第42話 読めない証文
レイナは毎晩、宿の裏口からそっと現れるようになった。誰にも見つからないようにと、母親からきつく言い含められているのだという。
「お母ちゃんが……村長さんに知られたら、もっと悪いことになるかもって」
その言葉に、レオたちは顔を見合わせた。エルバン村での組合との攻防とは、何かが違う。ここには「見せしめ」の気配がある。
「まずは基本からだ。慌てなくていい」
レオはかるたを取り出しながら、努めて明るく言った。レイナは小さく頷き、震える指で文字をなぞり始めた。
一時間ほど経った頃、彼女がぽつりと呟いた。
「お父ちゃんが街に行く前、家にいっぱい紙があったの。難しい字がたくさん書いてある紙。お母ちゃんが『これはただの確認だから』って、隅の方に指の跡をつけて……」
「指の跡?」
ミアが敏感に反応した。エルバン村でも、文字の読めない村人が「同意した証」として指印を押す慣習があった。
「その紙、まだ家にある?」
「お母ちゃんが、大事にしまってる。時々出して、じっと見てる。何が書いてあるのか、知りたいけど怖いって……」
レオの中で、点と点が繋がり始めていた。
翌朝、レオはガイウスから預かった紹介状を懐に、村の外れにある小さな家を訪ねた。レイナの母、サラという名の女性は、突然の来訪者に警戒を露わにした。
「あなたが、レイナに文字を教えてる……?」
「はい。もし差し支えなければ、少しお話をうかがえませんか」
サラは長い沈黙のあと、ようやく戸を開けた。家の中は質素で、隅の棚には確かに、丁寧に折りたたまれた紙束があった。
「あれが、その証文ですか」
サラは頷いた。
「三年前、作物が不作で……お金を借りたんです。ソルヴィン開発組合というところから。返せなければ、労役で返すという話でした」
「ソルヴィン開発組合?」
初めて聞く名だった。レオが問い返すと、サラは苦しげに続けた。
「バートラム様が仲介してくださって……。でも、いざ返せなくなったら、主人は街の工房に連れて行かれて……。いつ帰れるのか、いくら返せば終わるのか、誰も教えてくれないんです」
レオは紙束を見せてもらえないかと頼んだ。サラは躊躇いながらも、震える手でそれを差し出した。
広げてみると、そこには複雑な言い回しで綴られた条項が並んでいた。前世の記憶にある「悪質な契約書」の典型──曖昧な返済条件、際限なく膨らむ利子の但し書き、そして最後に、見慣れない紋章の押印。
グリンウォード交易組合の紋章と、酷似していた。
「これは……」
背後から覗き込んだミアが息を呑んだ。
「レオさん、これ、エルバンで見た組合の書式とそっくりです。言い回しの癖まで、同じ」
「『ソルヴィン開発組合』というのは、名前を変えただけの別動隊かもしれない」
レオは静かに、しかし確信を込めて言った。
サラの顔から血の気が引いた。
「まさか……村長様が、あの組合と……?」
その問いに、レオは即答できなかった。だが、バートラムの昨日の態度──かるたを見た時の値踏みするような視線、レイナを慌てて遠ざけたあの様子を思い出せば、答えは自ずと見えてくる。
「サラさん、この証文、一度きちんと読み解かせてもらえませんか。何が書かれていて、何が書かれていないのか。それが分かれば、次の一手が見えてきます」
サラはしばらく紙束を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「……お願いします。主人を、取り戻したいんです」
その夜、宿に戻ったレオたちは、証文の写しを前に額を突き合わせた。ノアが持参した帳簿とにらめっこしながら唸る。
「利子の計算、おかしいぜ。これ、絶対に返せない額になるように仕組んである」
「エルバンの時と同じ手口ですね」
エマが険しい顔で言った。ミアはランプの灯りの下、証文の隅々まで目を凝らしている。
「レオさん、これ……。バートラムさんの署名、証人の欄にあります。仲介者じゃなくて、証人として」
つまりバートラムは、この搾取の構造を知りながら、村人たちを送り込む役割を担っていたことになる。
「歓迎してくれた笑顔の裏に、これがあったのか」
レオは静かに紙を置いた。だがその胸には、怒りよりも、もっと冷静な決意が灯っていた。エルバン村で積み重ねてきた経験がある。読めない者が騙されるなら、読めるようにすればいい。ただそれだけのことだ。
「明日から、少しずつ動き出そう。まずはレイナの家族から。焦らず、確実に」
窓の外、ソルヴィン村の夜は静かだった。だがその静けさの下で、村はすでに、ゆっくりと変わり始めていた。




