村人たちを見渡しながら朗々と告げる。
「ソルヴィン開発組合からのご厚意により、ジョセフ殿の一時帰還が叶いました。滞在期間はひと月。むろん、その間の家族との再会を、心ゆくまで楽しんでいただければと存じます」
言葉は柔らかいが、その視線はバートラムとレオに向けられていた。まるで「これがどういう意味か分かっているだろう」とでも言うように。
男はさらに続けた。
「なお──ひと月後には、辺境伯領への編入に関する住民の意思確認が行われる予定です。その際には、ジョセフ殿にもぜひ、村の一員として一票を投じていただきたく」
その一言で、レオはすべてを理解した。
これは温情などではない。ジョセフの帰還は、編入への賛成票を確実にするための駒であり、同時に、レイナとサラの証言を封じるための人質だった。もしレイナたちが不正の証拠を出し続ければ、ジョセフはまた連れ戻される──そう暗に告げているのだ。
御者台の男が去っていくと、村の空気は重く沈んだ。
その夜、レオはバートラムの家に呼ばれた。ジョセフとサラ、レイナも同席していた。
「レオ殿に、正直に話しておきたいことがある」
ジョセフが、痩せた手を膝の上で握りしめながら口を開いた。
「わしは……街での労役の中で、色々なことを聞いた。組合が、他の村でも同じような証文の書き換えをしていたこと。そして、それに気づいて声を上げようとした者が、どうなったか」
「どうなったんですか」
「行方が分からなくなった者もいる、と。表向きは『借金を返すために遠方へ働きに出た』ということになっているが……真相は誰も知らん」
ジョセフの声は震えていた。
「わしは、レイナやサラが危険な目に遭うくらいなら、証拠集めなど止めてくれと言いたい気持ちもある。だが……」
彼は娘の顔を見た。レイナは真っ直ぐに父を見つめ返している。かつての怯えた表情はそこになく、確かな意志を宿した目だった。
「レイナ。お前はどうしたい」
「わたし……止めたくない」
レイナは静かに、しかしはっきりと答えた。
「お父さんの証文を読んで、酷いことが書かれているのを知ったとき、悔しかった。字が読めなかったら、わたしたちはずっと騙されたままだった。だから、他の村の人たちが同じ目に遭わないように、証拠を集め続けたい」
ジョセフは目を潤ませ、娘の頭にそっと手を置いた。
「……お前は、わしよりずっと強いな」
レオは静かにその様子を見守っていたが、やがて口を開いた。
「ジョセフさん。組合があなたを人質のように扱おうとしていることは、僕らも分かっています。だからこそ、これ以上あなたやご家族に危険が及ばないよう、慎重に進める必要があります」
「レオ殿は、どうするおつもりだ」
「証拠集めは続けます。ただし、証言をする村人の名前を、これ以上表に出さない形で進める方法を考えます。ノアが記録の整理を担当してくれていますから、証拠の出所を分散させることもできるはずです」
バートラムが頷いた。
「儂からも、エルバンのガイウス殿へ急ぎ文を送ろう。ヴォルフ子爵の視察が一日でも早く実現するよう、力添えを願う」
「はい。時間との勝負です」
窓の外では、今夜も取り立て役の男たちの松明が揺れている。だがレオの目には、それ以上に、ジョセフとレイナ、サラの三人が寄り添う姿が焼きついていた。
奪われかけていた家族の絆を、文字の力が、ほんの少しだけ取り戻そうとしている。
その光景こそが、この戦いの意味そのものだった。
数日後、エルバン村からガイウスの急使が到着した。文にはこう記されていた。
「ヴォルフ子爵、ソルヴィン視察を正式決定。十日後、現地入りの予定。証拠と村人の意思確認、準備を怠りなきよう」
十日後。
その日までに、村はもう一段、証拠と結束を固めなければならない。
そして組合もまた、残された時間の中で、次の一手を打ってくるはずだった。
静かな均衡の中、ソルヴィン村の運命を左右する十日間が、動き出そうとしていた。




