第26話 兄の苛立ち
アルダート伯爵邸、執務室。
ガイウスは報告書を机に叩きつけるようにして置いた。羊皮紙の擦れる乾いた音が、静まり返った部屋に響く。
「馬鹿げている」
「馬鹿げている、とは?」ヴィンセントが優雅に椅子に腰掛けたまま、片眉を上げた。「事実として、エルバン村の識字率は四割を超えている。これは子爵家からの正式な報告書ですよ、兄上」
「魔力もなく、剣も握れぬ落ちこぼれが、辺境の百姓どもに文字を教えたところで何になる」ガイウスは吐き捨てるように言った。「所詮、児戯に過ぎん」
「児戯、ですか」
ヴィンセントは、わざとらしく報告書を手に取り、内容を読み上げるふりをした。
「『識字率向上に伴い、村の経済活動に顕著な変化が見られる。行商人との取引において、村側が不当契約を看破する事例が複数報告されている』……ふむ、児戯にしては、ずいぶんと具体的な成果ですね」
そう言うと、ヴィンセントは報告書を机に戻した。
「おや、これは失礼」ヴィンセントは口元に笑みを浮かべたまま続けた。「ですが兄上、これは看過できる話ではないと思いますよ。ヴォルフ子爵家が直々に視察に赴くほどの騒ぎになっている──それはつまり、グリンウォード交易組合の利権にも影響が及んでいるということです」
ガイウスは押し黙った。彼自身、報告書の内容を読んで、苛立ちの奥に──言葉にはしたくない何かを感じていた。
魔力なき四男。生まれつき何も持たぬ者として、家族の誰もがレオを憐れみ、あるいは軽蔑してきた。ガイウス自身、幼い頃から「魔力こそが貴族の価値を決める」という価値観を、当然のものとして叩き込まれてきた。それは疑うべきものではなく、世界の理そのものだった。
だからこそ、その理から最も遠い場所にいたはずの弟が、辺境の片隅で何かを成し遂げつつあるという事実が、ガイウスの中の何かを苛立たせる。
「……それで、ヴィンセント。お前は何が言いたい」
「別に、大したことではありません」ヴィンセントは肩をすくめた。「ただ、これは使いようによっては、面白い駒になるかもしれない、と思っただけです」
「駒、だと?」
「レオが辺境で成功を収めているという噂は、いずれ王都にも届くでしょう。その時、アルダート伯爵家がどう出るか──『家族として支援していた』という体裁を整えておけば、家の評判にとってもむしろ有益かもしれません」
ガイウスは弟の顔を、しばし冷ややかに見つめた。ヴィンセントらしい、実にちゃっかりとした計算だ。
「お前は、レオを利用するつもりか」
「利用、とは人聞きが悪い」ヴィンセントは笑みを崩さなかった。「協力、と言っていただきたいですね。もっとも──兄上がどうしてもお認めになれないのなら、私が単独で動いても構いませんが」
「……好きにしろ」
ガイウスは低く言い放つと、報告書を乱暴に脇へ押しやった。だがその視線は、しばらくの間、机の上の書類から離れなかった。
窓の外には、夕暮れの光がアルダート伯爵領の広大な庭園を照らしている。魔力に恵まれ、剣才に恵まれ、後継者として何一つ不自由なく育てられてきたはずの自分。それなのに今、辺境に追いやった「無能」の弟の名が、こうして自分の執務室にまで届いている。
「……魔力だけが、力ではないだと」
誰にともなく呟いたその言葉は、部屋の静寂に溶けて消えていった。
一方その頃、屋敷の別の一角では、三男クレイグが窓辺に佇み、遠く霞む山並みの方角――弟が送られたグレンモア地方の方角を、ぼんやりと眺めていた。
その手には、使用人からこっそり回してもらった、あの報告書の写しが握られている。
「……やるじゃないか、レオ」
誰に聞かれるでもなく、クレイグは小さく呟いた。その口元には、兄たちには決して見せない、静かな笑みが浮かんでいた。




