第44話 小さな教室、大きな一歩
バートラムから正式な許可が下りた翌日、村の集会所の一角が急遽片付けられ、簡素な寺子屋が姿を現した。エルバン村のものに比べればまだ手狭で、机代わりの木箱がいくつか並んでいるだけの粗末なものだったが、レオにとってそれは何よりの一歩だった。
「まさか、村長様公認になるとはな」
ガレットの言葉を思い出しながら見守っていたミアが、感慨深げに呟いた。
「エルバンでも、最初はこんな感じでしたね」
「ああ。ここから始まるんだ」
初日に集まったのは、レイナを含めてわずか五人。だが、その中には昨日まで遠巻きに様子を窺っていた子供たちの姿もあった。
「本当に、字が読めるようになるの?」
一人の少年が半信半疑の顔で尋ねる。ノアがすかさず胸を張った。
「俺だって最初はそう思ってたさ。でも今じゃ、帳簿だってつけられる。父ちゃんの薬の量だって、間違えずに量れるようになったんだ」
その言葉に、子供たちの目の色がわずかに変わった。
授業は、エルバン村で磨き上げてきた「文字かるた」から始まった。遊びの形を取ることで、緊張していた子供たちの表情も次第にほぐれていく。レイナは誰よりも熱心に、かるたを何度も何度も繰り返しなぞっていた。
「レイナ、随分と真剣だな」
レオが声をかけると、少女は顔を上げずに答えた。
「早く覚えて、お父ちゃんの証文、自分で読みたいの。お母ちゃんだけに任せられない」
その言葉に、レオは胸を打たれた。エルバン村で見てきた光景と同じだ。学ぶ動機は、いつも切実な現実の中から生まれる。
授業が終わりかけた頃、集会所の入り口に人影が現れた。振り返ると、そこに立っていたのはサラだった。心配そうな顔で中を覗き込んでいる。
「あの……レイナが、ちゃんとご迷惑をかけていないか、気になって」
「迷惑どころか、一番の頑張り屋さんですよ」
ミアが微笑みながら答えると、サラの強張っていた表情がわずかに緩んだ。
「もしよろしければ、サラさんも。大人の方の時間も、後日別に設けようと思っています」
「わ、私が……?」
サラは戸惑いを見せたが、レオは静かに続けた。
「証文を読み解くには、大人の理解も必要です。レイナちゃんだけに背負わせるわけにはいきません」
サラはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……教えて、いただけますか。主人を、取り戻すために」
その日の夕方、レオたちが宿へ戻る道すがら、村の広場で異様な集団を見かけた。粗末な身なりの、しかし目つきの鋭い男たちが数人、井戸の傍で何やら話し込んでいる。村人ではない、余所者の気配だった。
「あれは……?」
ミアが眉をひそめる。ノアが小声で言った。
「なんか、柄悪いな。組合の連中か?」
その時、男たちの一人がこちらに視線を向けた。値踏みするような、冷ややかな目だった。すぐに逸らされたが、レオの背筋に冷たいものが走った。
宿に戻ってから、バートラムのもとを訪ねたレオは、その男たちについて尋ねた。バートラムの顔が、わずかに曇る。
「……あれは、組合の『取り立て役』です。証文の返済が滞っている家を、定期的に見回っているのですよ」
「取り立て役?」
「表向きは、返済状況の確認ですが……実質的には、脅しに近い。村の中で、逆らう者が出ないようにする見張りのようなものです」
レオの脳裏に、レイナの怯えた顔がよぎった。あの子供たちの目に浮かんでいた複雑な色──それは、こうした日常的な圧力の中で育まれたものだったのだ。
「バートラム様、寺子屋のことは、組合に知られていますか」
「まだ、表立っては。ですが……」
バートラムは言葉を濁した。
「時間の問題でしょう。この村は狭い。噂はすぐに広まります」
その夜、宿の一室で、レオたちは静かに話し合った。ランプの灯りが、それぞれの真剣な表情を照らし出す。
「エルバンの時とは、違う難しさがありますね」
エマが呟く。
「あそこには、まだ村全体が組合から直接支配されてはいなかった。でもここは……」
「もう、村の隅々まで、組合の影が染み込んでる」
ノアが続けた言葉に、全員が頷いた。
レオは証文の写しを、改めて見つめた。ソルヴィン開発組合という名の仮面の下に潜む、グリンウォード交易組合の存在。それはただの偶然の一致ではなく、明確な意図を持った拡張の一環に違いなかった。
「焦らず、確実に。だが、時間はそう多くないかもしれない」
レオの呟きに、ミアが静かに答えた。
「大丈夫です。エルバンでも、少しずつ積み重ねてきました。ここでも、同じように」
窓の外、井戸の傍にいた男たちの姿はいつの間にか消えていた。だがその不穏な気配だけは、村の空気に確かに染み込んだまま残っていた。




