第34話 三日間
三日後の視察に向けて、村は静かな熱を帯びていた。
その日の夜、ドノヴァンの家に主だった者たちが集まった。レオ、ミア、ガレット、エマ、ノア、そして少し離れた場所に座るガイウスの姿もあった。
「見せるといっても、何をどう見せるかだ」ドノヴァンが皆を見渡す。「ただ子供らが字を書いてみせるだけじゃ、閣下の心は動かねぇだろう」
レオは頷いた。「大切なのは、識字が村の暮らしをどう変えたか、を見ていただくことだと思います。文字が読めることで、何を防げて、何を得られたか」
「なら、儂の帳面はどうだ」ガレットが自分の胸を叩いた。「五十年、独自の印だけで管理してきた儂が、今じゃちゃんとした帳簿をつけてる。これほど分かりやすい変化もなかろう」
「水車小屋の使用料の記録も、ノアがずっとつけてきましたよね」ミアが言うと、ノアが少し照れくさそうに頭をかいた。
「あれは……その、たまたま」
「たまたまでああも詳細な帳簿はつけられません」レオが微笑む。「ノアの記録が、組合の不当な取り消し通告に対抗する決め手になったんですから。閣下にも、その帳簿をお見せしましょう」
エマがそっと手を挙げた。「わたしは、母の手紙のことをお話ししてもいいですか。文字が読めなかったときは、母の最期の言葉さえ分からなかった。それがどれほど、辛いことだったか」
「ああ」ドノヴァンが頷く。「感情に訴えるのも大事だ。だが閣下は現実を見る人だ。情に加えて、数字と実例、両方を揃えねぇとな」
そこでガイウスが初めて口を開いた。
「私からも一つ、言っておく」
一同の視線が集まる。
「子爵は──そして、おそらく組合も、識字率の向上そのものを問題にしているわけではない。彼らが恐れているのは、それによって彼ら自身の立場が揺らぐことだ」ガイウスは静かに続けた。「つまり、視察で示すべきは、識字が村にとってどれほど益になるかだけでは足りない。閣下にとっても、これが脅威ではなく、利益になり得るという道筋を見せてやる必要がある」
レオは目を見開いた。「兄上……」
「勘違いするな。お前に肩入れしているわけではない」ガイウスはそっぽを向いたが、その口調にはどこか照れも滲んでいた。「ただ、貴族としての駆け引きなら、お前より私の方が分かる。閣下を追い詰めるのではなく、退路を用意してやるのが得策だ」
ドノヴァンが感心したように頷いた。「なるほど……閣下が『認可する』と決断しやすい形を、こちらから作ってやるわけですな」
「たとえば」ガイウスが続ける。「識字率の向上によって、村の納税や取引の記録が正確になり、不正が減る。それは領主にとっても、税収の安定という利益になる。閣下にそう説明できれば、話は違ってくる」
レオは深く頷いた。「税の記録……そういえば、この村では長年、収穫量の申告を組合の言い値に頼らざるを得ませんでした。文字と数字が使えるようになった今なら、村自身で正確な収穫記録をつけられます」
「それだ」ガイウスの目が光った。「その記録を、視察の場で示せ。組合が村から不当に搾取してきた分だけ、実は子爵領の正規の税収が目減りしていた可能性がある──そう匂わせれば、閣下は組合よりも、自分の利益を選ぶかもしれん」
場が静かにざわめいた。ミアがぽつりと言った。
「兄上様は……本当にレオ様のことを、心配してくださっているんですね」
ガイウスは咳払いをして目をそらした。「勘違いするなと言っただろう」
その不器用な否定に、ノアがくすりと笑い、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
その夜から二日間、村人たちは総出で準備に取り掛かった。ガレットとトビーは帳簿を清書し直し、エマは母の手紙を丁寧に写し取り、ノアは水車小屋の使用料記録を年ごとにまとめ直した。ミアは子供たちに、視察の日に何をどう見せるか、簡単な手順を教えて回った。
レオはその様子を眺めながら、静かな感慨を覚えていた。かつて自分がひとりで始めた小さな試みが、今では村全体の意志として動いている。
三日目の夜、月明かりの下、レオは井戸端でひとり書類に目を通していた。そこへガイウスが歩み寄ってきた。
「眠れないのか」
「兄上こそ」
ガイウスは小さく笑い、隣に腰を下ろした。「……お前が辺境に送られたと聞いたとき、正直、ほっとした部分もあった。厄介者が目の前から消える、とな」
レオは黙って耳を傾けた。
「だが今、ここに来て思う。お前は無能などではなかった。ただ、家では使い道のない力を持っていただけだ」
「兄上」
「明日は、私にできることをする」ガイウスは立ち上がり、夜空を見上げた。「魔力でも剣でもない戦い方があるというなら、それを見せてもらおうか、レオ」
月明かりの下、二人の兄弟は、翌日に迫った運命の視察に向けて、それぞれの覚悟を静かに固めていた。




