第41話 歓迎の影
ソルヴィン村の広場には、エルバン村よりもいくぶん立派な井戸があった。石組みも新しく、村長バートラムが胸を張って「三年前に組合の援助で作り直した」と語ったとき、レオの背筋にわずかな緊張が走った。
「エルバン村の噂は、ここまで届いておりますよ」
バートラムは笑みを崩さない。恰幅のよい体に、糊のきいた上着。村長というより、どこか商人めいた物腰だった。
「識字率が上がって、村の暮らしが良くなったとか。にわかには信じがたい話ですが……この目で見てみたいと思いましてな」
「ご期待に沿えるかは分かりませんが」
レオは慎重に言葉を選んだ。ガレットの助言が耳に残っている。答えを与えるのではなく、きっかけを渡すだけでいい。
ミアが一歩前に出て、持参した文字かるたの包みを掲げた。
「まずは、実際にご覧いただくのが一番かと思います。よろしければ、子供たちに」
「ほう」
バートラムの目が一瞬、かるたに走った。歓迎の色の下に、値踏みするような光がよぎったのをレオは見逃さなかった。
案内された広場の隅では、すでに十人ほどの子供が集まっていた。だが様子がおかしい。誰もが遠巻きに、探るような目でこちらを見ている。
「人見知りな子が多いもので」
バートラムがそう言ったが、ノアが小声で呟いた。
「……なんか、エルバンの最初の頃と違うな。あの子たち、興味より先に、大人の顔色見てる」
レオも同じことを感じていた。エルバン村の子供たちは最初、無関心か反抗的だった。だがこの子供たちの目には、もっと複雑な色がある。怯えに近い何かだ。
その時、群れの中から一人の少女が、こそっと前に出てきた。年齢は十歳前後、粗末な服を着て、頬に泥がついている。
「ねえ……」
小さな声だった。バートラムがぎょっとした顔で振り返る。
「これ、レイナ。勝手なことを──」
「いいんです」
レオは片手を上げて村長を制した。少女──レイナと呼ばれたその子は、かるたの一枚を指差していた。
「これ、なんて書いてあるの?」
「『いえ』、家って字だよ」
レオが答えると、レイナの目が丸くなった。それから彼女は、汚れた指で自分の腕に何かを書く真似をした。
「あたし……これ、書けるようになったら……お父ちゃんに、手紙、書ける?」
その言葉の端に滲む何かに、レオは違和感を覚えた。単なる憧れにしては、声が硬い。
「お父さんは、遠くにいるの?」
問いかけた瞬間、バートラムが割って入った。
「さあさあ、レイナ、邪魔をしてはいけないよ。皆さんもお疲れでしょう、まずは宿へご案内しましょう」
有無を言わさぬ調子だった。レイナは何か言いかけたが、すぐに大人たちの背後に押しやられるように消えていった。
「……気になりますね、今の子」
ミアが小声で言う。エマも頷いた。
「あの子、お父さんのこと聞かれた時、顔が強張ってました」
夕刻、宿として用意された空き家に落ち着いたところで、レオたちは顔を突き合わせた。
木の椅子はどれも古びて軋み、隙間風が入る粗末な部屋だったが、それはエルバン村の最初の頃を思い出させて、むしろ懐かしかった。
「バルトさんが言ってたよな。ソルヴィンにも組合の影響が及んでるかもって」
ノアが言うと、ガレットの言葉を思い出したミアが眉をひそめた。
「あの井戸も、組合の援助で作ったって言ってましたよね。それに、レイナちゃんの様子……」
「借金の形に、誰かが連れて行かれた……とか」
エマが恐る恐る口にした言葉に、部屋の空気が重くなった。
その夜遅く、宿の戸を叩く音がした。全員が息を潜める中、ドアの隙間から小さな声が聞こえた。
「……あの、お願いがあるの」
戸を開けると、そこに立っていたのは、昼間のレイナだった。月明かりの下、彼女の頬には涙の跡があった。
「あたしに、字、教えて。誰にも内緒で……お願いします」
レオは膝をつき、少女と目線を合わせた。
「もちろん、教えるよ。でも……何があったのか、聞いてもいいかな」
レイナは唇を噛みしめ、しばらく黙っていた。それから、絞り出すような声で言った。
「お父ちゃん、村長さんに借りたお金が返せなくて……。今、街の方に、働きに出されてるの。契約書に何が書いてあったのか、お母ちゃんも読めなくて……いつ帰ってこられるのか、誰も分からないの」
静寂が部屋を満たした。
レオの脳裏に、エルバン村で見た光景が重なる。読めない契約書。逃れられない借金。搾取の構造は、村を変えても形を変えて残り続けるのか。
「教えてあげよう」
レオは静かに、しかしはっきりと言った。
「文字が読めれば、その契約書に何が書いてあるか分かる。それが、お父さんを取り戻す第一歩になるかもしれない」
レイナの目に、初めて怯え以外の光が灯った。
窓の外では、月がソルヴィン村を静かに照らしていた。だがその静けさの奥に、レオたちはまだ見ぬ村の闇の輪郭を、確かに感じ取り始めていた。




