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識字率0%の辺境で、元教師の無能転生者が学校を作ることになった件  作者: 菊池まりな


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第1話 役立たずの四男、辺境送りになる

 黒板にチョークが当たる音が、やけに乾いた音を立てる。


「先生、これ何回説明したら覚えられるんですか」


 生徒の一人がそう言って、机に突っ伏した。俺は苦笑いを浮かべながら、もう一度同じ問題を、少し違う言い方で説明し直す。授業が上手いわけじゃない。むしろ下手な部類だと自覚していた。それでも、わからないと言う生徒の隣にしゃがみこんで、根気強く付き合うことだけは、誰にも負けないつもりだった。


──そこまで思い出したところで、目が覚めた。


「……また、あの夢か」


 天蓋付きのベッドの中、俺──レオ・フォン・アルダートは、前世の記憶をゆっくりと胸の奥にしまい込んだ。万年ヒラ教師だった男の記憶。異世界の伯爵家四男として転生してから、もう十五年になる。


 エグバルト王国、アルダート伯爵領。父ハインリクは剣と魔力を重んじる武門の当主で、長男ガイウスは幼い頃から膨大な魔力を発現させ、次期当主として周囲の期待を一身に受けていた。次男ヴィンセントは社交界での成り上がりに余念がなく、三男クレイグは可もなく不可もなく、家の中で存在感を薄めて生きている。


 そして四男の俺には、魔力がなかった。


 剣の才もない。この世界では、それはほとんど「人間として欠陥がある」と同義だった。


「レオ、お前は今日からグレンモア地方、ヴォルフ子爵領のエルバン村へ行ってもらう」


 父にそう告げられたのは、つい三日前のことだ。表向きは「辺境の視察と経験を積むため」。だが、その場にいた誰もが──兄のガイウスでさえ──それが体のいい追放だと理解していた。


「魔力なしが家にいても、恥をさらすだけだからな」


 ガイウスは去り際、そう吐き捨てた。悪意というより、幼い頃からそう教え込まれてきた者の、当然の物言いだった。俺はそれに言い返す気力もなく、ただ荷物をまとめた。


 馬車に揺られること五日。窓の外の景色は、豊かな穀倉地帯からやがて痩せた土地へ、そして鬱蒼とした森へと変わっていった。エルバン村へ着いた頃には、日はすっかり傾いていた。


 村の入り口で、俺はその光景を目にした。


 粗末な商人の荷馬車の前で、白髪の老人が地面に膝をつき、震える手で一枚の紙──おそらく契約書らしきもの──を差し出されていた。


「爺さん、ここに印さえ押してくれりゃあ、今年の分の種籾は融通してやるって言ってるんだ。なあに、難しいことは書いてねえよ」


 行商人らしき男が、へらへらと笑いながらそう言う。老人は紙に書かれた文字を、ただ困ったように見つめるだけだった。読めていない。いや──読めないのだ。


「ワシには、その……字が」


「分かってるって。だからあんたの代わりに、俺が全部説明してやってるんじゃないか。ほら、この印を押すだけだ」


 老人はしばらく躊躇っていたが、結局、震える指に朱肉をつけ、紙に押し付けた。行商人の口元が、一瞬だけ歪んだ笑みを見せたのを、俺は見逃さなかった。


──ああ、これは。


 前世で、似たようなものを見たことがある。契約書の細部を読まずにサインして、あとで泣きついてきた生徒の保護者。悪意ある業者に言いくるめられた、独居の高齢者。「読めない」「わからない」ということが、これほどまでに人を無防備にするのだと、俺は嫌というほど知っていた。


 村の中をさらに歩くと、似たような光景がいくつも目に入った。値札の数字を誤魔化されている露店。よそ者が読み上げる「お触れ書き」の内容を、ただ黙って聞くしかない村人たち。誰も文字を疑わない。疑いようがないのだ。読めないのだから。


「坊ちゃん、こちらへどうぞ。粗末な家ですが」


 案内役の村長──初老の男が、恐縮した様子で俺を屋敷、と呼ぶにはあまりに簡素な木造の館へと通す。伯爵家の四男というだけで、辺境の村では相応の敬意を払われるらしい。皮肉なものだ、と俺は思う。魔力も剣の才もない、家では厄介者扱いされている俺が、ここでは「貴族様」なのだから。


 夜、あてがわれた部屋の窓から、村の灯りを見下ろしながら、俺は昼間の光景を何度も反芻していた。


 魔力がない。剣も使えない。貴族としての社交術もない。前世で培ったものといえば、生徒の隣にしゃがみこんで、わかるまで付き合う根気強さだけ。そんなものが、この世界で何かの役に立つとは、正直これまで思ったこともなかった。


 けれど。


「──これは、知識の差だ」


 ぽつりと、声が漏れた。


 騙されていたのは、才能の差でも、身分の差でもない。ただ、文字が読めるか読めないか。それだけの差だった。剣も魔力も持たない俺には、遠い問題だと思っていたその差に、俺は前世で誰よりも近い場所にいたはずだった。


「わからない」に付き合うことだけは、誰にも負けないつもりだった。


 窓の外の灯りを見つめながら、俺は静かに、けれど確かに、そう思った。


──もしかしたら、俺にもできることが、あるかもしれない。


 その夜、レオ・フォン・アルダートは、まだ誰も知らない小さな決意を、辺境の村でひとり固めていた。




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