第2話 一人の生徒、最初の成功
翌朝、俺は村長に頼み込んで、村の様子をもう少し詳しく見せてもらうことにした。
「坊ちゃんがそんなことを気にされるとは、思いませんでしたな」
村長──ドノヴァンという名の初老の男は、そう言いながらも案内を買って出てくれた。歩きながら聞いた話は、昨日目にした光景の答え合わせのようなものだった。
「文字が読める者は、この村にはほとんどおりません。わし自身、自分の名前が書ける程度で……」
「行商人との取引は、いつもああなんですか」
「ああなんです、としか。向こうの言い分を信じるしかありませんからな」
そう言うドノヴァンの声には、諦めが滲んでいた。責めているわけでも、憤っているわけでもない。ただ、それが当たり前だと受け入れてしまっている。その諦めの深さに、俺は前世の記憶を重ねずにはいられなかった。
「──お父様」
背後から声がかかった。振り返ると、栗色の髪をした少女が、こちらへ駆け寄ってくるところだった。年の頃は十五、六ほど。ドノヴァンの娘らしい。
「ミア、こちらは伯爵家のレオ様だ。失礼のないように」
「……村長の娘、ミアです」
礼はきちんとしていたが、その目にはどこか硬さがあった。歓迎というより、警戒に近い色。無理もない、と俺は思った。よそから来た貴族の子息を、手放しで信用する理由などないのだから。
その日の午後、俺はもう一度村を歩き、契約の場に居合わせた例の老人を訪ねた。事情を聞くと、案の定というべきか、契約の内容は種籾の融通と引き換えに、翌年の収穫の大半を先渡しで抑えるという、かなり一方的なものだった。老人はそれを、契約時にはまるで理解していなかった。
「──この村は、ずっとこうやって、少しずつ奪われてきたんです」
いつの間にか隣に来ていたミアが、ぽつりと言った。
「三年前、うちも危うく土地を取られかけました。父が、行商人の口約束を信じて印を押しかけて。……たまたま隣村から来ていた行者様が字を読める方で、止めてくださったから、事なきを得ましたけど」
「もし、いなかったら」
「今頃、うちの畑は組合のものになっていたでしょうね」
淡々とした口調の奥に、押し殺した悔しさがあるのを、俺は感じ取った。
「大人たちが、字さえ読めたら。そう思ったことは、何度もあります。……でも、今さら言っても仕方のないことです」
「仕方なくは、ないと思う」
思わず、口をついて出た。
ミアが驚いたようにこちらを見る。俺自身、自分の言葉に少し驚いていた。だが、口にしてしまった以上、後には引けない。
「読めるようになれば、いい。今からでも」
「……坊ちゃんが、字を教えてくださるとでも?」
半信半疑、というより、ほとんど信じていない目だった。それも当然だ。貴族の四男が、辺境の村娘に読み書きを教えるなど、この世界の常識では聞いたこともない話だろう。
「教え方には、少し自信がある」
前世のことは口にできない。だが、それだけは本当だった。
その日の夕方、俺は村長の家の片隅を借りて、手近にあった木の板と炭を使い、簡単な道具を作ることにした。文字を一文字ずつ書いた木片と、それに対応する簡単な絵を描いた木片。前世で、成績の振るわない生徒たちのために作った「文字かるた」の記憶を頼りに、見よう見まねで再現していく。
「これは、何をなさっているんです?」
不思議そうに覗き込むミアに、俺は木片を並べて見せた。
「遊びだと思って、やってみてほしい。この絵に合う文字の札を探すだけだ」
半信半疑のまま、ミアは木片に手を伸ばした。最初はぎこちなく、何度も間違えながら。それでも、絵と文字を結びつける作業を繰り返すうちに、少しずつ手が迷わなくなっていく。
「──これ、"みず"、ですか」
「そう。よくわかったな」
「……なんとなく、形が覚えられる気がします」
数刻ほど繰り返した頃、ミアは自分の名前──「ミア」という二文字を、ゆっくりとだが、迷わずに並べられるようになっていた。
「できた……」
木片を並べ終えた自分の名前を、ミアはしばらく黙って見つめていた。それから、震える指先でそっとそれに触れる。
「わたしの、名前……」
声が、微かに揺れていた。
「今まで、自分の名前がどんな形をしているかすら、知りませんでした。父が呼ぶ声でしか、知らなかった」
顔を上げたミアの目には、涙が滲んでいた。それを恥じるように急いで拭いながら、それでも彼女は笑っていた。
「もう一度、やってもいいですか」
「もちろん」
その夜、俺はドノヴァンにも今日のことを報告した。彼は驚き、そして少し複雑そうな顔をしたが、最後には「娘がそこまで喜ぶなら」と、渋々ながらも認めてくれた。
翌日。ミアが木片を並べて自分の名前を書いて見せる様子を、井戸端で水を汲んでいた数人の子供たちが、遠巻きに眺めていた。その中に、ひときわ大きな声で茶化す少年がいた。
「なんだそれ、木の板遊んでるだけじゃねえか」
「ノア、そんな言い方──」
「だって本当のことだろ。文字なんて覚えたって、腹の足しにもならねえよ」
そう言い捨てながらも、少年──ノアと呼ばれたその子は、ちらちらとこちらの様子を窺うのをやめなかった。
その目には、隠しきれない好奇心が滲んでいた。




