第51話 監視の目
ソルヴィン村の朝は、以前とは違う空気に包まれていた。
集会所の教室には、レイナをはじめとする子供たちの声が響く。文字を覚えることへの渇望は、村を覆う不穏な緊張の中でもむしろ強まっているようだった。バートラムは村長としての職務の合間を縫って教室に顔を出し、自らも文字を学びながら、村人たちの証言を丹念に集めていた。
「村長、また一件見つかりました」
ノアが分厚い紙束を抱えて駆け込んできた。彼が整理を手伝っている証文の山は、日を追うごとに厚みを増している。
「延滞条項の書き足しか?」
バートラムが眉根を寄せて尋ねる。
「はい。しかも今回のは、証人欄にバートラム村長の署名がありません。つまり……」
「つまり、儂すら知らぬところで、勝手に条件が書き換えられていたということだ」
バートラムは苦い顔で紙を受け取った。かつて自分が信頼していた組合の仕組みが、村人たちの知らぬ間に、いや村長である自分すら気づかぬ間に、じわじわと村を蝕んでいた事実を突きつけられるたび、彼の表情は険しくなっていく。
「これで十六件目です」
エマが証拠の一覧表に丁寧な字で書き加える。彼女の文字は最初の頃と比べ、見違えるほど整っていた。
「十六件……」
レオはその数字を見つめながら、静かに息を吐いた。証拠は着実に積み上がっている。だが、それだけでは足りない。この村がヴォルフ子爵領に編入されるという「結論」がなければ、証拠の山はただの紙束に終わってしまう。
窓の外に目をやると、村の入り口付近に見慣れた男たちの姿があった。組合の「取り立て役」──がっしりとした体格で、腰に得物らしきものを提げた二人組が、今日も村の様子を窺っている。
「レオ様」
ミアが小声で近づいてきた。
「あの人たち、ここ数日、村の中を歩き回る時間が長くなっている気がします」
「僕もそう感じていた」
レオは頷いた。表向きは「組合の商取引の監督」という名目で村に留まっている男たちだが、その視線は明らかに教室の動向、そして証拠集めの進捗を探るものだった。
「向こうも焦っているんだろうね。編入の申請期限まで、もう一月を切っている」
「向こうが焦っているなら、何か仕掛けてくるということですよね」
ミアの声に緊張が滲む。レオは彼女を安心させるように微笑んだ。
「うん。だからこそ、僕らは油断せずに進めるしかない。証拠は多ければ多いほどいい。それに──」
レオは言葉を切り、教室の中で証文を読み解くレイナに目をやった。
「証拠だけじゃなく、村人自身が『自分の頭で』不正を見抜けるようになることが、一番の力になる」
ガレットの言葉が、遠く離れたこの村でも生きていた。
その頃、エルバン村では、ソルヴィンから戻ったガイウスが、ヴォルフ子爵の館へと急いでいた。
「子爵閣下に火急の用件があるとのことで参りました」
家令に取り次ぎを頼むと、思いのほか早く謁見の間へ通された。ヴォルフ子爵は、先の視察でエルバン村の実情を目の当たりにして以来、アルダート伯爵家の長男に対して一定の敬意を払うようになっていた。
「ガイウス殿。ソルヴィンへ向かわれたと聞いていたが、その顔つきを見るに、穏やかな話ではなさそうだ」
「単刀直入に申し上げます。ソルヴィン村は現在、グリンウォード交易組合による組織的な搾取の実態が明らかになりつつあります。そして組合は、グレイシャー辺境伯家の代理を通じ、ソルヴィン村を辺境伯領へ編入することで、不正な取引構造をそのまま合法化しようと画策しています」
子爵の眉が跳ね上がった。
「辺境伯領への編入……だと」
「はい。申請期限は、あとひと月足らず。もしこのまま辺境伯領に組み込まれれば、ソルヴィン村の人々は法の外で、組合の言いなりのまま搾取され続けることになるでしょう」
ガイウスは一拍置き、真っ直ぐに子爵を見つめた。
「閣下にお願いがございます。ソルヴィン村を、ヴォルフ子爵領への編入という形で、組合の手から守っていただきたいのです」
謁見の間に沈黙が落ちた。子爵は椅子の肘掛けを指先で叩きながら、しばらく考え込んでいた。
「……ガイウス殿。それは容易な話ではない。ソルヴィンはこれまで統治の空白地帯として、いずれの領地にも属さずにきた土地だ。今さら儂が手を挙げれば、グレイシャー辺境伯家との間に軋轢が生まれる。下手をすれば、国境紛争にすら発展しかねん」
「承知しております。ですが、閣下」
ガイウスは膝をつき、深く頭を垂れた。
「エルバン村の視察で、閣下ご自身が目にされたはずです。文字を学んだ村人たちが、いかに不正を見抜き、いかに自らの力で立ち上がったか。ソルヴィンの人々にも、同じ機会を与えていただきたい。それは閣下の領地を富ませることにも、必ずや繋がります」
子爵はしばし目を閉じ、やがて低く呟いた。
「……儂も、あの視察の日を忘れてはおらぬ。ガレットという老農夫の帳簿、ノアという少年の記録、そして何より、レオ殿が育てた村人たちの『考える力』。あれは紛れもなく、儂の税収を守る力でもあった」
子爵は目を開き、ガイウスを見据えた。
「よかろう。正式な編入の検討に入る。だが条件がある」
「何なりと」
「儂自身が、ソルヴィンの実情をこの目で確かめねばならぬ。証拠が十分であること、そして村人たちが本当に、組合ではなく儂の領地に加わることを望んでいること。その両方が確認できねば、儂は動けぬ」
「承知しました。すぐに手配いたします」
ガイウスは深く頭を下げながら、内心で安堵の息をついた。だが同時に、時間との勝負がいよいよ本格化したことも悟っていた。
編入の申請期限まで、残された猶予はあまりにも少ない。
ソルヴィン村では、夜が更けていた。
レオが集会所を出て宿へ戻ろうとしたとき、暗がりから声がかかった。
「レオ殿」
振り返ると、バートラムが一人、月明かりの下に立っていた。その表情はどこか思い詰めたものだった。
「村長、どうされました」
「先ほど、取り立て役の男たちが、儂のところへ来た。『編入の申請書類への署名を、そろそろ用意しておけ』と」
レオの目が細くなる。
「向こうは、もう既定路線として進めるつもりのようですね」
「ああ。それだけではない。……レイナの父親を、近々村に『一時帰還』させると言ってきた」
「それは……」
「儂には分かる。あれは温情などではない。人質を村に置くことで、レイナやサラが証言を翻すよう仕向けるつもりなのだろう」
バートラムの拳が震えていた。
「レオ殿。儂はもう、組合の言いなりにはならぬと決めた。だが、レイナの父親が人質同然に扱われるとなれば、村人たちの心が揺らぐやもしれぬ」
レオは静かに、しかし力強く答えた。
「揺らぐかもしれません。それでも──」
彼は夜空を見上げた。エルバンで見たのと同じ星が、ここソルヴィンの空にも瞬いている。
「揺らいだときにこそ、自分の頭で考える力が試されるんです。僕らがすべきことは変わりません。証拠を積み上げ、村人たち自身が正しい選択をできるよう、支え続けるだけです」
バートラムは長い沈黙の後、深く頷いた。
「……分かった。儂も腹を括ろう」
二人の視線の先、村の入り口では今夜も、取り立て役の男たちの持つ松明の火が、闇の中に不気味に揺れていた。
組合の反撃は、静かに、しかし確実に村へと近づきつつあった。




