第37話 静けさの後で
視察の翌日、村は祭りの後のような、けれど確かな余韻に包まれていた。
広場に並べられた卓はまだそのままで、子供たちが代わる代わる帳簿や手紙を見ては、誇らしげに友達に見せ合っている。ノアは自分の水車小屋の記録が「閣下に褒められた」ことを、もう三回は自慢げに語っていた。
「いい加減にしろ、その話」ミアが呆れたように笑う。
「いいだろ別に!俺の帳面が村を救ったんだからよ」
「救ったのはノアだけじゃないでしょ。みんなでしょ」
「分かってるって。でも俺の帳面がなきゃ、水車小屋の話はどうにもならなかったのは本当だろ」
そのやり取りに、周りの子供たちがどっと笑った。緊張が解けた分、村には久しぶりの明るい空気が満ちていた。
レオはその様子を眺めながら、ドノヴァンの家の前でガイウスと並んで立っていた。
「兄上は、いつ実家へ戻られるのですか」
「明日には発つ」
ガイウスは腕を組んだまま答えた。
「これ以上長居すれば、父上への言い訳が難しくなる」
「昨日は、ありがとうございました。兄上の助言がなければ、閣下の心を動かせなかったかもしれません」
ガイウスは横目でレオを見た。「勘違いするなよ。私はただ、貴族としての駆け引きを教えただけだ。村を変えたのは、お前とここの村人たちだ」
「それでも、感謝しています」
しばしの沈黙のあと、ガイウスがぽつりと言った。
「……実家に戻ったら、父上には正直に報告する。四男が、辺境で何を成し遂げたか」
「怒られるかもしれませんよ。魔力なしが、伯爵家の名を騒がせていると」
「かもしれん」
ガイウスは小さく笑った。
「だが、事実は事実だ。曲げて伝えるつもりはない」
そこへ、ヴィンセントの名を耳にしたときとは明らかに違う、穏やかな足音が近づいてきた。振り返ると、ミアが茶を運んできたところだった。
「ガイウス様、よろしければ」
「ああ、すまない」
ガイウスは椀を受け取りながら、ふとミアを見た。
「お前が、ミアだったな。レオの──右腕、というやつか」
ミアは少し照れたように微笑んだ。
「そんな大層なものでは。ただ、レオ様に教わったことを、みんなに伝えているだけです」
「その『ただ』が、村を変えたわけだ」
ガイウスは茶を一口飲み、それから何気ない調子で付け加えた。
「弟をよろしく頼む。あれは要領が良くない分、放っておくと無理をする質だ」
「兄上」
「事実だろう」
ガイウスは涼しい顔で言った。
ミアは小さく笑い、頭を下げてその場を離れた。ガイウスはその背を見送りながら、独り言のように呟いた。
「悪くない村だ」
その言葉に、レオは胸の奥が温かくなるのを感じた。
一方、村はずれの林道では、別の空気が流れていた。ダレンを乗せた馬車が、街道の途中で一度止まっていた。ダレンは馬車の窓から、遠ざかるエルバン村を睨みつけていた。
「組合長」
御者が恐る恐る声をかける。
「このまま王都の本部へ?」
「いや」
ダレンは低く言った。
「まずは、別の場所へ向かう」
「別の、場所と申しますと」
ダレンの目に、昏い光が宿った。
「グレンモア地方には、エルバン村だけではない。この動きを、まだ知らぬ場所がある。今のうちに、手を打っておかねばな」
御者が息を呑む。
「まさか、他の村にも……?」
「いや」
ダレンは首を振った。
「今はまだ、村相手に構っている場合ではない。閣下の帳簿精査が入る前に、こちらの証拠を消し、味方を固めておく必要がある」
彼の脳裏には、王都に構える組合本部の重鎮たちの顔が浮かんでいた。この一件を単なる一地方の失態として処理させるか、それとも──もっと大きな力を動かすか。
「小僧一人と、辺境の村ごときに、儂らの商いを崩されてたまるか」
馬車は再び動き出し、王都とは反対の方角──組合の影響力がまだ及ぶ、別の街道へと進路を変えた。
エルバン村では、その夜、久しぶりに穏やかな夕食の席が設けられた。ドノヴァンの音頭で、村人たちが持ち寄った料理を囲み、笑い声が絶えなかった。
レオはその輪の中で、ふとミアと目が合った。彼女は少し照れたように微笑み、小さく会釈した。レオも自然と笑みがこぼれた。
「レオ様」隣に座ったエマが、静かに声をかけた。「これで、もう安心なんでしょうか」
レオは少し考えてから、正直に答えた。
「分かりません。ダレンさんの様子を見る限り、まだ何か動いているような気がします」
「怖くないんですか」
「怖いです」レオは微笑んだ。「でも、この半年で分かったことがあります。怖くても、みんなで考えれば、答えは見つかる。一人で抱え込まなくていい、ということです」
エマは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
夜が更け、宴が終わる頃、レオは一人、村の外れに立って夜空を見上げていた。星々が、以前この空の下で見たものよりも、どこか近く感じられた。
子爵は味方になった。組合は追い詰められた。でも──
ダレンの最後の眼差しが、脳裏から離れなかった。あれは、敗北を認めた者の目ではなかった。何かを企む者の目だった。
「本当の戦いは、これからかもしれないな」
レオは呟き、夜風に目を細めた。第二部の山場は越えた。だが、物語はまだ、次の局面へと動き出そうとしていた。




