第35話 視察、当日
視察の朝は、澄み渡る秋空だった。
村の広場には即席の卓が並べられ、ガレットの帳簿、ノアの水車小屋使用料の記録、エマが写し取った母の手紙、そして子供たちが練習してきた文字の数々が、丁寧に並べられていた。
村人たちは普段着のまま、しかし誰もが背筋を伸ばして立っていた。飾り立てる必要はない。ここにあるのは、飾らない日々の積み重ねそのものだった。
やがて街道の向こうから、二つの一団が同時に姿を現した。一方はヴォルフ子爵の紋章を掲げた行列、もう一方はグリンウォード交易組合の馬車──組合長ダレンが自ら乗り込んでいた。
二つの一団が村の入口でほぼ同時に止まる。ダレンが馬車を降りながら、子爵の輿に恭しく一礼した。その表情には、余裕の笑みが張り付いている。
「閣下、本日はわざわざご足労いただき」
「お前が呼んだのだろう、ダレン」子爵は素っ気なく言い放ち、輿から降り立った。壮年の、鋭い目つきをした男だった。先の視察のときよりも、纏う空気が硬い。
村長ドノヴァンが進み出て、深く頭を下げた。「閣下、ようこそエルバン村へ」
子爵の視線が、広場に並べられた卓へと移る。「ふん。前回よりも大掛かりだな。見世物でも用意したか」
「見世物ではございません」ドノヴァンは静かに、しかし毅然と答えた。「この半年、村がどう変わったか。ありのままをご覧いただきたく」
子爵は無言で歩き出した。最初の卓には、ガレットが立っていた。
「儂の帳面です、閣下。以前は──」ガレットは古い、独自の記号だらけの帳面を差し出した。「こんな有様で、儂自身、去年の取引がいくらだったかも怪しいもんでした」
そして隣に、清書された新しい帳簿を並べる。数字と文字が整然と並び、一目で収支が分かるようになっている。
「これが今の帳面です。誤魔化しも、勘違いもねぇ」
子爵はしばらく両方を見比べていたが、何も言わなかった。ダレンが横から口を挟む。
「閣下、老人の趣味の帳簿付けに過ぎません。それより、私が申し上げたかったのは──」
「黙れ」子爵が短く遮った。「まだ見ている」
次の卓では、ノアが緊張した面持ちで水車小屋の使用料記録を広げていた。
「これは、水車小屋の使用料の記録です。誰が、いつ、いくら払ったか。全部つけてます」
子爵の目が記録に走る。日付、名前、金額──几帳面に整理された数字の列を、じっと見つめた。
「これを……お前が」
「へえ。最初は父ちゃんの手伝いのついでに。でも今は、これがねぇと、組合が水車小屋を勝手に取り上げようとしたとき、証拠にならなかった」
ダレンの表情に、初めて微かな動揺が走った。子爵がその変化を見逃さなかったのは、レオの目にも明らかだった。
三つ目の卓では、エマが母の手紙を差し出した。「これは、亡くなった母からの手紙です。文字が読めなかったときは、母が最期に何を伝えたかったのか、分かりませんでした」
子爵は手紙を受け取り、目を通した。しばしの沈黙のあと、それを丁寧にエマへ返した。
「……お前の母は、良い言葉を遺したな」
「はい」エマの目に涙が滲んだ。「今なら、分かります」
子爵は無言で最後の卓、収穫量の記録へと歩みを進めた。そこには、この一年の村の収穫が、組合を通さず村自身の手で記録された数字が並んでいた。
レオが進み出た。
「閣下、これまでこの村の収穫申告は、組合の言い値に頼らざるを得ませんでした。文字と数字が使えるようになった今、村は自らの手で正確な記録をつけられるようになりました」
子爵の目が細くなる。「それが、何を意味する」
「組合を通した申告と、村自身の記録との間に、少なからぬ差異があることに気づきました」レオは静かに、しかし明確に告げた。「その差の分だけ──もしかすると、閣下の正規の税収にも、影響があったのではないかと」
広場の空気が張り詰めた。ダレンの顔から、完全に笑みが消えた。
「な、何を根拠のないことを──」
「根拠なら、ここにあります」レオは記録の束を子爵の前に差し出した。「三年分の収穫記録と、組合を通じた申告額の比較です。閣下御自らご確認いただければ」
子爵はしばし記録に目を落とし、それからゆっくりとダレンへ視線を移した。その目には、先ほどまでとは異なる、冷ややかな光が宿っていた。
「ダレン」
「は、はい閣下」
「これについて、説明してもらおうか」
村の広場に、重い沈黙が落ちた。




