第36話 組合長の弁明
ダレンの額に、うっすらと汗が滲んでいた。だが彼は、それでも商人らしい笑みを崩さなかった。
「閣下、お待ちください。数字の差異など、天候や収穫時期のずれ、記録方法の違いによって、いくらでも生じるものです。これをもって組合が不正を働いたと断ずるのは、いささか性急かと」
子爵は無言のまま、記録の束をめくり続けた。
「それに」ダレンは続けた。
「そもそも、この村の記録なるものが、どこまで正確か分かりません。ついこの半年前まで、文字すら読めなかった村人たちが作った帳簿です。誤りがあっても不思議ではございません」
「誤りがあるかどうかは」
レオが静かに言葉を挟んだ。
「照合すれば分かることです。組合側の帳簿と、村側の記録、両方を並べて検証すればいい。もし村の記録に誤りがあれば、それも含めて明らかになるでしょう」
ダレンの視線がレオへ向く。初めて、その目に隠しきれない苛立ちが浮かんだ。
「小僧が、口を挟むな。お前がこの村に何をしたか知らんが、しょせん子供の遊びに毛が生えた程度のことだろう」
「遊びかどうかは」
ガイウスが、一同の後方から進み出て言った。
「閣下がご自身の目で判断なさることだ。組合長ごときが決めることではない」
ダレンの表情が固まった。伯爵家の紋章を纏った青年が、こんな辺境の視察の場に立っている──その事実の重みを、今更ながら理解したようだった。
「アルダート伯爵家の……」
「私の弟が、この村で何をしてきたか。この目で確かめさせてもらった」
ガイウスは淡々と続けた。
「ダレン殿、あなたの言う『子供の遊び』が、水車小屋の使用権を巡る通告への反論書を書き上げ、あなた方の主張の矛盾を見事に指摘してみせた。あれもまた、遊びだったと?」
ダレンは答えなかった。子爵が低く言った。
「ダレン。お前は先の水車小屋の一件についても、儂に正式な報告を上げていなかったな」
「そ、それは些末な地域紛争と判断し……」
「些末、か」
子爵の声に、初めて明確な怒気が滲んだ。「儂の統治する領地内で、村と組合の間にこれほどの摩擦が生じていながら、儂の耳に入れなかった。それこそが、儂への不誠実ではないのか」
広場に沈黙が落ちる。村人たちは息を詰めて成り行きを見守っていた。
ダレンは唇を噛みしめ、それでも最後の反撃を試みるように口を開いた。
「閣下、お考え直しください。この村の識字化が広がれば、組合の商いは立ち行かなくなります。組合が立ち行かなくなれば、閣下への上納金も──」
その言葉が、決定的な失策だった。
村人たちの間に、はっきりとしたどよめきが走った。子爵の目が鋭く光る。
「今、何と言った」
ダレンは自分の失言に気づき、顔面が蒼白になった。「い、いえ、その、あくまで一般論として……」
「上納金のために、村の教育を潰せと。それが今、お前の口から出た言葉だな」
子爵の声は、静かだったからこそ、より一層冷たく響いた。
「ダレン。儂は、お前たちの上納金のために統治しているのではない。この領地と、そこに住む民のために統治している。もしお前たちの商いが、民を無知に留め置くことでしか成り立たぬというなら──」
子爵はそこで言葉を切り、広場に並んだ村人たちを見渡した。ガレットの帳簿、ノアの記録、エマの手紙、そして誰よりも真っ直ぐにこちらを見つめる村人たちの目。
「──その商いの方こそ、見直されるべきだろう」
ダレンが崩れ落ちるように後ずさった。
「閣下……」
「今日のところは、これ以上お前の弁明を聞く気にはなれん」子爵は背を向けた。「後日、正式に組合の帳簿を精査させてもらう。逃げも隠れもするなよ」
ダレンは何も言い返せず、ただ立ち尽くしていた。組合の従者たちが、主人の異変に気づき、おろおろと視線を交わしている。
子爵はレオの前に戻ってきた。その目には、先ほどまでの疑いの色は、もはやなかった。
「レオ・フォン・アルダートと言ったな」
「はい、閣下」
「お前の村の学びとやら、いや──」
子爵は言い直した。
「もはや村の学びではなく、この村そのものの姿を、儂は見た」
村人たちが固唾を呑んで見守る中、子爵は続けた。
「三日後、正式な沙汰を届ける。だが今日この場で言えることは一つだ」
子爵の視線が、広場全体をゆっくりと巡った。
「この寺子屋を、閉鎖する理由が見当たらん」
その言葉に、広場がわっと沸いた。ガレットが杖を突き上げ、ノアが飛び跳ね、エマが両手で顔を覆って涙をこぼした。ミアはレオの方を振り返り、満面の笑みを浮かべた。
だが子爵は、まだ言葉を続けていた。
「──ただし、これで終わりとは思うな」
歓声が、すっと静まる。
「組合との精算には時間がかかる。ダレンが素直に罪を認めるとは思えん。それに」子爵の目が、ダレンの一団へと向いた。「組合が黙ってこのまま引き下がるとも思えんな」
その言葉通り、ダレンは馬車へ向かいながら、レオに一瞥をくれた。その目には、敗北の悔しさだけでなく、昏い光が宿っていた。
「……覚えておけ、小僧」
ダレンは低く呟いた。
「儂らはこの程度で終わる組織ではない」
馬車が土埃を上げて去っていく。子爵の一団もまた、村を後にした。
広場に残された村人たちは、しばらく声もなく立ち尽くしていたが、やがてドノヴァンが大きく息を吐き、皆を見渡した。
「──勝った、と言っていいのかどうかは、まだ分からん。だが」
彼の声が、震えを帯びていた。
「今日、儂らは、儂ら自身の力で、この村を守った。それだけは、間違いねぇ」
歓声が、再び広場を満たした。レオは、隣に立つガイウスと目を合わせた。ガイウスは何も言わず、ただ小さく頷いた。
だが誰もが喜びに沸く中、レオの胸には、ダレンが最後に残した言葉が小さな棘のように残っていた。
儂らはこの程度で終わる組織ではない──




