第32話 兄と弟
馬車の扉が開くと、ガイウスは供の従者ひとりだけを連れて降り立った。旅装であるにもかかわらず、その所作には伯爵家の後継者らしい隙のなさがあった。村人たちは慌てて頭を下げようとしたが、レオが小さく手で制した。
「兄上が、こんな辺境まで」
「驚いたか」ガイウスの声は記憶にあるものより幾分低く、そして硬かった。「子爵からの報告書が実家に届いた。辺境の村で識字率が急激に上がっている、と。しかも、その中心にいるのが──魔力なしの四男だと」
視線が村を一巡する。畑仕事の合間に木札を手にした農夫、家の壁に貼られた文字の練習跡、井戸端で誰かに手紙を読んで聞かせている少女。ガイウスの目に、それらがどう映っているのか、レオには読み取れなかった。
「ヴィンセント兄上から、何か聞いていますか」
「あれの報告は当てにならん。手柄話に色をつける癖がある」ガイウスは短く答えた。「だから自分の目で確かめに来た。父上には、まだ話していない」
その言葉に、レオはわずかに眉を上げた。独断で来たということだ。
ちょうどそこへ、ガレットが杖をつきながら歩み寄ってきた。かつて「文字など不要」と誰よりも頑固だった老人は、今では村の顔役の一人だった。
「これはこれは、レオ様の御兄弟様で。せっかくおいでいただいたのなら、うちの寺子屋、見ていってくだせぇ」
ガイウスの片眉がわずかに動いた。「寺子屋、だと」
「へえ。伯爵家のお坊ちゃまがたには、鼻で笑われるような、粗末なもんですがね」ガレットはそう言いながら、目だけは笑っていなかった。「見てから笑うも笑わねぇも、決めてくだされば結構」
案内されたのは、村の集会所を改装した小さな学び舎だった。中では午後の授業が始まっており、ノアが数人の年下の子供たちに、板に書かれた文字を指しながら教えている最中だった。
「いいか、この字とこの字、似てるけど違うだろ。ここが繋がってるかどうかで意味が変わる。適当に書くと、羊が三頭なのか三十頭なのか分からなくなって、後で泣くのは自分だぞ」
子供たちがどっと笑う。ガイウスは戸口でその光景を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「あの少年は……」
「ノアです。半年前までは、文字なんて腹の足しにもならないと言っていました」レオは静かに言った。「今は、自分の家族を守るために誰よりも真剣に学んでいます」
奥の机では、エマが年配の女性に寄り添い、一枚の古い手紙を一緒に読んでいた。時折、女性が目元を拭う仕草を見せる。
「あちらは、亡くなった夫からの手紙を、初めて自分の目で読んでいるところです」
ガイウスは何も言わなかった。ただ、その横顔には、レオが見たことのない色──困惑とも呼べる、揺らぎのようなものが浮かんでいた。
「……お前が、これを」
「私だけの力ではありません。学んだのは、村の人たちです。私はただ、きっかけを作っただけです」
「謙遜か」
「いいえ」レオは兄の目をまっすぐ見た。「本当のことです。私にできたのは、前世──いえ、以前学んだやり方を、ここに持ち込んだだけです。変わったのは、村の人たち自身の力です」
ガイウスはしばらく黙って、それから低く問うた。「魔力もない、剣才もない。家では誰からも見向きもされなかったお前が……ここでは、誰もがお前を頼っている。それがどういう気分だ」
その問いには、これまでガイウスがレオに向けたことのなかった響きが混じっていた。侮蔑でも、憐憫でもない。何か、確かめるような響き。
レオは少し考えてから答えた。
「怖いです、正直に言うと」
意外な答えだったのだろう、ガイウスがわずかに目を見開いた。
「頼られるのは、嬉しいです。でも同時に、自分が間違えば、この人たちの生活を壊してしまうかもしれない。だから怖い。魔力があれば、剣が使えれば、こんな怖さは感じずに済んだのかもしれません」
「……それでも、続けるのか」
「はい」レオは迷わず頷いた。「怖くても、これが自分にできる、唯一のことですから」
ガイウスは何も返さなかった。ただ、集会所の中の光景──誰もが文字を通して何かを取り戻していく光景──を、もう一度ゆっくりと眺めた。
その沈黙を破ったのは、外から駆け込んできたミアだった。
「レオ様、大変です! 街道の方から、ヴォルフ子爵様の使いが──」
言いかけて、ミアはガイウスの姿に気づき、はっと足を止めた。
ガイウスが振り返る。その表情には、来たときの硬さが、わずかに崩れていた。
「子爵の使者と、伯爵家の私が、同じ日に鉢合わせか」彼は小さく息を吐いた。「面白いことになってきたな、レオ」




