第50話 ひと月の始まり
ダレンとモーガンが去った翌朝、バートラムの屋敷には村の主だった顔ぶれが集まっていた。レオ、ミア、ノア、エマ、ガイウス、そしてサラをはじめとする証文の被害を受けた村人たち。誰の顔にも、昨日の緊張がまだ色濃く残っていた。
「まず、状況を整理しましょう」
レオは持参した紙に、これまでの経緯を簡潔に書き出しながら言った。
「向こうの狙いは、おそらく二つ。一つは、辺境伯領への編入という形で、統治の空白を埋めると同時に、組合との不正な取引関係を『合法的な既存の商習慣』として固定化すること」
「もう一つは?」
ガイウスが問う。
「時間稼ぎです。ひと月という期限を切ることで、こちらの調査や、王都への働きかけが間に合わないようにする狙いもあるでしょう」
バートラムが重い息を吐いた。
「では、私たちが取るべき道は?」
「二つあります」
レオは指を二本立てた。
「一つ目は、証文の不正の証拠を、これまで以上に確実なものにすること。曖昧な疑惑ではなく、誰の目にも明らかな不正として、揺るぎないものにする必要があります」
「二つ目は」
「編入によらない、村の正式な帰属先を確保することです。バートラム様、グレイシャー辺境伯領ではなく、ヴォルフ子爵領への編入という選択肢は考えられませんか」
その提案に、部屋がざわめいた。
「ヴォルフ子爵領に……?」
バートラムが目を見開く。
「ヴォルフ子爵は、エルバン村での一件を経て、少なくとも組合の不正には一定の警戒心を持っています。完全に信頼できる相手とは言えませんが、グレイシャー辺境伯家よりは、組合との癒着が薄いはずです」
ガイウスが顎に手を当てながら続けた。
「それに、ヴォルフ子爵領に編入されれば、エルバン村との連携も取りやすくなる。統治者としての実績も、既に一定の評価を得ている」
「ですが、ヴォルフ子爵がソルヴィン村を受け入れる保証はありません」
エマが冷静に指摘した。もっともな懸念だった。
「そこは、私が動きましょう」
ガイウスが静かに言った。
「父上の名代として、ヴォルフ子爵に正式な打診を行います。エルバン村での実績があれば、決して無謀な提案ではないはずだ」
「兄上、また無理を……」
「無理などしていない。むしろ、これは私自身がやるべきことだと思っている」
ガイウスの声には、以前のような気負いはなく、静かな決意が滲んでいた。
話し合いはその後も続き、役割分担が決まっていった。ノアとエマは証文の証拠固めを引き続き担当し、ミアは村の女性たちを中心に、証文の内容を丁寧に確認していく作業を進める。バートラムは村人たちの不安を鎮め、まとめ役として動く。そしてガイウスは、ヴォルフ子爵への打診のため、一度エルバン村へ戻ることになった。
「レオ、お前はどうする」
ガイウスの問いに、レオは少し考えてから答えた。
「私はここに残ります。証拠固めを続けながら、村人たちが自分の力で読み解けるよう、教える手を止めません」
「教育か」
ガイウスは小さく笑った。
「お前らしいな」
翌日から、ソルヴィン村での日々は、これまで以上に密度の濃いものになった。寺子屋の授業は、朝と夕方の二部制に拡大され、大人も子供も、それぞれの都合に合わせて学べるようになった。
「レイナ、随分と読むのが早くなったな」
レオが声をかけると、少女は誇らしげに胸を張った。
「お母ちゃんにも教えてるの。二人で、お父ちゃんの証文、全部読めるようになるんだ」
その姿を見て、サラが目を細めた。
「あの子が、こんなに前向きになるなんて……。以前は、いつも誰かの顔色を窺うような子だったのに」
「学ぶことは、自分の足で立つための力になります。レイナちゃんは、それを誰よりも早く感じ取ったんでしょう」
授業の合間、ミアが村の女性たちを集めて開いた小さな集まりでは、これまで表立って声を上げられなかった不満や不安が、少しずつ言葉になって溢れ出していた。
「うちも、同じような追記があったかもしれない」
「あの時、急いで署名させられたのを覚えてる」
一人の証言が、また別の記憶を呼び起こす。証拠は着実に積み上がっていった。
一方、バートラムは村の男たちを集め、組合との過去の取引記録を洗い出す作業を進めていた。
「これまで、疑うことすら許されない空気があった」
一人の農夫がぽつりと漏らした。
「でも、こうして一つひとつ確かめていくと……。おかしいところが、次々に見えてくる」
夜、宿に戻ったレオのもとに、その日の成果がミアから報告された。
「新たに三件、後付けの条項が見つかりました。これで、確認できただけで十五件です」
「十分な数だ」
レオは静かに頷いた。だが、その表情には安堵と同時に、緊張の色も浮かんでいた。
「向こうも、黙って見ているだけではないはずだ。ひと月という期限、そのうちのどこかで、必ず次の一手を打ってくる」
窓の外、月明かりに照らされた村は、静かでありながら、確かな変化の胎動を秘めていた。ソルヴィン村の、長い一月が始まろうとしていた。




