第39話 旅立ちの準備
ソルヴィン村への訪問が正式に決まったのは、それから数日後のことだった。ドノヴァンとソルヴィン村長との間で書状が交わされ、ひと月後、レオたちが正式に村を訪れる運びとなった。
その報せを受けて、寺子屋には新たな熱気が生まれていた。
「ソルヴィンに行くなら、何を持っていくか考えねぇとな」
ノアが板に文字を書きながら言った。
「かるたは絶対持ってくだろ。あとは……」
「帳簿のつけ方も、教えられるようにしておいた方がいいと思う」
ミアが答える。
「向こうも組合との取引で苦労してるなら、まずは自分の村の記録をきちんと残すことから始めるべきだから」
レオはその様子を見ながら、静かに頷いた。半年前まで「教わる側」だった二人が、今では「何を教えるべきか」を自分たちで考えている。その変化こそが、レオが本当に望んでいたものだった。
エマがそっと手を挙げた。
「わたしは、ソルヴィンの人たちに、どうやって声をかけたらいいでしょうか。急に『文字を教えます』と言われても、警戒されるんじゃないかと」
「いい質問です」レオは頷いた。「実は、私たちがこの村で最初に苦労したのも、そこでした。覚えていますか、ミア。最初はあなた一人から始まった」
ミアは少し照れたように微笑んだ。「はい。あのときは、文字を覚えることが怖いとさえ思っていました」
「だから、ソルヴィンでも同じように、まずは一人からでいい。無理に大勢を相手にしようとせず、興味を持ってくれた人と、じっくり向き合うことから始めましょう」
その言葉に、ミアたちは顔を見合わせて頷いた。
準備が進む一方で、レオの心には小さな懸念もあった。バルトが残した「組合がソルヴィンで先手を打っているかもしれない」という言葉が、頭の片隅から離れなかった。
その夜、レオはガレットの家を訪ねた。ガイウスが実家へ戻ってから半月、村はすっかり落ち着きを取り戻していたが、レオは念のため、経験豊富なガレットの意見を聞いておきたかった。
「ソルヴィンか」
ガレットは炉端で煙管をふかしながら言った。
「儂は行ったことねぇが、噂じゃ、うちよりも組合の縛りが強い村らしいな」
「縛りが強い、というのは」
「取引の窓口が一本化されてるとか、そんな話だ。組合が村の中に直接、代理人を置いてるとかいう噂も聞いたことがある」
レオは眉をひそめた。「代理人、ですか」
「ああ。村の中に、組合の息のかかった者がいりゃ、儂らみてぇに村人が団結して声を上げるのも、そう簡単にはいかねぇだろうな」
その言葉に、レオは背筋が冷たくなるのを感じた。エルバン村の戦いは、村人たちが一丸となれたからこそ勝ち取れたものだ。もしソルヴィンで、内部から分断されているとしたら──。
「気負いすぎるなよ、レオ」ガレットが煙管を置いて言った。「儂らだって、最初から一枚岩だったわけじゃねぇ。儂自身、最後まで意固地に反対してた口だ。それでも、変われた」
「はい」
「大事なのは、答えを持っていくことじゃねぇ。向こうの村人たちが、自分たちで考えて、自分たちで答えを出せるように、手伝ってやることだ。お前がこの村でやってきたのと、同じようにな」
レオは深く頷いた。
「そうですね……焦っていたかもしれません。ソルヴィンを『助けなければ』という気持ちが先走って」
「助けるんじゃねぇ。きっかけを渡すだけだ。あとは向こうの村人次第よ」
ガレットの言葉に、レオは前世の教師時代を思い出した。生徒に答えを教えることと、生徒が自分で答えにたどり着く手助けをすることは、まったく違う。それを一番よく分かっていたはずなのに、いつの間にか忘れかけていたのかもしれない。
「ありがとうございます、ガレットさん」
「礼はいらねぇ。儂だって、お前に教わった側だ。少しは恩返しさせてもらわねぇとな」
外へ出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。空にはもう、冬の気配を帯びた星々が瞬いている。
レオは寺子屋への道を歩きながら、ソルヴィンへの旅を思った。エルバン村での日々が、そのまま同じ形で通用するとは限らない。新しい村には、新しい事情があり、新しい困難があるだろう。
だが、それでも──。
きっかけを渡すだけでいい。答えは、彼らの中にある。
レオは静かに、けれど確かな足取りで、月明かりの下を歩き続けた。ひと月後に迫ったソルヴィンへの旅立ちに向けて、村全体が、新たな一歩を踏み出そうとしていた。




