第3話 寺子屋、始めます
ミアが自分の名前を書けるようになってから、数日が経った。
その間、俺は村長の家の裏にある小さな納屋を借り受け、簡単な「教室」を整えることにした。といっても、大したものは作れない。木の板を並べただけの机、炭で書ける黒板代わりの板、そして例の文字かるた。前世の学校とは比べ物にならない、粗末な設備だった。
それでも、ミアは毎日欠かさずやってきた。数日のうちに簡単な単語をいくつも読めるようになり、今では短い文まで拾い読みできるようになっている。
「レオ様、これ……読めました」
村の掲示板に貼られた古い御触れ書きの写しを手に、ミアが興奮した様子で駆けてきたのは、その週の終わりのことだった。
「税に関するお達しです。今年は、道普請の負担が例年より重くなる、と」
「それを、自分で読んだのか」
「はい。今まで村長の父が読み上げるのを聞くだけでしたけど……自分の目で確かめられると、こんなに違うものなんですね」
誇らしげな顔。それを見て、俺は前世で味わったことのない充実感を覚えていた。教え子の成長を、これほどまっすぐに喜べたことが、前世であっただろうか。
「俺も、混ぜてくれよ」
納屋の入り口から、ぶっきらぼうな声がした。振り返ると、井戸端で悪態をついていたあの少年──ノアが、腕を組んでこちらを睨むように立っていた。
「勉強なんてやる気ねえけど、その木の板遊びは、ちょっと気になる」
「素直じゃないな」
「うるせえ」
そう言いながらも、ノアはミアの隣にちゃっかり腰を下ろした。俺は苦笑しながら、彼にも文字かるたを渡す。
案の定、最初は乱暴に木片を扱い、まるで身が入っていない様子だった。だが、絵合わせのようにして遊べる形式が、思いのほか彼の性に合っていたらしい。負けず嫌いなのか、ミアが先に正解を出すたびに、悔しそうにむきになって次の札を探し始めた。
その日の終わりには、ノアも自分の名前──「ノア」の二文字を、たどたどしくだが並べられるようになっていた。
「……べつに、大したことじゃねえし」
そう言って顔を背けながらも、木片を仕舞う手つきは、どこか名残惜しそうだった。
翌週には、ミアとノアの噂を聞きつけた他の子供たちも、恐る恐る納屋を覗きにくるようになった。最初は遊び半分、冷やかし半分だった子供たちも、実際にかるたで遊んでみると、いつの間にか夢中になっている。数日のうちに、納屋には五、六人の子供が集まるようになっていた。
だが、良いことばかりではなかった。
「レオ様。折り入って、お話が」
ある日の夕方、村長のドノヴァンが、珍しく硬い表情でやってきた。
「何人かの親から、苦情が出ております。子供に読み書きなど覚えさせて、何になるのか、と。畑仕事や家の手伝いをする時間が減っては困る、という声が」
「……そうか」
予想はしていた。この村では、子供は貴重な労働力だ。読み書きが直接、畑を耕す力にはならない。目に見える成果がなければ、反発が出るのは当然のことだった。
「わし自身は、ミアの様子を見ておりますので、理解しております。ですが村全体となると……」
「わかった。急がず、少しずつでいい。無理に人数を増やそうとは思っていない」
そう答えながらも、内心では、この壁をどう越えていくべきか、頭を巡らせていた。前世でも似たようなことはあった。「勉強なんて意味がない」と言う保護者。そういう相手には、理屈よりも、目に見える変化を見せる方が早い。時間はかかっても、続けていれば、いずれ結果は出る。
その夜、納屋を出て屋敷への道を歩いていると、村の入り口に見慣れない一団が近づいてくるのが見えた。派手な装飾の馬車を数台連ねた、明らかにこの村には不釣り合いな一行。先頭に立つ、恰幅の良い男の胸元には、見覚えのある紋章が縫い付けられている。
「あれは……」
隣を歩いていたドノヴァンの顔から、みるみる血の気が引いていくのがわかった。
「グリンウォード交易組合……」
その名を口にする声は、震えていた。
「なぜ、この時期に……」
一団は村の中心に向かって、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。先頭の男の視線が、一瞬だけ、俺たちが出てきた納屋の方向へと向けられた気がした。
その目に浮かんでいたのは、値踏みするような、冷たい光だった。




