第38話 隣村からの噂
第37話から半月が過ぎた。
エルバン村は、あの視察の日を境に、目に見えて活気づいていた。子爵からの正式な沙汰が届き、寺子屋は「エルバン村教育活動」として正式に認可された。組合の帳簿精査も進められているという話が、行商人を通じて時折村に届いた。
そんなある日の午後、寺子屋に見慣れない顔が現れた。旅装の若い男──隣村ソルヴィンから来た行商人、バルトだった。
「すまねぇ、邪魔するよ。噂を聞いてね」
授業の最中だったノアが顔を上げた。
「噂って?」
バルトは興味津々といった様子で、集会所の中を見回した。
「エルバン村じゃ、村人がみんな字を読み書きできるって話、本当だったんだな」
「みんなってわけじゃないですが」
ミアが応じた。
「でも、この村の大人も子供も、かなりの人が読み書きできるようになりました」
バルトは感心したように頷いた。
「いやぁ、隣のソルヴィンじゃ、この話で持ちきりだよ。『エルバン村は文字を覚えて、組合の不正契約を見破った』ってな」
レオは筆を止めて、バルトの方を向いた。「その噂は、どこから」
「そりゃあ、あちこちからさ。行商人仲間の間でも話題だし、子爵様の視察の件も、もう領内じゃ知らねぇ者はいないくらいだ」
バルトは声を落とした。
「実はな、ソルヴィンでも、うちの村長がこの話に興味を持っててな。一度、様子を見に行かせてもらえねぇかって、俺が使いを頼まれたんだ」
村人たちの間にざわめきが広がった。ガレットが杖を突きながら進み出る。
「ソルヴィンからわざわざ、か。あそこも組合の商いに苦しめられてるって話は聞くが」
「ああ、うちも似たようなもんさ」
バルトは苦い顔をした。
「不作の年に不利な契約を結ばされたり、価格を後から吊り上げられたり。読み書きができりゃ、少しは違ったんだろうにって、村じゃずっと言われてたよ」
レオは少し考えてから言った。
「ソルヴィンの村長さんが望むなら、私たちにできることがあれば、力になりたいと思います」
バルトの顔がぱっと明るくなった。
「本当か! いやぁ、そう言ってもらえりゃ、村長も喜ぶ」
そのやり取りを、少し離れた場所で聞いていたエマが、レオに近づいてきた。
「レオ様、これって……」
「はい」
レオは頷いた。
「この村だけの話では、もう終わらないかもしれません」
その夜、ドノヴァンの家に村の主だった者たちが再び集まった。バルトの訪問について話し合うためだった。
「隣村に手を貸すこと自体は、儂も反対しねぇ」
ドノヴァンが言う。
「だが、うちの寺子屋の手が回るかどうかだ。今でさえ、村の子供らだけで手一杯なところもある」
「私も同じことを考えていました」
レオが応じた。
「でも、これはむしろ好機かもしれません」
「好機、というと」
「ミアや、教えることに慣れてきた生徒たちに、今度は『教える側』としてソルヴィンに関わってもらう。そうすれば、この村の教える力そのものが、もう一段階育つはずです」
ミアがはっとした顔でレオを見た。
「わたしが……ソルヴィンへ?」
「無理にとは言いません。でも、ミアなら、きっとできると思います」
ミアはしばらく黙っていたが、やがて小さく、けれど確かな声で言った。
「やってみます。わたしも、誰かに教わる側から教える側になって、分かったことがあるから」
ノアも手を挙げた。
「俺も行く。水車小屋の記録つけた話、ソルヴィンの奴らにも聞かせてやりてぇしな」
ガレットが呆れたように笑った。「お前は自慢したいだけだろう」
「悪いかよ!」
笑いが起こる中、ドノヴァンが締めくくるように言った。
「よし、ならばひとまず、ソルヴィンの村長殿に返事を送ろう。近いうちに、こちらから何人か赴かせていただく、とな」
バルトは翌朝、村を発つことになった。見送りに出たレオに、彼は少し声を落として言った。
「なあ、レオ様よ。一つ、気になる話があるんだが」
「なんでしょう」
「ソルヴィンにも、実はグリンウォード組合の息のかかった連中がいてな。あんたらの噂を、あんまり良く思ってねぇ奴らもいるって話だ」
バルトは周囲を気にしながら続けた。
「エルバン村でしくじった分、次はソルヴィンで先手を打とうとしてるんじゃねぇかって、そう睨んでる奴もいる」
レオの表情が引き締まった。「組合が、すでにソルヴィンで動いていると?」
「まだ噂の段階だ。でも……気をつけた方がいい」
バルトはそう言い残し、街道の向こうへと去っていった。
レオは村の入口に立ち、遠ざかる旅人の背を見送りながら、静かに拳を握った。
ダレンが向かった先は、王都ではなかった──
第二部で村を守り抜いた戦いは、今、村の外へと舞台を広げようとしていた。エルバン村の灯りは、隣村ソルヴィンへと届き始めている。だがその道の先には、すでに新たな影が忍び寄っていた。




